第2話:喪失の過去
ベルトコンベアから等間隔に運ばれてくる金属板に、イオはドリルで穴を開けていく。鉄と油のニオイが充満するその空間には、イオたちの生活ではお目にかかれない技術が盛り込まれ、作業員たちに壁内の文明の高さを想像させる。
――彼ら自身は、自分が何を作っているのか何ひとつ知らずにいるのに。
自分自身が機械の一部になっていく感覚。時間の流れが狂っていく。作業場には時計もなく、あとどれだけこの作業を続ければいいのか、まったく見通しがつかなくなっていく。
突然、イオの頭にズキッと痛みが走る。まただ――そう思うが早いか、作業台の上にポタポタと鼻血が垂れていった。
(まずい、早くどうにかしないと……。というか、またきっと誰かが……)
巡回中の監督官の足音が聞こえる。ダメだ、バレる――その瞬間、遠くの方から奇声が聞こえ、すぐさまベルトコンベアを止める緊急のサイレンが鳴り響いた。
「作業員14番の精神に異常を確認。ただちに隔離作業に入る。周辺の作業員は現場から離れ身の安全を確保すること」
軍服の男たちが慌ただしく14番の方へと向かったかと思うと、人の身体が殴打されるイヤな音がして、そのまま14番はどこかに連れられていった。
イオはその間にちり紙で血を拭って、ポケットのなかにしまい込んだ。こういうことは、一度や二度ではなかった。工場ではしょっちゅう、突然狂ったような叫び声を上げる者がいて、すぐさまどこかに連れて行かれる。発狂した人の姿は、その後二度と目にすることがなくなる。
それを予兆するかのように、イオは突然の頭痛に襲われることがあった。
*
「誰かが発狂する瞬間、見たことある?」
昼休み、浮かない声でコベンが聞いてきた。給食のふかし芋を握ったまま、口をつけずに俯いている。これほど沈んだ様子のコベンを見るのは初めてで、なぜだかイオの方が泣きそうになってくる。
「ない、けど」
頭痛のことは言えなかった。なんだかそれは、イオにとってよくない兆候に思えたからだ。
「知り合いが発狂したことは?」
「顔見知りくらいなら……」
「今日のサイレンさ、隣の人だったんだよ。あの14番の人。いきなり叫ぶもんだから、ビクッとしてさ」
「それは、びっくりするね」
と、コベンが小さく震えているのに気づき、イオは得体の知れない不安に襲われる。
「一瞬、目があったんだ。目の色が、人間じゃなかったんだよ。赤黒くて、涙も、ドロッと黒っぽくて……。いくら心がおかしくなったって、あんな風には……」
ひどい胸騒ぎがした。それまでなんとなく目を背けていた事実が、いつの間にかすぐそこにある。
「あれって、放っておいたらさ……。あのまま、フレームレスに……」
言葉が見つからない。そうだとしたら、発狂者が即座に隔離されることにも、二度と戻ってこないことにも、はっきり説明がつく。
「感染症って、俺、大丈夫なのかな?」
コベンの目に涙が溜まっている。イオはたまらず、コベンの腕をぐっと掴んだ。
「……大丈夫。隣にいるくらいで感染するなら、とっくにみんなフレームレスだよ。ほら、軍に志願するんでしょ。ちゃんと食べなきゃ。育ち盛りなんだから」
ふふ、とコベンが笑う。
「なにそれ。育ち盛りって。親か……ジジババしか言わないよ」
自分の腕を掴んだイオの手がひどく震えていることに、コベンが気づかないはずがなかった。イオの言葉はどうあれ、同じ不安を共有しながらも自身を鼓舞しようとしたイオの勇気に、コベンは励まされていた。
なおイオにもコベンにも、両親はいない。10年前から、ずっと行方不明のままだ。奇妙なことに、当時の行方不明者はイオたちの親世代――20代から40代あたりの割合がひどく多かったと記録されている。
*
午後になっても、頭痛は止まなかった。習慣に促されるまま、身体だけはどうにか作業をこなし、頭の方はぼんやりと、3年前の事故のことを考えていた。
誕生日には、いい思い出がない。3年前もそうだった。皆が寝静まった夜更け、突然の轟音と、巨人に家を揺すられたような振動。驚いて飛び起きたイオは、しかし異常な頭痛にうずくまってしまう。
狭まっていく視界のなかで、ドゥルーさんとジッドさんが駆け寄ってくるのが見える。
「大丈夫か!? 逃げるぞ!フレームレスだ!」
ドゥルーさんの声がやたらと響いて、どうにか立ち上がり、2人に着いていく。ところが玄関を開けた瞬間、目の前にいたのは家屋よりも大きな、黒い影。蛸のような脚のてっぺんに生えているのは、捕食の意思に満ちた口だった。
「こいつは……」
食肉植物のような、二枚貝のような形状をした口が、ぱっくり開いて不規則に生えた牙をむき出しにした。瞬間、一本の足が鞭のようにしなり、扉の方に向かってくる。
「戻れ!」
家のなかに飛び込むが、その一撃で玄関は破壊され、破片が勢いよく飛び散ってくる。
「痛っ!!」
イオの足の腱に鋭い痛みが走ったあと、焼け落ちそうな熱さの感覚。反対に、頭からは血の気が引いていく。これじゃ、逃げるどころか、立つことすら――。
玄関に開いた穴から、触手がものすごい速度で伸びてくる。
(ダメだ、動けない――)
目を閉じるイオ。しかし予想した衝撃はやって来ず、目を開いた先にあったのはドゥルーさんの背中だった。
「イオ、肩につかまれ」
「あぁ、ドゥルーさん……腕が、腕がぁ……!」
ドゥルーさんの右腕は肘から先がなくなり、大量の血が噴き出している。
「いいから早く!」
ドゥルーさんの左肩につかまるが、腕を失ったドゥルーさんはバランスを取ることができず、うまく歩けない。
と、外から砲撃の音が鳴り響き、目の前の触手が収縮していく。
「助かった。軍が来たか」
ドゥルーさんがその場にドサッと倒れ込み、イオもつられて転げ落ちた。
「すまんなイオ、気が抜けちまって」
ジッドさんがイオとドゥルーさんのもとに駆け寄ってくる。しかしその姿は、壁を貫いてきた砲弾とともに一瞬で吹き飛ばされてしまった。
「おい、ジッド! おい!」
飛ばされた方へ這いずっていくドゥルーさんを、イオは呆然と眺めていた。何度も呼びかけるドゥルーさんだが、一向に答える声は聞こえてこない。
ドゥルーさんの叫び声と、外からのさまざまな衝撃音。脳が事態を把握することを拒むように、イオは何も考えることができない。
ちらと外に目をやると、フレームレスに向かって砲撃を繰り返す部隊のそばに、司令官らしき男が退屈そうに立っていた。百回見た演劇を見ているような、関心を失いきった顔。自宅への砲撃がそういう表情の男の指令によってもたらされたことを、イオはうまく飲み込むことができない。
砲撃が止み、ドゥルーさんのすすり泣く声だけが家の中に響く。軍はイオたちの家に目もくれず、フレームレスを駆除してそのまま撤退していった。
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