【閲覧注意】孵化、そして増殖する少女〜卵を割ると、そこには裸のいじめっ子が座っていた。〜

月雲とすず

第一話

 平日の昼下がり、学校から帰ってきた私、”沖浜みゆ”はやかんを火にかけた。慣れた手つきでインスタントラーメンを開封し、丼ぶりに据える。麺の中央にある卵を受け入れるための窪みが、今日はなぜか寂しげに見えた。


 ーー「あまり目立たないほうがいいんじゃない?ノロマなんだから」


 教室で投げつけられた言葉を振り払うように、冷蔵庫からひとつの卵を取り出した。卵黄を迎え入れる準備をして卵の殻を破ると、守られていた中身がずるんとこぼれ出す。粘液をまとい落とされた中身を見て、私は口をぽかんと開けた。


「……は?」


 揚げ麺の窪みに、小さな少女が腰を下ろしている。サイズは私の中指くらい。あまりに精密な、しかし布一つもまとわぬ全裸の肉体だ。


 試しに頬を強くつねってみる。爪に肉が食い込んで痛い。信じられない事態だが、夢ではないようだ。


 卵から生まれた小人だから、先人達を習って卵太郎や卵姫と名付けてみるか…いや、姿は赤子ではなく少女のため、一寸法師や親指姫と同じ類だろうか。


「ちょっと、あんた」


 くだらないことを考えていると、丼ぶりの少女から声を掛けられた。状況を整理するためにも耳を傾けようとしたその時、小人の姿を前に私は凍りついた。


「小野井…ちよ…さん?」


 不機嫌そうに細めた目尻の角度、口角を下げたその表情は、憎きあの女そのものであった。"小野井ちよ"は私のクラスの中心的な存在で、いつも取り巻きを連れて学校を闊歩している生徒である。


 飴を転がすような、しかし棘が含まれた声の少女のすべてが、小野井と酷似していた。


「はあ?誰よ、それ。じゃなくて、ここのベッド座り心地悪いんだけど?もっとふかふかの物とかないわけ?」


 自身のお尻をさすりながら、小人は不満を口にした。妙な緊張感をわずらった私は、彼女の顔色を伺いながら訪ねる。


「ご、ごめんなさい…それより、あなたは一体何者なんですか?」


「わたし?わたしは…誰なんだっけ」


 恐る恐る口を開いた私を横目に、首をかしげる小人。彼女自身も境遇がよくわかっていないようで、謎が増えるばかりだ。真実を解明するために、卵の販売元である養鶏場に連絡をしようとも考えた時だ。


「忘れちゃったし、もういいでしょ!ていうか、ここから降ろしてくれない?お尻がチクチクして痛いんだけど?」


 腕を前方で組んだ小人に、私は睨みつけられた。生物ならば自分より何十倍も大きい他の生物の前には委縮してしまうはずだ。しかし、どんな脅威にも怖気づかずに歯向かっていく性格も、あの女とそっくりである。


「ご、ごめん。すぐに、他の物みつけるから」


「はあ?何よ、使えないわね。こんなにノロマな人、はじめて見たわ」


 小人が言い放った一言を、私は聞き逃すことができなかった。布巾やら柔らかいものを探そうと戸棚を荒らしていた手を止め、無理やり上げていた口角を戻す。


「…ノロマ、ですか」


「ええ、ノロマじゃない。服装もダサいし、髪の毛だってぼさついてる。ここがどこかは知らないけど、気を付けたほうがいいんじゃない?」


 私は手のひらに爪が食い込むほど強く片手を握りしめる。やかんの蓋が、カタカタと震える音がかすかに鼓膜を揺らした。


「そもそも、あなたみたいな根暗っぽい人と喋るのもうんざりするのよ。もういいわ、私は自分でここから降りるから、あなたは消えてくれない?」


 蒸気を放出していたやかんの笛が、唐突に喉を掻き切られたような悲鳴を上げた。私は無言のままコンロの火を消し、熱を帯びた取っ手を握る。


 やかんの口から立ち昇る蒸気が、台所の風景をぐにゃりと歪ませた。その歪みの中に、麺の窪みで戸惑う小さな小野井がいる。


「ち、ちょっと…?あなた、何を…?」


 小人が顔を上げると、その瞳に銀色の注ぎ口が迫る。私は迷わず、指先に力を込めた。


 どぷどぷと、暴力的な音を立てて熱湯が放たれる。狙いは彼女ではなく、丼に乗った乾麺の縁であった。熱湯を浴びた揚げ麺が湿ると同時に、透明だった卵白が不透明な白へと変質していく。


