リライト
山田ミタスキ
プロローグ上
運命の相手って、本当にいるのだろうか。
そんなことを考えるなんて、我ながららしくないと思う。
俺は基本的に、目の前にあるものしか信じないタイプだ。縁だとか運命だとか、そういう曖昧な言葉は、どこか他人事だった。
それなのに。
隣を歩く紫月の横顔を見ていると、どうしてもそんな疑問が頭をよぎってしまう。
理由なんてない。ただそこにいる。それだけなのに、胸の奥が静かに騒ぎ出す。
冬が終わり、少しずつ暖かさが戻りつつある季節。
学校帰りの道は穏やかで、人通りも少ない。けれど吹き抜ける風だけはまだ冷たくて、肌に触れるたび、現実を思い出させるみたいだった。
「今日はやけに静かだな」
沈黙に耐えきれず、俺はそう口にした。
「悠斗が全然喋んないからじゃない?」
紫月は軽く笑ってそう言う。
その声はいつも通りで、だからこそ、胸が少し痛んだ。
「そうか? いつも通りだろ」
嘘だ。
自分でも分かっている。今日は、確実にいつもと違う。
会話はいつも通り、他愛もない。
でも、胸の奥がざわついて落ち着かない。理由を探そうとするほど、余計に分からなくなる。春が近いせいだと、無理やり納得しようとした。
「あったかくなってきたね」
紫月はミトンの手袋を外し、俺が押している自転車のカゴに入れる。
その仕草があまりにも自然で、長い時間を一緒に過ごしてきた証みたいで、胸がぎゅっと締め付けられた。
「もうすぐ春だからな」
俺はハンドルから右手を離し、カゴの中のカバンを少しだけずらす。
何かを誤魔化すような、意味のない動作。
「春か……。なんかあっという間の一年だったなあ」
その言葉に、俺は何も言わず頷いた。
本当に、あっという間だった。
俺たちは幼馴染で、家も近い。
気がついたら隣にいて、同じ学校に通って、同じ帰り道を歩いていた。高校生になってもそれは変わらなくて、放課後に一緒に帰るのは、呼吸をするのと同じくらい自然だった。
特別じゃない。
でも、失くしたら困る。
そんな存在だった。
――少なくとも、俺にとっては。
「ねえ、悠斗」
紫月の声が、少しだけ硬くなる。
俺はその変化にすぐ気づいて、反射的に顔を向けた。
夕陽に照らされた紫月の横顔は、どこか遠くを見ているようで、今まで何度も見てきたはずなのに、急に知らない人みたいに感じた。
「どうした?」
短く答える。
それ以上何か言ったら、この静かな均衡が壊れてしまいそうで。
「私ね」
紫月の足が止まる。
俺もつられて立ち止まった。
二人の間を、冷たい風が吹き抜ける。紫月は髪を押さえ、少しだけ視線を落とした。その仕草ひとつひとつが、やけに重たく見えた。
「アイドルになりたい」
その言葉が、耳に届くまでに、ほんの一瞬の間があった。
理解するまでに、もう一拍、時間がかかった。
「……」
何も言えなかった。
頭の中が真っ白になって、言葉どころか、思考そのものが止まった。
心臓の音だけが、やけに大きく聞こえる。
嬉しいのか、驚いているのか、不安なのか。自分でも分からない。ただ一つ、確かなのは、何かが決定的に変わってしまったという感覚だった。
「悠斗も気付いてたでしょ。今日の私、何かおかしいなって」
紫月が振り返る。
その顔は、少しだけ拗ねていて、それが余計につらかった。
「勇気出して言葉にしたんだから、悠斗もなんか言ってよ」
「……いや、その……びっくりしちゃって」
自分の声が、ひどく頼りなく聞こえる。
「なんて言えばいいか、分からなかった」
紫月に近づこうと一歩踏み出す。
何か言わなきゃと思うのに、言葉が形にならない。頭の中では感情だけが渦巻いて、出口を探して暴れている。
「そっか。急にごめんね」
紫月は俺の足元を見つめたまま、続ける。
