第1話:労働の暗がりに

 イオは家のドアを閉めながら、扉に刻まれた巨大な“×”のマークに目をやる。無生産者がいる世帯は、家の入口付近にそれを表示しなければならない。


 ほの暗い空の下、吐く息は白く、冷気に刺された肌はピンと張りつめ、仕事に向かう足取りはどんより重い。

 同じ方向に向かう労働者たちの背は一様に曲がり、精気のない目で泥のように歩いていく。


(身体が沈んでいくみたいだ……みんな、このまま、土の中の世界に…)


 周囲の重たい足取りに、イオの気分もみるみる落ちていく。


(あぁ、ダメだな、この感じ……抜け出せない)


 周りに影響されやすいイオは、自分で気分を切り替える手段を知らない。


(強制労働よりも、こっちの方がきついなぁ)


 トラックの乗り合い場には、すでに数十人の男たちが集まっている。彼らの多くは年配で、イオはこのなかで一番の年下だった。誰も、何も喋らず、このまま時間が止まってトラックが迎えに来なくなることを願っているかのようだ。


(怖い、来ないで……軍靴の、カツカツいう音…)


 出勤を忌避する労働者たちの思念に染まり、イオはカタカタと身を震わせる。そのとき、イオの背後に近づく影。


「おっすー、イオ!」


「ひゃっ!!」


 突然背中に冷たい感触がして、イオは思わず飛び上がる。

 唯一の同年代、コベンがいきなり服の下に手を突っ込んできたのだ。しかしいつの間にか、イオの心がに強い光が差し込んできている。


「心臓止まるかと思った……」


「あはは、だって後ろ姿がゾンビだったよ」


 コベンのそういう、四六時中変わることがない陽気さは、イオにとって少なからず救いになっていた。


 しかし、強制的な労働に絶望している人々にとって、場にそぐわぬテンションは煩わしいみたいだった。舌打ちとともに、「朝くらい静かにできねぇのか」と、どこからともなく小言が聞こえる。

 コベンは明るい表情を崩すことなく、「朝こそ元気じゃなきゃ! 一日がダメになっちゃうよ」とハツラツと応じた。返事のかわりに、いくつかの溜め息が漏れ聞こえる。


「ほらほら、運気が逃げちゃうよ。もっと楽しいこと考えよう! ほらあの鳥! きっとあれは幸運の鳥で、トラックが来るまであそこに居てくれたら、今日はみんなにいいことが……げっ」


 言い終わる前に、その鳥はどこかへ飛び去ってしまう。渇いた笑いとともに、小さく「夢見られるうちは幸せだわな」「よせ、ガキなんだから」と皮肉が聞こえてきた。

 コベンはおどけて、お手上げのポーズをとっている。


 しかしそんなコベンを見て、イオはすっかり落ち着きを取り戻していた。イオにとってコベンの存在は、陽だまりそのものなのだ。


(コベンがいなかったら、ぼくはもうとっくに…)


 そのうち、大きなトラックが砂利を踏み飛ばしながら近づいてきて、軍服の男が険しい顔をして降りてくる。


「姿勢を正さんか! 穢れた血のトーウォン人どもめ!」


 寒空に怒声がことさら響き、イオたちはビクリと身を引き締めた。男はすぐさま点呼を取りはじめるが、14番目のおじさんが、返事の際に声を裏返してしまう。


「貴様ァ! なんだその間抜けな返事は!」


 警棒で殴られながら、しかし14番は死体のように反応を示さない。それが看守の反感を買い、何発も追い打ちが入る。


(痛い……はずなのに、感じない……。あの人の心の中に、もっと痛いものがある……)


 ボロ切れのように力なく地に伏す14番。その顔に向かって看守がツバを吐きかけた。


「……はぁ、こりゃもう使い物にならん。次のフレームレスはこいつだな」


 嘘か真実か、社会生活がまともに送れなくなった者ほどフレームレスになりやすいという噂があった。無生産者が差別されるのも、そうした噂と無関係ではない。底辺の底が抜けた姿――フレームレスをそのように形容する者も少なくなかった。


