第二話
翌朝、私は引き出しの中の秘密に触れないまま、リビングへ降りた。台所からは小気味よいフライパンの音が響いている。
「おはよ。いつも食べてるハムエッグ、早く食べて準備しちゃいなさい」
母親が差し出したのは、ハムの上につややかな目玉焼きが鎮座する一皿だった。
「うん、いただきます」
箸で突き崩した濃厚な黄色い液体を、白米と絡めて口へ運ぶ。無心に咀嚼を繰り返していると、洗い物をしていた母親が、不意にこちらに向いた。
「そういえば、前までは卵なんて全く食べなかったのに。いつから卵好きになったのかしら、この子は」
母親の疑問に答える暇もないまま食事を終えた私は、そそくさと食器を預けて家を出ていった。
登校した教室はいつも以上に騒がしく、澱んだ熱気に包まれていた。
「ちょっと、ちよ!!その足、どうしたの!?」
取り巻き達の問いかけに、私は自分の席へ向かう足を止めた。小野井ちよ、彼女は教卓の側で椅子に深々と腰掛けている。普段なら教室を闊歩している彼女の片脚には、異様なほど厚い包帯が巻き付けられていた。
それは、私が小人の足にガーゼを巻いた場所と、寸分違わぬ位置だった。
「いやさ、昨日の夜に、揚げ物してたんだけどね?」
小野井は眉を寄せ、忌々しそうに包帯を指差した。
「手が滑って鍋をひっくり返しちゃってさ。油が足にかかっちゃったのよ」
「え~、熱そう」
私は心臓の鼓動が耳元で鳴るのを感じた。偶然だろうか、あの中に閉じ込めた彼女の縮図が受けた苦痛を、現実の彼女も体験している。
「お~い、沖浜!!ちょっといいか?」
担任の野太い声が、私の思考を遮った。用があるならこちらに来ればいいものを、私は重い腰を上げて教卓へと歩き出す。
不自然に包帯を巻く小野井の横を通り過ぎようとした、その時だった。
「っ…わ!?」
突然、視界が大きく傾いた。私の足首に、重く硬いものが引っ掛かったのだ。
派手な音を立てて床に這いつくばると、火花のような痛みが額に走った。頭上から、ケラケラとした笑い声が降ってくる。
「ちょっと、いった~い!沖浜さん。私の怪我してる足にぶつからないでくれる?」
振り向くと、小野井が包帯を巻かれた足をわざとらしく突き出し、唇を尖らせていた。
「ノロマなんだから、周り見て行動しようねぇ?」
周囲から漏れる忍び笑いに、床に押し付けた私の手のひらに爪が食い込む。私は無言で立ち上がり、服の埃を払った。視界の端で、小野井の包帯の白さが、昨日の茹で上がった卵白の色と重なって見えた。
帰宅した私は、飢えた獣のように冷蔵庫を漁った。昨日の麺を食べて以来、胃に得体のしれない穴が空いているようだった。
「…ハムエッグでいいか」
エッグポケットに残っている三つの卵を取り出し、油を敷いたフライパンにハムを置いて着火する。パかッという乾いた音を伴い一つ目の殻を割り落とした、その瞬間。
「いったぁーい!!ちょっと、顔が傷ついたらどうするのよ!!」
油の海に放り出されたのは、あの女に酷似した小人であった。
「ま、また…!?」
油まみれの彼女を小皿に移すと、私は狂ったように残りの卵を次々と叩きつけた。割れるたび、ぬるりとした粘液と共に二匹、三匹と同じ顔が産み落とされていく。
「な、何なのよこれ…」
小皿の中は、既に地獄のような光景だった。細い手足が絡み合い、濡れた髪が混ざり合う。彼女達は互いの裸体を踏み台にして這い上がろうとし、そのたびに卵白がぴちゃ、ぴちゃと卑猥な音を立てた。
「うわ、なんかこう見たらキモイね」
「わかる、自分がいっぱい居るみたい」
非現実的な状況を前に立ち尽くす私をよそに、彼女達は談笑を始める。
「ていうか、あなた何?まさか、私達を食べようとしてたの?」
「ヤバくない?普通に考えて、人を食べるとか」
「見た目からしてヤバいし、集団行動とかできなそ~」
否定しようとする私の声は、彼女達の嘲笑にかき消された。フライパンの上で熱された油が爆ぜると、戸棚から一本の爪楊枝を取り出す。パチパチと油が飛び跳ねると、私は一番威勢よく吠えていた一体を鷲掴みにした。
「え…ちょっと待って…何をしようとしてるの?」
彼女を宙で逆さに吊るし、強制的にその股を開かせる。
「あ。ちゃんとあるんだ、女の子のところ」
見下ろす身体は小さいが、造りは人間そのものだ。私はその柔らかな隙間に向かって、後ろが丸まっているタイプの楊枝をゆっくりと、しかし確実に突き立てた。
「ぎゃああああっ!!痛い、痛いっ!!抜いてっ!!」
耳をつんざく悲鳴、同時に小皿の上でうごめいていた他の小人達も、一斉に身体を折り曲げた。全員が同じ場所を抑え、顔を青白くさせて泡を吹いている。
私は爪楊枝を奥までえぐるように念入りに、そして乱暴にかき混ぜた。一人への加害が、共有された神経を伝い、すべての個体を襲う。
「これで、わかった?私の言うことは聞くことね」
泣き叫び、懇願する彼女から楊枝を引き抜いてやる。脱力し、震える彼女達をどうしようかと迷ったあげく、私は大きめの瓶へと乱暴に詰め込んだ。自室の引き出しを開けると、昨日の小人も同様に下腹部を押さえて咽び泣いている。
「じゃあ、みんなここに入ってね」
「ちょっと、みゆ!!」
瓶を引き出しの奥へ隠した時、一階から母親の怒声が響いた。
「あなた、どれだけ卵つかったのよ。これじゃ今日の献立変わっちゃうじゃない、明日の朝ごはんもないわよ」
割られた卵の殻を前に呆れる母親に、私は深く頭を下げた。
「ごめん、明日の帰りに買ってくるよ」
冷蔵庫に貼られたチラシに目をやる。明日は、近所のスーパーの特売日だ。
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