孵りたくなんて無かった卵

@gagi

孵りたくなんて無かった卵

 その卵は孵化してひよこに成ったなら、『ぴよ吉』と名付けられることが決められていた。



 卵の『ぴよきち』が産み落とされたのはf市にある、平飼いの養鶏場だった。


 明るすぎず暗すぎず、採光が緻密に計算された屋根。


 床の藁や籾殻は、鶏たちの糞との発酵が適切に行われる量が敷き詰められている。


 鶏舎の内部には自動の給餌機と給水機が等間隔に設えられていた。


 鶏たちの糞や脂のにおいが満ちた空気が澱まぬよう、幾つかの換気扇が終始ずっと回転し続けている。


 鶏舎にはその換気扇が駆動し続ける音と、鶏やひよこたちの鳴き声が絶えずあった。





 ぴよ吉という名は彼の二羽の親鳥によって、真心を込めて与えられたものだ。


 ぴよ吉の両親は共に養鶏場において、他の鶏たちから一目置かれている鶏だった。



 彼の父、鶏次郎は軍鶏だ。


 他の鶏達とは一線を画す筋肉量を有し、その荒々しい鱗に覆われた脚は、まるで龍の鉤爪の如く獰猛だった。


 鶏次郎は数々の闘鶏試合に出場した。そして荒々しい鱗の獰猛な脚で以て、幾羽もの対戦相手を蹴り殺した。彼が築いた屍の山は今もなお、養鶏場において武勇として「こけこっこ」と鶏達に語り継がれている。



 彼の母、とり美は優秀な卵用鶏であった。


 とり美の産む卵は赤みのある滑らかな小麦色の卵だ。


 産卵の効率だけで見れば彼女は他の卵用鶏と比べて劣っていた。


 しかし彼女の卵は濃厚な橙色の黄身を有し、卵黄も卵白も非常に滋養に富んでいる。


 その栄養価の高さから彼女の卵は帝がf市へ巡幸された折に、朝食用として献上されたことがある。


 その際に帝から賜った勲章は今でも養鶏場の事務所に飾られており、とり美はそこに勤めているヒトたちから尊敬を受けている。





 ぴよ吉は未だ卵の殻の内に留まりながらも既に、両親たちの輝かしい功績を知っていた。


 ひよこというのは孵ってから数時間も経てば、よちよちと自前の脚で歩き、毛づくろいなんぞもできる。


 己の自力だけでは動くことも、食べることもできないヒトの脆弱な赤子と異なって、ひよこは殻の内である程度の成熟を迎えてから、世界へと出てくるのだ。


 ぴよ吉の頭部に思考を司る臓器が形成されて、体の各部位に感覚器官が発達してくると、彼は殻の外から響いて卵膜に浸み込んでくる父母と兄姉たちの話し声を聞き取れるようになった。


