第4話:人の形が終わるとき
「イオ! お前は行くな! お前に万が一のことがあったら……」
しかし、躊躇している暇はなかった。イオは足を止めず、まっすぐ家へと向かっていく。
そのうち、フレームレスの輪郭もはっきりとしてきた。家屋の三倍ほどはあろうかという巨大な球体のまわりに、二つの光輪が回転し、家屋を踏み潰しながら進んでいる。
「ばあちゃん! 止めてくれよ! 元に戻って……!」
イオの耳に、よく知る声――そちらに目を向けた途端、イオは愕然とする。その球体を追いかけながら、コベンが必死に叫んでいたのだった。
「コベン!!」
振り向いた顔は、涙でぐちゃぐちゃだった。
「イオ……俺のせいで、ばあちゃんが……」
「コベン、逃げないと……」
「ダメだよ、俺のせいなんだ。俺が、明日もまた仕事かぁって、文句言ったから……。きっとバチが当たったんだ」
「でも、止める方法なんて……」
「目の前に行けば、気づいてくれるかも。さすがに、孫を踏み潰せないだろ?」
涙を浮かべながら、無理矢理笑顔を作るコベン。
「そんな危ないこと……」
「イオ、俺、お前と友達になれてよかったよ」
イオの反応を待つことなく、コベンは球の方に駆け出した。イオも止めようと、すぐに駆け出す。しかし……
(間に合わない――)
イオが目を伏せた瞬間、一陣の風と同時に、キン、とかすかな金属音。それからピタリと地面の揺れが収まる。
イオが目を開けると、動きを止めた球体の向こうに、軍服を着た銀髪の少年の後ろ姿があった。その手に握られた黒く長い刀剣は、不吉なほど薄く、ひどく不安定な形状をしている。
「危機、いっぱつぅ」
「え……止まった?」
事態を飲み込めないイオとコベンをよそに、少年はぐにゃぐにゃと刀身をしならせている。
いかにも不健康な青白い顔に、光を欠いた瞳。イオと同じくらいの年齢に見えた。しかし、その存在感は明らかに異質だった。そもそも彼を視界に入れることそのものが、なにか死神に出くわしたかのような、身の毛のよだつような感覚を喚起するのだった。
「あの、おばあちゃんは……」
「死んでますよぉ、安心してください」
「えっ?」
「あれ? まずかったです?」
「冗談……ですよね? だって、そんなふにゃふにゃの刀で……」
「いえいえ一発ですよぉ、力の、真ん中? 核? 刺しましたから」
コベンは愕然と立ちつくす。
「おばあちゃんは、戻ってこない……?」
「そうなりますねぇ。ごしゅうりょう? ごしゅうろう? さま?」
「でも、まだ、そこに……」
「あー……えっとぉ」
少年は一度俯いて、再び顔を上げる。一変して、険しい表情を浮かべていた。
「現在の医学的には、フレームレス細胞が発症した段階で人間としての生命活動は終了したものと見なされます。周囲への危険性を鑑み、発症後の人物は生物的厄災と定義され、軍による討伐対象となります。その際、皆さんの権利は生存権を除きすべて留保され、軍の命令および指示に従うものとされます」
突然の変わり身に、またも呆然とするイオとコベン。その様子を見て、なぜだか少年の方が慌てはじめる。
「あれ? どこかおかしかったですか? いけない、ちゃんとマネできないとまた怒られちゃう……ねぇ、どこがおかしかったですか?」
「……こんな、形で……」
コベンが顔を覆いながら、膝から崩れ落ちる。抑えきれない嗚咽と、慟哭。イオはただ立ちすくむことしかできない。
「うう、あぁぁあああ……ああぁ……うう゛ー……」
「ありゃ?」
「う゛あ ゛あ ゛あ ゛あ ゛あ ゛あ ゛!!!!」
コベンの声が、聞いたこともないほど野太く響き、その顔を覆った手から、何か黒い液体が吹きこぼれてきた。
「発症しちゃいましたねぇ」
高揚したような表情で少年は呟く。
「何が出るかな? わくわくですねぇ」
その場から動くことなく、コベンを観察する少年。蝶の羽化を見つめる幼児のような瞳で。
「コベン! ダメだ、戻ってこい!」
イオは必死にコベンの肩を揺するが、黒い液体はコベンの下半身を覆い、その輪郭を曖昧にしている。
「イオ、ごめん……一緒に、壁を……」
「諦めないで! まだ、なにか……」
コベンの肉体が、下半身からみるみる融解し、地面と同化していく。黒い靄は上半身まで達し、包まれた部分の肉は溶け、骨格だけが残されていった。
「あぁ、もう少し……生きてりゃ、いいことあると思ったんだけどな」
顔を失う寸前、コベンは強がるように、しかし弱々しく笑った。楽天家のコベンが希望を諦めるその表情は、イオの胸を深く重く突き刺した。
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