ヒトデナシ
肩メロン社長
死んでもきみを離さない。
一
火葬場の煙突から昇る煙は、驚くほど白くて、頼りなかった。
あれほど俺の人生に重くのしかかり、息苦しいほどの愛を押し付けてきた女の最期にしては、あまりにもあっけない消失だった。
「……終わった」
骨壷を抱えた両親を見送り、喪服のままアパートに帰り着いた俺は、玄関で革靴を脱ぎ捨てると同時に、深く息を吐いた。
悲しみがないわけではない。
涙も出たし、胸に穴が空いたような喪失感もある。
けれど、それ以上に俺の心を支配していたのは――圧倒的な解放感だった。
美亜が死んだ。
あの美亜が。
冷蔵庫から缶ビールを取り出して、喉に流し込む。
アルコールが体内から俺を焼き焦がしていくような感覚と共に、彼女との思い出が脳裏を駆け巡る。
出会いは高校三年の春。同じクラスで、お互いに話しかけたり意識しあったりすることはなかった。それどころか、目が合った記憶さえない。
関係が変わったのは、高校を卒業した後。まさかの就職先が同じで、入社式で俺たちは再会した。
それから二人で食事に行くようになったり、二人で営業したり、残業したり。
学生時代は地味目な印象だった美亜だけれど、社会人になった彼女は、この時を待っていたと言わんばかりに垢抜けた。
本来はこっちの姿だと言わんばかりに。いや実際に、そうだったのかもしれない。
職場でも営業先でも、彼女はとんでもなく可愛がられて、男女問わずモテた。
愛嬌もあって、話を聞くのがうまくて、そして頭の回転が速い。
そんなモデル顔負けの彼女が、俺に懐いてくれる。並んで歩くと肩が触れる。休みで会えない時は、「がんばって」と手のひらを重ねてくれた。
好きにならない方がどうかしてる。
気がつくと俺の方から告白していて、美亜は待っていたと言わんばかりに頷いた。
今にして思えば少し都合が良すぎるような気もするけれど、その真意はもうわからない。
「……静かだ」
三缶目のビールを飲み終えた頃、一通りの回想を終えた俺は呟いた。
美亜の愛を囁く声が聞こえない。美亜という存在がこの部屋に居ないだけで、耳が痛くなるほどの静寂を感じた。
部屋に不釣り合いな五十インチのテレビも、今日は真っ暗なままだ。俺の幼少期から成人するまでのスライドショーや、俺をメインに撮られた夜の情事映像も流れていない。
ああ、そうだ。
これからは、社訓のように毎日擦り合わせていた愛の言葉を発声することも、ぐちぐちと過去の彼女歴をほじくり返されることもない。彼女の機嫌を窺って、子犬のように甘えておだてることもない。
帰りが遅いというだけで、殴られることもない。
「そうか。もう居ないのか」
不謹慎なのは承知の上で、俺は叫びたい気分だった。
助かったのだと。もう男としての尊厳もプライドも肉体も傷つけられることはない。
俺は俺らしく、好きなように生きられるのだと。
『――る』
……え?
俺はソファの上で固まった。今、一瞬……。
声が聞こえた気がしたから。部屋の中で。
いや――
『そ……にい……よ』
隣の部屋。美亜の自室から、女の声が聞こえてきた。
〝とおる、ずっとそばにいるよ〟
そんな感じの言葉が聞こえてきた――気がする。
「酔っ払った……かな」
自分に言い聞かせるように呟いた。
風でも吹いたのだろう。古い木造のアパートだし、建て付けも悪い。
多分、一瞬だけ、自分でも気づかないうちに眠っていた可能性もある。
そうじゃなきゃ、おかしい。
だって、あの声は間違いなく――
――カタ。
不意に、物音がした。音の発信源は、やはり美亜の部屋。
気がつくと俺は体を震わせていた。
気のせい。気のせい。気のせいだろ、これは。
酔いがまわってる。アルコールのせいだ。錯覚しているだけ。
何度もそう言い聞かせて、俺は喪服をソファに脱ぎ捨てて寝室に走った。
セミダブルのベッドに潜り込み、目を瞑る。
眠ってしまえば怖くない。
違う。怖い、という感覚が間違っている。何も怖いことなんてない。だって、だって、美亜はもういないのだから。
美亜は燃えた。灰になった。物理的にこの世から消滅したんだ。
だから、
『とおる』
彼女は、
『どうして』
ここに、いるはずないだろ――。
『逃げるの?』
「っ」
聞き間違えるはずがない。
この少し鼻にかかった、甘ったるい声。
俺の耳元で何千回、何万回と愛と罵詈雑言を囁いてきた声。
俺が聞き間違えるはずなんて、ない。
「ど、どうして、おまえがいるんだよ……っ!!」
震える体から必死に声を絞り出した。返答はない。その代わりに、視線を強く感じた。
どこから見られているのかはわからない。
けれど、確実に見られている。布団を被った俺を、あの湿り気を帯びた粘着質な視線で、見つめている。
頭がおかしくなりそうだった。
なんだ、これ。
何がどうなってるんだよ。
必死に閉じたはずの瞼の裏で、美亜が嗤う。
俺を嘲るように、愛おしむように、蔑むように、慈しむように。
俺の汚いところも綺麗なところも全て愛してあげると言わんばかりに、彼女は笑った。声を上げて、笑った。
「うああああッ」
瞼も耳も抑えて顔をシーツに埋めて隠れる。怖い。怖い。怖い怖い怖い。
呼吸すらもままならない。つま先から頭まで迫り来る美亜の気配に、だんだんと意識が遠のいていくのを感じた。
腐った花のような甘い匂い。
漂ってくるその匂いを最後に、俺は意識を閉じた。
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