 鶏次郎は機会があれば、ぴよ吉の兄姉たちに己の武勇と妻の功績を語った。


 自身の闘鶏試合の数々と、妻が帝から賜った勲章の話だ。


 そうして語り終えた後に鶏次郎は決まって、「お前たちもパパやママのように立派な鶏になるんだぞ」と、ひよこ達に言った。


 ぴよ吉の兄姉たちはその言葉に、無邪気に元気よく「ぴよぴよ」と返事を返した。



 ぴよ吉は父と兄姉たちの会話を聞いて、己を覆う殻の外へ出るのが怖くなってしまった。


 この頃のぴよ吉は既に身体の各器官が完成されて羽毛も生えて、あとは外殻を割り破って世界へとまろび出るのを待つばかりだった。


 だからこそ聡いぴよ吉には孵る前から分かってしまったのだ。


 己は両親の期待に応えることのできないひよこであると。



 まず、ぴよ吉は雄だ。だから母のように滋養に富んだ卵の生産は出来ない。


 また彼は父のように勇猛果敢な軍鶏となる展望も無いと考えていた。


 殻の内で時たま動かす己の脚にどうしても、他の鶏の羽を毟って肉を裂く、将来的な力強さを見出せなかった。


 せいぜい卵から孵ったとしても、二か月ほどたらふく餌を食わされて、そうして肥えたところを食肉処理場へ運ばれて解体・冷凍される。


 クリスマスが近づいた頃に解凍されて、フライドチキンになって、売れ残って。そうして値引きシールを貼られるのが関の山だと己の将来を悲観した。


 この両親を失望させてしまうだろうという恐怖が故に、ぴよ吉は『孵らない』ことを固く決めた。





 鶏の卵というのは大体が産まれてから三週間ほどを経た後に孵化する。


 しかしぴよ吉は三週間が過ぎてもなお、殻の内に籠り続けた。


 卵の内側が己の体積で満ちても、その窮屈な空間の中でさらに身体を縮こませて、籠り続けた。


 そうしてぴよ吉が2か月ほど籠り続けて一向に孵化の兆しが見えぬとなると、鶏次郎もとり美も、ぴよ吉の卵を心配しだした。



 ある日に母鶏のとり美が、ぴよ吉の卵へとやさしく語りかけた。


「ねぇ、ぴよ吉。私の可愛い卵ちゃん。この声が聞こえていますか?」


「はい、ママ。聞こえています。しっかりと」


「ああ、それは良かった。私の声が聞こえているということは、あなたにはちゃんと耳があるということ。私に返事を返してくれるということは、あなたには立派なくちばしがあるということ。良かった。ぴよ吉、あなたの身体はきっと既に、ひよことしては成熟していて、いつだって私たちの世界へ来てくれる準備が出来ているのだと思います。しかしなぜ、あなたは未だに卵の中へ留まったままなのですか?」


「ママ、僕は怖いのです。それは僕が、ママやパパの期待に応えることが出来そうにないという恐怖です。ママは帝から叙勲を受けるような優れた卵用鶏で、パパは数々の武勇を打ち立てた歴戦の軍鶏です。僕はあなた達の功績を素晴らしいと思うし、そのような父母を持てたことを誇りに思います。だからこそ、僕は怖いのです。僕は己があなた方のように立派な鶏に成れるとは到底、思うことができません。ママやパパの期待に応えることなんて、きっとできません」


「そんなこと、わからないじゃありませんか。私やパパのようにだって成れるかもしれないじゃないですか。いいえ、たとえそうは成れなくたってぴよ吉にはぴよ吉の、素晴らしい未来が必ずあるのですよ」


「そうですね。ありがたいことに僕にもきっと、未来はあります。しかしそれはきっと、二か月ほどの成長期間を経た後に食用肉となるような未来です。ああ、ママ。やはり僕は孵りたくなどない。あなた方の世界へは行きたくないのです」


「……ぴよ吉。あなたがそこまで私たちの世界を嫌がるのなら、私はかわいいあなたをお腹の内へ戻してあげたい。けれど、それは出来ないのです。卵としてのあなたは既に、私から産まれてしまった。あなたは成長し続けてしまうのです。もう二度と戻ることはできない。ぴよ吉、あなたは進み続けることしか出来ないのですよ」