「このこと、誰にも言ってなくて。でも、悠斗にだけは言いたかった。悠斗には……応援してほしいから」
胸の奥が、きしっと音を立てた気がした。
応援してほしい。その言葉が、やけに重くのしかかる。
「そうか……」
それだけしか言えなかった自分が、情けない。
「もう、なにそれ。私ばっか喋ってるじゃん」
顔を上げた紫月の瞳が、夕陽を反射して揺れている。
泣いてはいない。でも、泣く寸前みたいだった。
「ごめん。ほんと、急すぎて……」
言葉を探しながら、必死に声を繋ぐ。
「頭、追いついてねえんだよ」
本当は、頭じゃなくて、心が追いついていなかった。
驚き。
不安。
そして、はっきりとした寂しさ。
紫月が遠くへ行ってしまう。
まだ何も決まっていないのに、そんな未来が勝手に浮かんで、胸を締め付ける。それと同時に、自分だけに打ち明けてくれたことが、少しだけ嬉しかった。
紫月は前を向き、また歩き出す。
俺も黙って、その隣に並んだ。
「アイドルになるって言っても、なんか予定あんの?」
ようやく絞り出した話題。
感情を隠すための、薄っぺらい言葉。
「オーディション、受ける」
「オーディション?」
「三月にあるんだ。書類も面接も通ってて、あとは東京で最終面接だけ」
心臓が跳ねた。
思っていたより、ずっと現実的だった。
「え……もうそこまで行ってんのか」
声が、少し大きくなる。
「三月って来月だし、ちょっとぐらい言ってくれてもよかっただろ」
本心じゃない。
言ってほしかった。でも、言われたくなかった。
「ふふ、ごめんね」
紫月はいつもと同じ笑顔を向けてくる。
その笑顔に、俺は救われると同時に、突き放された気がした。
「最終面接って、どれくらいの確率なんだ?」
「それはもちろん」
「……もちろん?」
「100パーセントです!」
冗談みたいな言い切り。でも、目は本気だった。
「絶対?」
「絶対」
迷いのない声。
その一言で、覚悟の差を思い知らされた。
「……そっか。おめでとう」
口から出た言葉に、自分で驚く。
なんて平坦で、なんて嘘くさい言葉だ。
おめでとうなんて、思っていない。
行かないでくれ、と叫びたかった。
昨日まで当たり前だった日常が、音を立てて崩れていくのを、ただ見ているしかなかった。
「怒ってる?」
紫月が不安そうに覗き込んでくる。
「怒ってない。ただ……驚いただけだ」
「嘘。悠斗、困ると眉寄せるもん」
少し笑う紫月。
でも、その笑顔は、どこか泣きそうだった。
「悠斗、私ね……」
紫月は深く息を吸う。
「このままじゃダメだと思ったの」
その言葉一つ一つが、胸に刺さる。
「私は悠斗に甘えてばっかり。このままだと、一生『おまけ』のまま。悠斗だって、私のせいでどこにも行けない」
「そんなこと――」
言いかけた言葉は、途中で止まった。
「あるよ。悠斗は優しいから気づかないだけ」
紫月は、真っ直ぐ俺を見て言った。
「だから、一番遠いところに行くって決めた。悠斗が助けられないくらい遠くに。私が一人で頑張る姿を見せて、悠斗にも自由になってほしいから」
その言葉は、冷たい風よりも鋭く、胸の奥に突き刺さった。
俺のため。
そう言われるほど、何も言えなくなる。
反論したかった。
でも、紫月の決意を否定することが、彼女の覚悟ごと踏みにじる気がして、何も言えなかった。
「まあ、その分」
紫月は無理やり明るい声を作って、俺の背中を軽く叩く。
「三月までは、いっぱい優しくしてもらうからね」
「……はは、そうだな」
精一杯の笑顔を作る。
それ以上、何も言えなかった。
紫月の視線は、もう少し先を見ているようだった。
まだ少しひんやりとした、春へ向かう風が、俺たちの間を静かに通り抜けていった。
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