 イオたちを荷台に載せたあと、トラックは工場へと出発する。


「おい、あいつ一体どうしたんだ?」


 痣だらけの顔を気にするでもなく、ただ生気なく俯く14番を指して、イオたちの隣に座る2人が声を潜めて話している。


「昨日、フレームレスが出ただろ。あれ、前に別れた奥さんだってよ。もうすぐヨリ戻せるって浮かれてたとこだ」


「そりゃ、ご愁傷さまだなぁ。しかしアイツ自身は平気なのかよ? もう感染してるんじゃねぇの?」


「まぁなァ。それでなくても、ここんとこ毎日発症者が出てるし」


「はぁ。明日は我が身ってか。いっそその方がラクかもなぁ」


 大人たちはみな、いずれ自身がフレームレスになる可能性について軽々しく話した。そうして他人事のように話すのでなければ、可能性の重さに押しつぶされてしまうのかもしれない。


「絶対、俺らはフレームレスなんかにはならないからな」


 隣でコベンが、小さく噛みしめるように呟いた。イオの心がキュッと引き締められる。楽天家のコベンでさえ、ずっと無事でいられる可能性を信じきれてはいない。


 遠くに見えていた巨大な壁が、少しずつ近づいてくる。それはまるで、巨大な生き物の背骨のように、滑らかで継ぎ目がなかった。


 10年前、大きな地震と津波が島の人々の生活をまるごと飲み込んでいったあと、いつの間にか屹立していた壁。てっぺんが見えないほど高いその壁は、島の中心部をぐるっと囲って、内側と外側をくっきりと隔てていた。


「お前、明日誕生日だよな」


 壁を眺めながら、コベンが声を潜めて伝えてくる。イオは明日、15歳になるのだ。


「俺も来月だからさ。そうしたら、一緒に軍に志願しないか? 軍に入れば、トーウォン人でも壁の中で暮らせるって」


 この島には、現在壁外に隔離されているトーウォン人のほか、壁内でベーライ人という人種が暮らしている。いまイオたちを引き連れている看守もそうだ。


 もともとベーライ人は数十年前にこの島へ渡来してきて、瞬く間にその本国への同化政策を進めていったのだという。

 それでも時を経るごとに、両者の地位は対等に近づき、災害の直前には教育や就職における差別も禁じられるようになっていた。しかし、災害とともに出現した壁と、フレームレスの存在が、再び二つの民族を分断してしまったのだ。

 それから10年間、壁内への立ち入りを許されたトーウォン人の話は聞いたことがない。


「軍にもトーウォン人がいるの?」


「見たことないけど、そういう噂だぜ」


「でも中に行けても、軍は大変なんじゃ……」


「かもな。でも、俺この前見ちゃったんだ。俺らと同じくらいの娘が、フレームレスを討伐しててさ。同年代の女子がいるだけで、辛くてもどうにかなりそうだろ?」


「そういうもんかなぁ……」


 コベンの隣の老人が舌打ちをして、声を潜めて口を挟んでくる。


「お前らはベーライの奴らを知らねぇから夢見てられるんだよ。アイツら昔から、俺らのことを奴隷かモルモットとしか見ちゃいねぇ。俺たちがアイツらから、どういう扱いを受けてきたか……。軍に入ろうが、突撃要員で真っ先にフレームレスの餌だね」


 たたみかけるように、別の中年男性もコベンを咎めた。


「というか、なんでお前らは討伐する側でいられると思ってんだ? 俺らはどうしたって、駆除される側の人種だろうよ」


「わかんないじゃん、そんなこと。これから薬ができたり……」


「墓ん中に入ったあとの話をされてもねぇ」


 コベンはまだ何か言いたげだったが、しかし結局は口をつぐむしかなかった。コベンやイオにとって、大人たちはあまりに簡単に現実を受け入れていた。コベンにとって、それは諦めにしか見えなかったが、そうした方が彼らにとって楽であることも、なんとなく理解できるのだった。

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