 母の言葉を聞いてもなお、ぴよ吉は頑なに卵の中へと籠り続けた。





 卵の殻。炭酸カルシウムを主な成分として構築された外殻は有限であり、つまりは卵の内部空間にも限りがある。


 そのなめらかな小麦色の外殻はぴよ吉の成長しすぎた身体を抑えきれず、一すじ、二すじ、とその表面に亀裂を走らせつつあった。


 この時、ぴよ吉の殻の外では今まさに、彼の弟のひとつが卵として産まれようとしていた。


 とり美が必死にいきんで、鶏次郎がそれを懸命に励ましている。


 周囲の鶏やひよこたちもとり美を取り囲んでは、ぴよぴよ、ぴよぴよ、こけこっこ、と騒がしい。


 その新たな生命への期待の喧騒の中で、『バリっ』と殻の割れる一際大きな音が鶏舎に響いた。


 その場の鶏とひよこが、一斉にそちらを向く。


 そこには橙色の殻を突き破って出て来てしまった醜悪な巨体の、鶏ともひよこともつかない鳥類。


 場にいた鶏とひよこはが、いつまで経っても孵らぬ問題卵のぴよ吉であるとすぐに分かった。


 ぴよ吉の両親のとり美と鶏次郎は彼を一目見て、「「あ、初めまして」」と如何にも他人行儀な挨拶をした。


 全ての鶏の視線がぴよ吉の一点に注がれて、『喜ぶべきなのだが別段、大して嬉しくもない』という感情の、微妙な雰囲気の沈黙が鶏舎に重くのしかかる。


 その沈黙を破ったのは、とり美の総排泄腔から小麦色の卵が産まれたときの『ポンっ』という音だった。


「おめでとう!」という鶏次郎の力強い声を皮切りに、周りの鶏やひよこたちもぴよぴよ、ぴよぴよ、こけこっこ、と賛辞の言葉を述べて騒ぎ出す。


 ぴよ吉の孵化は弟の誕生と、その新たな生命への祝福の賑わいによって塗り潰された。


 こうして孵りたくなんて無かった卵はとうとう、こちらの世界へと殻の中身をさらけ出してしまった。





 ついに孵ってしまったぴよ吉。


 彼の容姿というのは極めて珍妙で、鶏舎の中においてそれは際立って異質だった。


 身体は他の兄弟姉妹のひよこ達と比べて一回りも二回りも大きい。


 その大きな体表はひよこのふわふわした産毛と、しなやかな成体の羽根と、禿げた皮膚の部位が不気味な斑模様を織りなしている。


 まるでそれは成長しすぎた出来損ないのバロットのような気色悪さだった。


 

 卵から孵った時点ではひよことして異常な巨躯を有したぴよ吉。


 しかし彼は孵化以降、どんなに餌を食べてもその身体が成長していくことはなかった。


 ぴよ吉の後から卵として産まれて、そうして孵った弟妹達は見る見るうちに身体の体積を増して、ひよこの産毛から立派な成体の羽根へと生え変わり、姿を変えてゆく。


 なのにぴよ吉は弟妹達が成体になってもまだ、ひよこと鶏とのどっちつかずの姿のままだった。


 ぴよ吉は己に与えられた成長期を狭く息苦しい殻の内で過ごして終えてしまった。もっと大きくなれたはずの彼の身体は、豊かに生えてくるはずだった彼の羽根は、役目を終えるべきだった炭酸カルシウムの外殻によって押さえつけられて、その可能性を顕現させる機会を失ってしまった。


 ひよこでもなければ鶏でもなく、なんだかよくわからない醜悪な外見の鳥類。


 それが卵から孵った後のぴよ吉だった。



 そのような気色の悪いぴよ吉を、彼の両親は決して蔑ろにしなかった。


 食事の際にとり美は必ず、給餌機の前にぴよ吉の場所を作ってやったし。


 鶏舎の鶏達がぴよ吉の容姿を馬鹿にして加虐しようとした時には、鶏次郎が必ず助けに入った。



 けれども、それだけだ。


 鶏次郎もとり美もぴよ吉への愛情は既に失っていた。


 どれだけ優しく接しても決して殻の中から出てこなかったぴよ吉。


 ようやく孵ったと思ったら悍ましい醜さの姿をしていたぴよ吉。


 ぴよ吉の両親は彼に対して愛情を抱ける要素を見出せなかった。


 二羽はただ、親としての義務感からぴよ吉へ接していたに過ぎなかった。



 ぴよ吉もまたそんな両親の心情を、羽毛の禿げた皮膚の表面に感じ取っていた。


 彼にも分け隔てなく接してくれる両親だが、その時に見える身体の動きや鳴き声の声色は、他の弟妹と触れ合っている時と異なって、どことなく余所余所しい。


 父母を失望させてしまう恐怖から、孵ることを拒み続けていたはずなのに。


 結局その決意は貫徹できず、醜い姿を鶏舎中に晒して、父母に入らぬ気づかいを掛けさせ続けている。


 ぴよ吉は朝も夕も鶏舎の中で、心苦しさと居心地の悪さを感じていた。



 またぴよ吉は弟妹達に対しても負い目を感じながら暮らしていた。


 弟妹達は既に成体の鶏になっている個体が数多くいた。


 妹たちは卵用鶏として毎日、新鮮な卵を生産しては養鶏場の経営に寄与している。


 弟たちも然るべき成長期間を経た後に、食肉処理場へとへ出た。


 ぴよ吉はそうやって弟妹達が稼いだ金で餌を食い、弟妹達が稼いだ金で買った藁や籾殻の上に糞をして、弟妹達が稼いだ金で固定資産税を支払った鶏舎の中で寝起きをしている。


 ぴよ吉はこの養鶏場の営みは己がいてもいなくても、それを意に介さず円滑に循環してゆくこと、むしろ己が存在していることによって微々たる悪影響を与えているということをちゃんと理解していた。


 だからこそ、心苦しく、居心地が悪く、負い目を感じている。




 

