三
その後、俺はどうやって会社を出たのか覚えていない。
ただ、同僚たちの悲鳴と橋本の突き落とされたという証言だけが耳の奥で反響していた。
不意に、スマホが震えた。
画面には友人の名前。
「もしもし?」
『透か? 久しぶりだな』
高校時代に仲が良かった池田だった。社会人になり地元を離れてからは疎遠になってしまったが、当時は親友とも言えるほどにつるんでいた仲だ。
極限状態のメンタルが、懐かしい声でわずかに回復する。
「久しぶり、池田。どうしたんだ、急に? 珍しいじゃないか」
『ああ、ちょっと色々あってな』
相変わらず飄々とした口調だが、その奥で重苦しいものを感じた。
『龍美のこと覚えてるか?』
「舞? 覚えてるも何も、忘れるはずないじゃないか」
龍美舞。高校一年の頃に付き合っていた、元カノの名前だ。
『あいつ、今朝事故って死んだらしい』
「……え」
『駅のホームから落ちたらしい。突っ込んできた電車に轢かれて、一撃だってよ』
スマホを持つ手が震える。
何故だか、脳裏で舞がホームから突き飛ばされ、電車にはねられる映像が鮮明に浮かんだ。
『葬儀はまた追って連絡する。それとさ……』
呆然とする俺へ、池田は怪訝そうに言った。
『後ろにいる女、おまえの彼女か? さっきからブツブツうるさ——』
瞬間、耳をつんざくブレーキ音と、激しい衝突音。何かがひしゃげ、ぐしゃ、という音がスマホから吐き出された。
ブツン。
何事もなかったかのように通話が切れた。
「ぁ……っ」
喧騒に満ちた商店街から、色と音が失われていくような気がした。
俺はどうしていいのかわからず固まっていると、握っていたスマホに一件の通知が届いた。
相手は母さんだった。
内容は、中学時代にできた初めての彼女が、数時間前に亡くなったという知らせだった。
「な、何が……」
不意に視線を感じて、俺は振り返った。
街を行き交う群衆の中……ポツリと突っ立っている女性がいた。
長い黒髪に、黒いネグリジェ姿。
そんな異様な格好をしているのに、誰からも注目を浴びていなかった。
誰一人として、彼女を見ていない。まるで最初から、そこに存在していないかのように。
『———』
彼女を中心に漂う、異質な影。徐々に徐々に空気を、空間を侵食し犯していくかのように罅が広がっていく。まるで蜘蛛の巣のように。
「み、あ……」
笑っていた。左右にゆらゆらと揺れて、肩を震わせながら、彼女は笑っていた。
何がそんなにおかしいんだよ。
なんでそこにおまえがいるんだよ。
おまえは、死んだはずだろ。
死んでも尚、おまえは俺を苦しめるのか。
支配するのか。
恐怖よりも先に、どす黒い怒りが腹の底から湧き上がってきた。
俺の人生を、尊厳を、人間関係を、どれだけ食い散らかせば気が済むんだよ、おまえは。
俺は走った。すぐ背後から笑い声がのしかかってくる。肩が潰れそうだった。足が重く痛かった。それでも、怒りに身を任せて俺は走って、アパートにたどり着いた。
アパートの前は、救急車や警察、そして人だかりができていた。
野次馬を掻き分けて先頭に出ると、大家さんの部屋から数人の救急隊員がビニールシートに包まれた何かを運び出していた。
「首吊りですって。今朝は元気そうだったのに……」
ひそひそと囁かれる大家さんの死に、俺は拳を握り締めた。
美亜だ。
美亜がやったに違いない。
サイレンもなく立ち去っていく救急車を見送って、俺は階段を駆け上がった。
「……ふざけるな」
これ以上、おまえの思い通りになんてさせてたまるか。
一階に住む野球少年が起き忘れた金属バットを手に、俺は玄関に押し入った。
廊下に漂う、腐った花の甘い匂い。
夏場だというのに、ひどく冷えていた。
そして異様に暗かった。日当たりがいいはずの部屋が、黒い膜で遮断されているかのように真っ暗だ。
けれど、もはや恐怖はなかった。
俺は怒りに身を任せて、美亜の部屋のドアをバットで殴りつけた。
躊躇はなかった。けれど、一度じゃ壊れなかった。二回、三回と全力でバットを叩きつける。最後は足蹴にしてドアを破壊すると、そこに広がっていた光景を見て絶句した。
美術館のような様相。
壁に架けられた俺の写真。俺を描いた絵画。俺の肖像画。それらを際立たせるかのように壁に隙間なく植え付けられた数千枚の写真の数々。
その全てが俺、俺、俺——
そして数千の俺に見守られるようにして鎮座するのは、祭壇だった。
俺の好物を供え、俺を模して編まれたぬいぐるみを祀るそれ。
「気持ち悪い」
気持ち悪いんだよ。
「気持ち悪いんだよおまえは!!」
俺は叫びながらバットを振り上げた。祭壇にバットを叩きつけ、蹴り飛ばす。壁ごと写真を打ち抜き、バットを振りまわした。
「こんな部屋も、おまえの未練も、全部ぶっ壊してやる!!」
俺を模したぬいぐるみを掴み上げ、それを引き裂こうとした瞬間だった。
『ダメだよ』
耳元で、声がした。
『そんなことしちゃ、ダメだよ』
背筋が凍りついた。バットを握っていた手から力が抜け、カランと床を転がった。
動かない。指一本たりとも、動かせない。
金縛り?
俺の意思が、筋肉に伝わららない。
「な、ぁ、……っ」
視界の端が歪んでいく。
ゆらゆらと黒い煙が、歪みながら近づいてきて……。
やがて人の形が俺の視界で、実体化した。
美亜だ。
いつもの嘲るような微笑を湛えて、美亜が床を軋ませる。
『でも、わかったの。祭壇がなくても、もっとあなたと繋がれる方法』
笑う。嗤う。嗤う。
美亜は俺の正面に立つと、血の通わぬその手で俺の頬を包んだ。
『一緒になっちゃえばいいんだ。そうすれば、ずっとずっと、離れられない』
生きていた頃にそうしていたように、強引に、貪るように唇を重ね合わせると、美亜は肩を揺らして笑った。
何がそんなにおかしいのだろうか。
俺は恐怖と怒りをない混ぜにした感情で押し潰されそうだった。
目の前にいるのに、壊せない。
死んでしまいたいのに、死ねない。
そんな俺の絶望を、美亜は心底おかしいと嗤う。
『もう苦しまなくていいよ。誰も傷つけずに済むよ。私があなたになって、あなたを守ってあげるから』
美亜の顔が崩れ、黒い泥のようになって俺にまとわりついた。
息ができない。
目、鼻、耳——全身の穴という穴から美亜が流れ込んでくる。這入ってくる。冷たい異物が、内側から俺という存在を犯して、冒して、侵して塗り変えていく。
声すら出せなかった。やめろ、やめろと叫んでいるのに、俺の口は動かない。抵抗すら許されない。
『愛してるよ、とおる』
視界が黒く濁って染まり、やがてブラックアウトする。
俺の意識は、美亜の中へと沈んでいった。
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