第五章 運動会

 「位置について、よーい」


 先生の掛け声が上がり、直後に銃声のような破裂音とともに、石灰で引かれた白レーンの上を走者が走り出した。


 オッフェンバックの『天国と地獄』が流れる中、宮戸小学校の生徒たちが白熱した競走を繰り広げる。


 そして、ゴールすると同時に、あちらこちらから歓声が上がった。一位を取った生徒は勝ち組に、ドベは負け組みという、小学生におけるわかりやすいヒエラルキーの位置づけが、『かけっこ』で決められた瞬間だった。


 今日の宮戸小学校では、運動会が開催されていた。保護者も集まり、盛況な賑わいを見せている。優司の両親も、観覧席のどこかで見守っているのだろう。


 子供たちが立てる土煙により、乾いた匂いが運動場に漂っていた。


 「惜しかったね。恭也」


 優司は徒競走を追え、列に戻ってきた恭也の肩を叩く。


 「くそ、あの一組のやつ卑怯だぜ。陸上やってんだろ。勝てて当然じゃんか」


 恭也は僅差で負けたのが悔しいらしく、赤い帽子を頭から乱暴に外すと、ぎゅっと握り締めた。


 快晴となった空から降り注ぐ太陽光が、恭也の茶色い髪を鈍く光らせる。


 「お前こそちゃっかり一位じゃんか」


 恭也は恨めしそうに言う。優司はほくそ笑んだ。


 「俺は運よく弱いメンバーと一緒だったからね。悲惨なのは友秀だよ」


 離れた列で、気落ちしている友秀を顎でしゃくりながら言う。もともと友秀自身、運動神経は良いほうではないため、僅差で最下位であった。


 「あとは、広康もいまいちだったね」


 優司は、近くにいる八木広康に話しかける。広康は先ほどの徒競走で、友秀以上の圧倒的最下位を記録していた。


 「うん。皆早かったよ」


 垂れた目尻をさらに下げて、広康はあっけらかんとした口調で言う。体操服から突き出た腹に、つい目線が行ってしまう。


 「他の奴が早いんじゃなくて、お前が遅いんだよ。デブだから」


 恭也は、イラついたように広康の厚みのある肩を小突く。広康は、困ったように笑みを浮かべた。


 「まあまあ、広康も頑張ったんだから」


 優司は恭也を宥めた。やはり負けたことが尾を引いているようだ。


 「そうは言ってもよ、このままじゃあ俺ら赤組は負けちまうぜ」


 恭也は、運動場の端に設置されている大きなボードを顎でしゃくった。


 ボードにはスコアが記載されており、赤組と白組に分かれている。優司たち五年二組は赤組で、現在、その赤組は僅かに点数で負けていた。


 「別に勝てなくてもいいじゃん。何か貰える訳じゃないし」


 広康が呑気に言う。


 「何言ってんだよ。勝ったほうが気持ちいいだろ」


 恭也は唾を飛ばして主張する。恭也はスポーツ少年に相応しく、絵に描いたような負けず嫌いだった。


 その時だ。周囲から生徒たちの声が上がった。


 「孝太郎君頑張ってー」


 声のほうを向くと、孝太郎がスタート位置に付いていた。眉目秀麗で、運動神経も良い男子である孝太郎には、ファンが少なくない。


 噂に寄れば『アイドル』こと、学年一の美少女である樅山春奈も孝太郎のファンらしい。


 「位置について」


 合図がされ、一拍間を置いたあと、ピストルによる炸裂音が、熱気に満ちた運動場に鳴り響いた。


 孝太郎も含めた走者が一斉に走り出し、歓声が上がる。


 結果は、孝太郎の圧勝だった。女子の黄色い声が孝太郎に浴びせられた。


 「何だよ。あいつばかり。面白くねえ」


 恭也は舌打ちをする。すると、恭也の言葉が耳に入ったらしく、誰かが横から恭也の頭を叩く。


 「あんたと違って、活躍したんだから文句言わないの」


 咎めてきたのは、芝辻綾紗だった。勝ち気な態度を崩さず、射るような目で恭也を睨らんでいた。


 「な、なんだよ。芝辻。別にいいじゃんか」


 恭也は叩かれた頭を押さえながら、たじろいだ。恭也は綾紗に苦手意識があるらしく、気後れしているようだ。


 「よくない。あんたなんかが偉そうに文句言うとむかつくのよ」


 アジア美人というのだろうか、ハーフっぽい切れ長の目に、広い額を持つ綾紗だが性格はきついものがあった。


 こうして近くで叱責している姿を見ると、強い圧を感じる。対峙している恭也はさらに押し出されるような圧迫感を感じていることだろう。


 「でもよ、俺たち赤組はまだまだ負けてるぜ」


 恭也が、親指で遠くにあるスコアボードを指しながら、反論する。


 今日の運動会では、徒競走において一位には三点、二位には二点、三位には一点という采配だった。玉入れなどの集団競技は勝ったほうが五点という大盤振る舞いである。


 最終的に、総合点で結果が決まるシンプルなシステムであった。


 「それでも、一位を取った孝太郎のほうが逆転に貢献しているでしょ」


 綾紗は腰に手を当て、聞き分けのない幼稚園児を諭すよな口調で言う。まるで教師だ。


 「けど……」


 完全に尻込みしているものの、恭也は女子に負けるのが気に食わないらしく、なおも反論しようとする。


 その時だった。運動場内にちょっとしたどよめきが湧き起こった。何かトラブルが発生した感じだ。


 誰か倒れたのかと思い、優司が視線を向けた。すると、スタートラインにプーさんが立っている姿が目に映った。プーさんは生徒や保護者の視線を一身に受けており、どよめきの原因はプーさんだとわかった。