「い、いやっ!やめて、熱い、熱いからっ!」


 立ち昇る猛烈な湯気が、小人の全身を包む。彼女の柔らかな肌は、一瞬で茹でダコのように鮮やかな赤に染まった。逃げようと足掻く彼女の爪先に、跳ね返った湯の飛沫が着弾する。


「ぎゃあああっ!あっつ、熱い!足が、私の足が!」


 小人がのたうち回るたび、固まりきっていないドロドロの卵白が、彼女の肌に容赦なく絡みつく。熱を帯びた粘液、それは彼女の皮膚を焼き続けるためのツタとなっていた。


「あまり喚かないで、耳障りだから」


 自分の声が、どこか遠くから聞こえるような錯覚に陥っていた。やかんを傾けていると、麺はスープを吸って膨張し、小人を載せた孤島は熱湯の中へと沈み込んでいく。


 彼女の爪先からふくらはぎにかけて、皮膚が白くふやけて剥がれ落ちていくのが見える。やかんが軽くなり、最後の一滴が落ちるまで私は視線を逸らさなかった。


 先ほどまで傲慢に毒づいていた少女は、今や白身の泥に半分埋もれ、ただ力なく痙攣している。その無様な姿を見下ろしながら、私は肺に溜まった熱い空気を吐き出した。


 私は箸の先で小人を掴み、戸棚から引っ張り出した布巾で受け止めようとする。どろりと糸を引く半熟の卵白が、彼女の肌から離れるのを惜しむように伸び、やがて切れた。


「ご、ごめんなさい…ひぐっ、うぐ…」


 さっきまでの威勢はどこに消えたのか、小人は布巾に顔を埋めて咽び泣いている。その足は火傷で赤黒く変色し、剥きたての果実のように痛々しい粘膜を晒している。

 

 私は小人をシンクへと運ぶと、細く出した流水に布巾ごと彼女を浸した。冷水に触れると小さな体が短く跳ね、指先に震えが伝わる。


「これで、少しはマシになるでしょ」


 救急箱から取り出したガーゼを爪の先で裂き、小人の腫れあがった足先に巻きつけてやる。これは慈悲ではなく、寿命を自分の手で少しだけ伸ばしてやっているという特権意識だ。


 小人を手のひらに乗せて向かったのは、自室の勉強机である。そこの二段目の引き出し、文房具やアクセサリーが埃を被って眠っている場所を開いた。文房具を隅へ追いやり、湿った布巾を敷いて、そこに彼女を横たえた。


 泣き疲れて眠ってしまった小人を見下ろしながら、ゆっくりと引き出しを閉じる。唐突に見舞われた信じ難い現象に頭をひねりながら台所に戻ると、私は静かに舌打ちをした。


「麺、伸びちゃってるじゃん…」


 熱湯を注がれたまま放置された麺は、スープを際限なく吸い込み器の縁まで膨張していた。先程までそこにいた少女の痕跡は、スープに浮いた僅かな脂の粒と、白濁した卵白の破片だけだ。


 丼をテーブルに移動させると、私は椅子を軋ませてから手を合わせた。箸を器へと突っ込むと、汁気を失った粘り気のある塊が絡まる。口に運んだ麺はひどく粉っぽく、芯までふやけていて、およそ食べ物と思えないほど不味かった。


 一嚙みするごとに、鼻腔を抜けるのは生臭い湯気の残り香だ。激しく咳き込みながらも喉の筋肉で無理やり押さえつけ、ただ咀嚼を繰り返す。


 最後の一本を飲み込み、私は空になった丼を眺めた。胃に溜まったのは食事後の満足感ではなく、石を飲んだような重い不快感だけであった。

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