第2話 身体強化(ブースト)× 重ねがけ(スタック)
鼻先まで迫った獣の臭気が、蒼の脳髄を刺激する。
死の恐怖ではない。
それは、久しく忘れていた闘争へのスイッチだった。
(ここは夢だ。なら、イメージしろ)
蒼は半身に構えながら、強く念じた。
現実の肉体は過労でボロボロだが、この世界の肉体はイメージに従う。
ならば、全盛期の筋肉を――いや、それ以上の出力を。
『身体強化(フィジカル・ブースト)』
ドクン、と心臓が早鐘を打ち、全身の血管が熱く脈打つ。
世界がスローモーションに見えた。
襲いかかる魔獣の爪。
蒼は最小限の動き(スウェー)でそれを躱す。
紙一重。風切り音が耳元を掠めるが、当たらない。
(軽い)
現実の重力が嘘のように、体が羽根のように動く。
魔獣が着地し、振り返ろうとしたその刹那。
蒼はすでに、相手の懐(ふところ)に潜り込んでいた。
空手における基本にして奥義。正拳突き。
だが、ただ殴るだけでは足りない。相手は化け物だ。
(もっと硬く、もっと重く)
蒼は瞬時に、拳へ新たなイメージを上書きする。
鋼鉄の如き『硬化』。
そして、インパクトの瞬間に炸裂する『衝撃』。
魔法術式――二重構成(ダブル・スタック)。
「セイッ!」
鋭い呼気と共に、突き出された拳が魔獣の横っ腹に突き刺さる。
ドォォォォォンッ!
肉を打つ音ではない。ダンプカーが衝突したような破砕音が響いた。
魔獣の身体が「く」の字に折れ曲がり、次の瞬間、内側から破裂するように弾け飛ぶ。
血飛沫と肉片の雨。
蒼は顔にかかった返り血を、手の甲で無造作に拭った。
「……ハッ。最高かよ」
拳に残る確かな感触。
現実世界で押し殺してきた鬱憤が、破壊衝動となって解放されていく。
蒼はニヤリと笑うと、次なる獲物を求めて戦場を駆けた。
一方、広場の隅。
一ノ瀬舞は、震える脚を必死に叱咤しながら、冷静さを保とうとしていた。
(パニックになったら死ぬ。あの男の人みたいに)
彼女の視線の先には、さっきまで生きていた人間の残骸が転がっている。
吐き気を理性でねじ伏せる。
彼女は成績優秀な進学校の生徒だ。状況分析能力は、この場の大人たちよりも遥かに高い。
(あのジャージの人がやったこと……指から火を出したり、拳で化け物を粉砕したり。共通しているのは『意志』)
ここは夢の世界。
明晰夢の原理なら、強く願った事象が具現化するはず。
「……なら、私にだって」
舞は迫りくる小型の魔獣たちに向けて、右手をかざした。
イメージするのは、理科の実験で見たガスバーナーの炎。
いや、もっと高温の、全てを灰にする青い炎。
彼女の掌に、目も眩むような青白い光球が収束していく。
「消えろ……!」
『蒼炎(ペイル・フレア)』
彼女の才能は、本人が思う以上に凶悪だった。
放たれたのは火の玉などではない。奔流(ほんりゅう)だ。
青白い炎のレーザーが、前方の魔獣を飲み込み、一瞬で炭化させる。
――しかし。
「きゃああっ!?」
反動が強すぎた。
爆風のようなバックファイアが舞を襲い、彼女の華奢な体は後方へと吹き飛ばされた。
背中を壁に打ち付け、肺から空気が漏れる。
「げほっ、ごほっ……!」
視界が明滅する。
魔力(精神力)を一気に使いすぎたことによる眩暈(めまい)。
立ち上がろうとするが、膝に力が入らない。
そこへ、炎を免れた別の魔獣が這い寄ってきた。
節足動物のような脚を持つ、不気味なトカゲ型の怪物。
その口から、粘着質の唾液が垂れている。
(あ、嘘……動いて……!)
舞のプライドも、知性も、死の恐怖の前では無力だった。
魔獣が跳躍する。
鋭い爪が、舞の顔面へと迫る。
死ぬ。
舞が目をきつく閉じた、その時だ。
――ゴガァッ!
鈍い音が響き、顔にかかるはずだった痛みが来ない。
恐る恐る目を開けると、そこには信じられない光景があった。
自分を襲った魔獣が、宙に浮いていたのだ。
いや、掴まれている。
黒髪の男――さっきまで死んだ目をしていたジャージの青年が、魔獣の胸倉(のような部位)を掴み、軽々と持ち上げていた。
「魔法で吹き飛ばすのはいいけどよ」
男――蒼は、呆れたように舞を見下ろした。
「反動計算くらいしとかないと、自滅するぞ」
「え……?」
蒼は魔獣を掴んだまま、自身の身体を沈み込ませる。
柔道技、一本背負い。
そこに、魔法による『重力加算』を乗せる。
「失せろ」
遠心力と魔法による重力が、魔獣を地面へと叩きつける。
ズドォォン!!
石畳がクレーターのように陥没し、魔獣は悲鳴を上げる間もなく、挽肉のようにひしゃげた。
「ひ……」
舞は言葉を失った。
魔法だけで戦うのではない。
魔法を、自身の肉体を動かすための「燃料」として使っている。
その姿は、あまりにも暴力的で――そして、圧倒的に頼もしく見えた。
蒼は倒した魔獣の残骸から靴を引き抜き、舞の方へ手を差し出した。
「立てるか? お嬢ちゃん」
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