ナイトメア・ロジック ~夢の中で死ぬと、現実で「死」として処理される。想像力を魔法に変えて敵を殲滅する、逃げ場なしの明晰夢サバイバル~
蒼空
第1話 ようこそ、殺戮のワンダーランドへ
感覚のない指先が、真っ白な液体の中で赤く腫れ上がっている。
午前四時。
気温は氷点下。
築百年の木造蔵は、外気よりも底冷えがした。
「おい江島(えじま)、手が止まってんぞ! 次の米が来てんだよ!」
怒号が飛ぶ。
杜氏(とうじ)の苛立ちが、冷気と共に肌を刺す。
「……すみません」
江島蒼(あお)は、死んだような瞳で短く答え、再び氷水の中に手を突っ込んだ。
洗米(せんまい)。
酒造りの命とも言える工程だが、今の蒼にとっては、ただの拷問でしかない。
大学まで柔道と空手に全てを捧げた。
全国でも名の知れた選手だった。
だが、武道で飯は食えない。実業団からの誘いも怪我で流れた。
流れるままに就職したこの老舗酒造メーカーは、伝統という名のブラック企業だった。
残業代なし。休日なし。暴力的な指導。
鍛え上げた肉体は痩せ細り、かつて覇気を宿していた瞳は、今や濁った澱(おり)のようだ。
(眠い……)
思考の大半を占めるのは、睡眠への渇望。
一日の労働時間は十八時間。睡眠は四時間取れればいい方だ。
意識が朦朧とする。
手元の水面が揺らぎ、視界がぐにゃりと歪んだ。
あ、落ちる。
蒼の意識は、泥のような暗闇へと沈んでいった。
――カツン。
硬い音が響いた。
足裏に伝わる感触が、冷たい板の間から、ゴツゴツとした石へと変わる。
「……あ?」
蒼は顔を上げた。
眩しい。
目が痛くなるほど突き抜けた、紺碧の空。
そこは、見知らぬ広場だった。
足元には、ヨーロッパの旧市街のような美しい石畳が敷き詰められている。
周囲を取り囲むのは、レンガ造りの古めかしい建物たち。
「なんだ、ここ……」
ついさっきまで、蔵で米を洗っていたはずだ。
自分の格好を見下ろす。
ジャージの上下。ゴム長靴ではない。社員寮で着ている寝巻きだ。
周囲を見渡すと、呆然と立ち尽くす人々の姿があった。
パジャマ姿の老人、スウェットの大学生、スーツ姿のままのサラリーマン。
ざっと二、三十人ほどだろうか。
「夢、か」
蒼は小さく息を吐いた。
明晰夢(ルシッド・ドリーム)。
夢の中で「これは夢だ」と自覚する現象。過労の反動か、蒼は最近よくこれを見る。
「ふざけんなよ! どこだよここ!」
静寂を破ったのは、金髪でジャージ姿の男だった。
ひどく苛立っているようで、近くにいた女子大生風の女性の肩を掴んで揺さぶっている。
「おい女! ドッキリかこれ! カメラどこだ!」
「い、痛い、やめてください……!」
「うるせえ!」
喚き散らす男。
周囲の人間はおろおろと遠巻きに見ているだけだ。
その群衆の端に、一人だけ冷静な視線を送る少女がいた。
セーラー服の上にパーカーを羽織った、気の強そうな顔立ちの美少女だ。
彼女は騒ぐ男を一瞥(いちべつ)し、「馬鹿みたい」と吐き捨てると、興味なさげに空を見上げている。
蒼もまた、止めに入る気は起きなかった。
どうせ夢だ。
現実で散々理不尽な目に遭っているのに、夢の中でまで他人のトラブルに関わりたくない。
その時だ。
空中に、ホログラムのような赤い文字が浮かび上がった。
『QUEST START: 敵を殲滅せよ』
「あ? なんだこれ」
金髪の男が、空中の文字に指を差す。
次の瞬間。
ズゴゴゴゴゴゴッ――!
広場の中央、石畳が内側から爆発したように弾け飛んだ。
土煙の中から現れたのは、巨大な影。
節くれだった黒光りする甲殻。
無数に蠢く脚。
一言で言えば、それは「家ほどの大きさがあるムカデ」だった。
だが、その頭部は醜悪な肉食獣のように裂け、鋭利な牙が並んでいる。
「う、うわあああああっ!」
「なんだよあれ!」
悲鳴が上がる。
金髪の男は、あまりの事態に腰を抜かしたのか、その場へへたり込んだ。
「ひ、ひぃ……っ、くるな、化け物……!」
巨大なムカデの頭が、鎌首をもたげるように金髪の男を見下ろす。
その距離、わずか数メートル。
――パンッ。
乾いた音がした。
風船が割れるような、軽い音。
しかし、目の前の光景は、その音の軽さとは裏腹に、酸鼻を極めていた。
金髪の男の上半身が、消えていた。
ムカデの顎(あぎと)が、男を腰から上だけ噛み砕いたのだ。
一拍遅れて、鮮血の噴水が舞い上がる。
ドサリ。
下半身だけの肉塊が、石畳に転がった。
飛び散った内臓の欠片が、近くにいた人々の頬に張り付く。
「――――」
世界が静止した。
誰もが、目の前の現実を処理しきれない。
夢にしては、あまりにもリアルな血の匂い。
生温かい風。
「いやぁああああああああああああッ!!」
誰かの絶叫が、パニックの引き金になった。
蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う人々。
だが、蒼だけはその場から動かなかった。
恐怖?
いや。
(すげぇな……)
蒼は、飛び散る鮮血を見つめながら、自身の口角が吊り上がるのを感じていた。
グロテスクだが、なんて自由なんだ。
ここでは、上司に頭を下げる必要も、終わらない洗米作業に耐える必要もない。
暴力が支配する世界。
強者が弱者を蹂躙するだけの、単純明快な世界。
「ギシャアアアアアッ!!」
味を占めたムカデが、逃げ遅れたサラリーマンへと襲いかかる。
さらに、地面の亀裂からは、犬ほどの大きさの小型魔獣たちが次々と這い出してきていた。
その一匹が、蒼を標的に定めて飛びかかってくる。
鋭い牙を剥き出しにした狼のような魔獣。
蒼は逃げなかった。
自然と足が開く。
重心が落ちる。
身体に染み付いた「型」が、思考よりも速く肉体を支配する。
「夢なら、死なない」
呟きと共に、蒼は踏み込んだ。
死んだ魚のような目は消えていた。
そこにあるのは、獲物を前にした猛獣の瞳だった。
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