雀の鳴き声と、カーテンの隙間から差し込む白い光で目が覚めた。


 重い。


 まるで鉛の板でも乗せられているかのように、全身がけだるかった


 最悪の目覚めだ。けれど、思考がクリアになるにつれて、俺の心には安堵が広がっていった。


「夢……か?」


 身を起こし、額に滲んだ冷や汗を手の甲で拭った。


 ひどくリアルな悪夢だった。


 腐った花の匂いもしないし、粘着質な視線も感じない。


 美亜の幽霊が出て、俺に呪いの言葉を吐くなんて。罪悪感とアルコールが見せた幻覚に違いない。


 当然だ。美亜は死んだのだから。


 そう自分に言い聞かせながら、俺は乾ききった喉を潤すためにリビングへと向かった。


 リビングのドアを開けて、凍りついた。


『——♪』


 軽快で、それでいて不安定なオルゴールのBGMが静まり返った部屋に響いている。


 リビングのテレビがついている。


 五十インチの大画面には、ニュースやバラエティでもない……スライドショーが映し出されていた。


 俺の寝ている顔。俺が食事をしている姿。風呂上がり、髪をドライヤーで乾かしている姿からオフィスで仕事をしている風景まで。


 撮影されていたことすら知らない、盗撮されたものまで次から次へと流れては消えていく。


「……なん、で」


 俺は触れていない。


 テレビには、触れた記憶がない。


 ぞわりと肌を粟立てながら、硬直する体をなんとか動かして、俺はリモコンに手を伸ばした。


 テレビの電源を消す。


「っ」


 瞬間、真っ暗になったテレビの液晶に美亜の姿が映った気がして俺は叫んだ。


 俺の背後、肩越しから歪に口角を歪めた美亜の微笑み。


 そんなはずがない。そんなはずあるわけがない。


 髪の毛を掻きむしりながら部屋を見渡した。


 視線が、美亜の部屋に固定される。


 スライド式のドアが、少し空いている。


 一センチほどのわずかな隙間。


 普通なら気がつかないようなその隙間だが、彼女の部屋に限ってはあり得ない。

 

 美亜は部屋に入られるのを酷く嫌った。理由はわからない。


 一度、掃除機をかけようとドアに手をかけただけでヒステリックを起こされた。


 その時のことは、あまり思い出したくない。

 だから、それ以降は、彼女が死んでしまっても尚、入れずにいた部屋だ。


 たとえ一センチであろうと、隙間が開くことは考えられない。


「……会社、行かなきゃ」


 心臓を直に手のひらで押さえつけられているかのような感覚。


 止まらない冷汗を抱えて、俺は洗面所へ駆け込んだ。


 朝だ。今日は仕事がある。

 冷水で顔を洗い、強引に意識を切り替える。


 鏡に映る顔色は最悪で、体調も悪かったが構っていられなかった。


 スーツに着替え終えると、俺は逃げるようにしてアパートを出た。


 今にも崩れ落ちてしまいそうな錆だらけの階段を降りると、掃除をしていた大家さんと鉢合わせた。大家さんは一瞬、表情を強張らせたが、ぎこちなく笑顔を作った。


「お……おはようございます、宮本さん。これから出勤ですか?」


「おはようございます。はい、行ってきます」


「お気をつけてね。その、なんというか」


「?」


 珍しく歯切れの悪い大家さんは、気まずそうに視線を逸らして箒を動かした。


「彼女さんのこともあるし、その……気をつけてね」


 美亜の葬儀には、大家さんも参列してくれていた。

 この人はきっと、同棲していた彼女が死んで後を追わないか心配しているのだろう。


 側から見れば、とても仲の良いカップルに見えていただろうから。


 それに、部屋の中で死なれては物件の評価も下がるだろうし、大家としては見過ごせないだろう。


「大丈夫ですよ」


 それだけ言って、俺はいつもの道を歩き始めた。


 美亜と二人、毎日のように並んで歩いていた道を。


 早足で。



 職場に着くと、幾分か気分は紛れた。


 オフィス内は愛されていた美亜が死んだことを引きずっており、重苦しい雰囲気だった。


 けれど、仕事は容赦無く降ってくる。


 二日ほど休んでいたせいでメールが溜まっており、それらのチェックと返信、予約客と物件の案内などやることは山積みだ。


「宮本くん、大丈夫? 顔色、悪いけど」


 昼頃。出先から戻り、契約書の作成をしていた俺に同僚の橋本が声をかけてきた。


 ショートカットが似合う活発な彼女が、眉を下げて心配そうに俺を見つめている。


「そうか? ちょっと……寝不足なのかも」


「無理しないでね。その、美亜さんのこと、大変だと思うけど」


 橋本の優しさが身に染みる。と同時に、改めて「美亜は死んだんだ」という事実を再確認する。


 そう、死んだのだ。彼女は、確実に。


 だから、昨夜のアレは気のせいなんだ。


「大丈夫だよ。あいつがいなくなったのは寂しいけど、いつまでも引きずってちゃ、あいつにも悪いしな」


 自分への言い聞かせ半分で、もう半分は本心。


「そっか……ならよかった。——あのさ、気分転換に今夜ご飯に行かない? 私で良ければ色々話聞くし、気晴らしになればなーって」


 少し申し訳なさそうなその提案に、俺は頷いた。


「うん、行こう。ありがとう、誘ってくれて」


 以前の俺なら、即座に断っていた。女性と二人きりで食事に行ったと知られれば、どんな報復をされるかわからないからだ。


 それはまあ、どんな彼女でもそうなのかもしれないが、美亜の場合は度が過ぎる。


 俺の命が幾つあっても償い切れない罰を与えられるに違いない。


 ……いや、やめよう。


「よかった。じゃ、お店予約しておくね」


 もう美亜はいないのだ。彼女の影に怯える必要はない。


 彼女が死んですぐに他の女と遊びに行くなんて、どうしようもないクズ男かもしれないが。


「定時で帰れるようにがんばろうね」


「うん」


 頷いて、俺は再びパソコンと向き合った。橋本さんは営業のために外へ出て行った。


 そしてあっという間に定時となり、帰り支度を終えた俺は椅子から立ち上がった。それとほぼ同時に、上司がオフィスに飛び込んできた。


「橋本が階段から落ちた! 救急車呼んでくれ!!」


「橋本が……?!」


 俺は弾かれたようにして席を立った。上司のすぐ横を通り抜け、現場へと走った。人だかりの中で、高橋さんが倒れているのを見つけた。


「橋本さん!!」


「み、宮本くん……っ」


 非常階段の踊り場で、高橋さんは介抱されていた。特に目立った外傷はないが、苦痛に顔を歪めて震えている。


 そして、俺の姿を見るけるやいなや、信じられないものを見るような目で叫んだ。


「押されたの……っ」


 彼女は、ガタガタと全身を震わせながら、言った。


「美亜さんが、私の背中を押したの……っ! 『人の男に色目使ってんじゃねえよ』って……!」


 空気が凍りつくのを感じた。集まっていた同僚たちが、一斉に俺を見る。


 全身の毛穴という毛穴から鳥肌が噴き出す。


「あ、あ」


 いる。

 やっぱり、いるんだ。


 救急車が近づいてくるサイレンの音に混じって、俺は確かに聞いた。


 かつて俺を縛り付けていた、あの女の高笑いを。

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