 合う体育着がなかったのか、プーさんは何も身に付けておらず、黄色い体のままだ。ただ、組み分けを示す赤い体操帽だけは被っていた。


 「プーさんだ」


 「プーさんが走るぞ」


 「可愛い」


 保護者席から、そんな声が聞こえてくる。やはり、なぜかプーさんは大人たちの間では有名人のようだ。意味がわからない。何かあるのだろうか。それとも……。


 しかし、反面、生徒たちは皆冷たい視線を送っていた。誰もプーさんに期待していないことが、雰囲気で伝わってくる。


 無理もない。プーさんはずんぐりしてて太っており、小さなお相撲さんといった体型だ。しかも、人間のような筋肉ではなく、ぬいぐるみに使われる線維のような組成の体だ。そんなもので、パワーが出るはずがない。到底早く走れるわけがなかった。


 「プーさん頑張って!」


 保護者席から応援が飛ぶ。プーさんは笑っているような柔和な表情で、レーンの先をじっと見つめていた。


 「位置について」


 先生の声が響く。これからプーさんの競走が始まる。皆が一風変わった転校生に注目していた。


 「アイツじゃ駄目だろ」


 恭也が隣で、ため息混じりに呟く。


 「僕もそう思う。太ってたら走るのきついもん」


 広康が、太い腕を組み、しみじみと言った。


 「よーい」


 スタートの合図が迫る。静かになった運動場に一陣の風が吹き、砂埃が舞った。皆が固唾を呑んで見守っている。


 そして、炸裂音。BGMが鳴り、走者が走り出した。


 その時、運動場にいた全員が目撃する。弾丸のようにプーさんがスタートラインを飛び出し、疾走する姿を。


 まるで獣だった。理性を失った猛獣のように、プーさんは走った。ぐんぐんと他の走者を引き離し、ゴールへ突進する。


 あっという間だった。プーさんは目を疑うような速さで、ゴールを通過した。白いゴールテープが勢いのあまり宙を舞い、羽衣のようにゆっくりと落ちた。


 運動場内は静まり返っていた。見物人皆が、唖然と口を開けていた。超常現象でも目撃した雰囲気だった。


 優司も同じだった。プーさんの走力に目を見張っていた。風に舞うかすかな砂塵が目に入り、しょぼしょぼするが気にならなかった。隣の恭也や広康、綾紗もハニワのようにぽかんと間抜けに口を開けていた。


 だが、唖然としていたのも束の間、次の瞬間には、割れんばかりの拍手と歓声が運動場に湧き起こった。あまりの煩さに鼓膜が破れそうになる。


 「すげえ」


 恭也が隣で、茫然と呟く声が聞こえた。


 「さすがプーさん」


 「素敵!」


 「かっこいいぞ!」


 保護者席から、プーさんを讃える言葉が発せられた。先生も含めて、大人たちは皆が賞賛していた。スポーツ選手の超絶プレイを目撃したような様子だ。


 万雷の拍手の中、プーさんは相も変わらず、にっこりと笑った表情のままだ。喜んでいるのか、あるいは『無表情』なのか判別が付かなかった。


 いや、と優司は思う。ほんのかすかに、プーさんの口角が上がっているように見えた。他の生徒は気付いているのかわからないが、優司には理解できた。


 プーさんは笑っているのだ。


 拍手と賞賛の声は、いつまでも止むことはなかった。



 そのあとのプーさんの活躍は凄まじく、どの競技も獅子奮迅の働きをみせた。


 玉入れや綱引き、大玉送りといった団体競技は、プーさん一人の独壇場だった。他の追随を許さず、一人で全ての生徒を蹴散らしていた。


 その度に歓声が上がり、運動場はプロ野球の観戦会場のごとく、震えるような熱気に包まれていた。


 危機的状況だった赤組のスコアは、とっくに白組を追い越しており、むしろ今や、大きく差を広げつつあった。このまま行けば勝利は必至だろう。


 プーさんは恐ろしいほどまでに、高い身体能力を持っていた。その可愛らしい姿とは裏腹に、小学生とは思えない、いや人間とすら思えほど、強靭かつ屈強な肉体の持ち主であったのだ。


 運動会が終わる頃には、ほぼ全ての生徒がプーさんに羨望の眼差しを向けていた。オリンピックで活躍した選手に向けるような、熱い視線だ。


 そして、運動会が終わり、赤組の圧勝が宣告されると同時に、プーさんへの羨望は、陶酔に変貌した。



 プーさんが一日にして『英雄』になった瞬間だった。

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