プロローグ下

まだ太陽が顔を出していない早朝。

白み始めた東の空に向かって、俺は大きく息を吐いた。肺の奥まで冷たい空気が入り込み、眠気の残る頭を無理やり起こしてくる。


紫月の家の近くにある、小さな公園。

ブランコも滑り台も、今はただの影に見える。その真ん中で、俺はぼんやりと立ち尽くしていた。


――紫月が、出発する朝だ。


昨日の夜、「最後に少しだけ会いたい」と紫月から連絡が来た。

どうせなら夜のうちに会えばいいのに、と思ったが、こんな時間を指定するあたり、やっぱり紫月だな、とも思った。別れを、夜にしたくなかったんだろう。


「お待たせ」


背後から声がして振り返る。

紫月が小走りで近づいてきた。手には何も持っていない。荷物はもう、全部車に積んであるんだと思うと、それだけで胸の奥がざわついた。


「なんでこんな時間に」


ポケットに手を入れたまま、ぶっきらぼうに言う。


「だって、朝の空気って気持ちいいじゃん? 悠斗も、こうやって早起きするの、たまには悪くないでしょ?」


手袋を頬に当てて、にやりと笑う。

その表情があまりにもいつも通りで、俺はため息と一緒に軽口を返した。


「悪くはねえけどよ」

「まあまあ、ちゃんと起きてくれてありがとね」

「そりゃ、最後なんだから当然だろ」

「当然か……」


短くそう言った紫月の笑顔は、どこか無防備で。

それが逆に、胸の奥を鋭く刺した。


「……これが最後だと思うと、実感わかないな」


ぽつりと漏らした俺の言葉に、紫月も小さく頷いた。


「私も。まだあんまり実感わかない。でも、きっと忙しくなったら、そんな余裕もなくなるんだと思う」


俺は、紫月がアイドルになるという覚悟を、正直まだ完全には信じ切れていなかった。

幼馴染で、いつもふざけて、泣き虫で、強がりで。そんな紫月が、東京で、自分を商品みたいにさらけ出す姿が、どうしても想像できなかった。


沈黙が落ちる。

言わなきゃいけないことがあるのに、言葉にできない。その空気を、紫月も感じ取っているのが分かった。


そして紫月は、まるで俺がもっと遠くにいるかのように、少しだけ前を向いたまま言った。


「悠斗、お願いがあるの」

「お願い?」

「これから私がアイドルやってる間、連絡取るの禁止ね」


不意を突かれて、眉がひそむ。


「……なんでだよ」


驚きと、ほんの少しの怒りを隠すように、声を落とした。


「なんでって……うーん。私、悠斗と話すと、たぶん安心しちゃうと思うんだよね。そしたら、頑張れなくなっちゃうかもしれないし」


軽く言おうとしているのは分かった。

でも、その瞳は、いつもよりずっと真剣だった。


「本気で?」

「本気で」


真顔で言い切られて、それ以上何も言えなくなった。


「声を聞いたら、絶対帰りたくなっちゃうから。悠斗だって、私の声聞いたら、甘やかしたくなっちゃうでしょ?」


否定できなかった。

泣きつかれたら、迷わず東京まで迎えに行く自分が、簡単に想像できたから。


「その代わり、約束」


紫月が右手を差し出す。

ミトンの手袋の中で、きっと指を立てている。


「日記を書く」

「日記?」


思わず聞き返す。


「そう。悠斗も私も、毎日日記つけるの。そしてまた会えたときに、交換して全部読む」


淡々と、でも逃げ場を塞ぐみたいに言葉を重ねる。


「今日何があったか、何を思ったか。短くてもいい。それを毎日書いて、次に会った時に見せ合うの。離れてる間に、どれだけ変わったか。どんな風に大人になったか。その答え合わせ」


全部を受け止めるみたいな笑顔だった。


「ごめん。正直、よく分かんねえ」

「とにかく約束して。きっと、悠斗のためにもなるから」


無茶苦茶だと思った。

スマホ一つで、世界中と繋がれる時代だ。それなのに、あえて沈黙を選び、紙に言葉を書けと言う。


でも、それが紫月なりの覚悟なんだと、分かった。

俺を捨てるんじゃない。

次に会うために、今の自分を一度終わらせようとしているだけだ。


「本当に、ためになる?」

「ほんとだよ」


いつも通りの笑顔が、あまりにも眩しくて。

俺は気づいたら頷いていた。


「わかったよ」

「ありがと。悠斗のそういうとこ、好き」


今日一番の笑顔で、今日一番切ない言葉。


「アイドルが、気軽に好きとか言うもんじゃありません」


指で紫月を指しながら、冗談めかして言う。

もう何回、こんなやりとりができるんだろう、なんて考えながら。


「そうだね。ふふ、悠斗らしいや」


空が、少しずつ白んでいく。

タイムリミットが近づいているのを、互いに分かっていて、時計だけは見なかった。


応援したい。

行ってほしくない。

分かってやりたい。

引き止めたい。


全部が本音で、全部が邪魔をする。

言葉にできない自分が、情けなかった。


「もう行かないと……お父さんたち、待ってる」


「元気でな」

「うん。悠斗もね」

「アイドル、応援してる」


その一言で、紫月の笑顔が戻った。


「その言葉が聞けて、うれしい」


俺の中で、何かが決まった。


「俺も、紫月に負けないくらい大きくなる」

「なにそれ、急じゃん」

「いや……なんとなく」

「むずむずしてるじゃん」


手袋越しに、頬を二度叩かれる。


「堂々としてなよ」

「そうだな」


手を解き、笑う。


「また会ったとき、しょうもなかったら怒るからね」

「そりゃ、頑張んねーと」


小指と小指が触れる。


「寒い。じゃあ行くね」

「おう」


紫月は手を振り、振り返って歩き出す。

その背中が、少しずつ明るくなる空に溶けていく。


車のエンジン音。

ドアが閉まる音。

それで、終わった。


「……紫月だけが前に進むなんて、許さねえからな」


白い息と一緒に呟く。


その日の夜、真新しいノートを買った。

日付を書き、最初の一行。


『三月二十七日。紫月が東京へ行った。

――今日から、俺たちの長い沈黙が始まる。』


ペンを持つ手が、わずかに震えていた。

窓の外では、春を拒むような冷たい雨が降り始めていた。

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リライト 山田ミタスキ @mitasuki

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