第四話
翌朝、登校した瞬間、私は肺の奥を撫でられるような妙な浮遊感を覚えた。
いつもなら小野井の声が支配していた空間、それが今は凪だ海のように静まり返っている。席に着くと、ほどなくして担任の教師が教室に入ってきた。
その足取りは鉛でも引きずっているのかのように重く、教壇に置かれた拳は震えている。
「…皆さんに、伝えなければならないことがあります。小野井ちよさんが、昨晩、亡くなりました」
静寂が、一瞬で悲鳴混じりのざわめきに変わる。
「先生、噓でしょ!?ちよが死んだって、どういうこと!?」
取り巻きの一人が椅子を蹴って立ち上がった。彼女の問いに、教師は奥歯を噛みしめ、苦虫を噛み潰したような顔で視線を落とした。
「警察の捜査が入っているため、詳細は言えない。ただ…」
教師の声が、かすかに震えた。
「あまりに凄惨な最期だったそうだ。心当たりのある者は、後で個別に相談に来なさい」
凄惨な最期、その言葉を聞いて脳裏によぎったのは、ミキサーの耳障りな回転音だった。
おそらく彼女は、私が小人達にしたことと同じ軌跡を辿ったのだろう。あるいは、私の知らないどこかで、彼女に恨みを持つ別の誰かが同じタイミングで引き金を引いたのかもしれない。
どちらにせよ、瓶に閉じ込められた彼女達が消えた時、現実の彼女もまた、この世界に繋ぎ止める術を失ったのだ。
放課後、帰宅した私の鼻を突いたのは、換気扇でも吸いきれないほど濃厚な油の匂いであった。リビングへ向かうと、普段なら仕事で不在のはずの母親が、背中を丸めてフライパンを握っている。
「おかえり。今日は仕事、早めに切り上げてきたの」
「お母さん、何作ってるの?」
母は振り返らず、軽快に卵の殻を割る。カツンと乾いた音が、私の頭蓋骨に直接響いた。
「昨日、あなたが卵をたくさん買ったでしょう?だから、今日はあなたの好きなハムエッグよ」
差し出された皿の上には、つややかな白身に閉じ込められた瑞々しい卵黄が鎮座している。昨日までなら、食欲をそそる黄金の宝石に見えたはずだ。
けれど、今の私にはそれが破裂を待つ膿疱か、あるいは今にも産声を上げそうな不気味な卵のうにしか見えなかった。
「…ごめん、私、もう卵は食べられない」
胃の底からせりあがる酸っぱい液体を飲み込み、私は皿を押し戻した。母は目を点にして、不思議そうに首を傾ける。
「あら、あれだけ食べていたのに?飽きちゃったの?」
「飽きたんじゃないけど…これからも、私のご飯に卵は入れないで」
母は「もったいないわね」と呟き、その皿を自分の前に置いた。彼女が無造作に箸を突き立て、卵黄がどろりと溢れ出すのを見た瞬間、私は逃げるように台所へ向かう。
爪楊枝やらミキサーやらが片付けられている戸棚の奥から、使い慣れたインスタントラーメンを取り出す。
丼に沸騰した湯を注ぎ、麺がふやけるのを待つ。麺の中央にある窪みは、今はただの虚無として口を開けていた。
「いただきます…」
すすり上げた麺は、ひどく味気なかった。熱いスープが喉を通るたび、この欠落した食事こそが日常なのだと、脳が無理やり書き換えられていくのを感じる。
あの日以来、私は後天性の卵アレルギーになった。卵という文字を見るだけで、鳥肌が現れて呼吸が浅くなる。もし誤って一滴でも口にすれば、私は泡を吹きながら死んでしまうだろう。
この症状と、数日間にわたる不可解な出来事との因果関係は、誰にも証明されないままだ。ただ、私の胃袋だけが、あの日飲み込み損ねた彼女の味を、一生忘れさせてはくれなかった。
【閲覧注意】孵化、そして増殖する少女〜卵を割ると、そこには裸のいじめっ子が座っていた。〜 月雲とすず @tukigumots8
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