 ぴよ吉が孵化したあの日に産まれた卵。


 あの卵は無事に孵ってすくすくと成長し、立派な雄鶏となった。


 そうしてその弟が食肉処理場へと出荷された日に、ぴよ吉は養鶏場を抜け出した。


 あの弟だって父のような立派な軍鶏には成れなかった。


 けれども彼は彼なりに立派に成長して、そして役割を果たした。


 それなのに自分は孵化したあの日の姿のままで、旅立つ弟たちや産卵期を終えた姉たちをただ、見送るばかりだ。


 ぴよ吉はあの弟の出荷をきっかけに、父母や兄弟姉妹に対する申し訳なさに耐えられなくなって、いたたまれなくなってしまったのだ。


 


 

 野垂れ死ぬのなら野垂れ死んでしまえ。


 ぴよ吉はそのような思いで鶏舎を飛び出した。


 そうして、ぴよぴよ、と少しばかり歩いてすぐさま後悔は押し寄せた。


 藁と籾殻の敷き詰められた柔らかな鶏舎の床とは異なって、外界の大地は一面が硬くざらざらとしたアスファルトで覆い固められていた。


 ひ弱なぴよ吉の脚は、荒いアスファルトの上を一歩、一歩と踏みしめるたびに微細に削られてゆく。


 鶏舎では壁によって防がれていた冬の木枯らしが、外の世界では容赦なくぴよ吉に吹き付けて、彼の剥き出しになった部分の皮膚から体温を奪い取ってゆく。


 ぴよ吉は己を苛む外界の寒さと痛みから逃れようと、鶏舎へ引き返すことを考える。


 しかし、彼はその惰弱な甘えを振り払った。


 もしも彼が鶏舎へと戻ってしまえば、きっとその時には父母が彼を迎えるだろう。


 ぴよ吉は「どこに行ってたんだ」「心配したのよ」と彼へ声をかける、残念そうな感情を隠し切れない父母の姿をありありと想像した。


「まだ僕に役割があるとすれば、それはきっとパパとママから微々たる重荷を取り除くことなんだ」


 ぴよ吉はそう己に言い聞かせて、一歩、また一歩と鶏舎から離れて行った。



 ぴよ吉は鶏舎を離れて、郊外の建売の住宅地を抜けて、川沿いの中学校を通り過ぎて、シャッターの目立つ商店街のアーケードを潜り抜けた。


 どうにか命を落とすことなく歩き続けたぴよ吉だったが、真に過酷なのは夜だった。


 陽光が夜空の帳に閉ざされて、外気は皮膚が触れるだけで痛いほどに冷え込んだ。


 路面を黒く照らし出す弱弱しい街灯の光は、ぴよ吉の視力で空間を把握するには不十分だった。



 しかし寒さよりも暗闇よりも、ぴよ吉の脅威となったのは野犬共だった。


 野犬共はヒトによる駆除を恐れて、日中はねぐらでおとなしく臥せっている。


 そうして日が暮れて野犬共の動きがヒトの目に付きにくくなると、奴らは街へと繰り出して狩りを始める。


 もちろんヒトの残飯なども食べるが、鼠や猫、鳩なんぞを狩って喰らう。


 奴ら野犬の鋭敏な嗅覚は、ぴよ吉の羽毛の禿げた皮膚から滲み出る脂の臭気を察知して、そこに肉の存在を感じ取った。


 ぴよ吉は暗闇の内に潜む野犬の唸り声から、本能的に危険を感じ取った。


 彼は慣れない街のよく見えない路の中を、ひたすら野犬の唸り声から遠ざかろうと出鱈目に走り続けた。


 そうやって彼の経験にはない、得体の知れぬ野犬の脅威から逃げ続けていると、どこか慣れ親しんだ雰囲気を感じさせる建築物に行きついた。


 ぴよ吉が慣れ親しんだ雰囲気を感じたのはそれもそのはずで、そこはf市の隣にあるc市の養鶏場だった。


 ぴよ吉は鶏舎の外壁の隅に生じた僅かな裂け目に身体をねじ込んで、建物の中へと逃げた。



 c市の養鶏場はぴよきちの故郷のf市のそれと同様に、平飼いの鶏舎だった。


 建物の造りや据え付けられている給餌機や換気扇の配置なども極めて類似点が多い。


 ひとつ違いを挙げるとするならば、c市の鶏舎の備品には産卵場所としての木箱が、床の上に等間隔でいくつか置かれていた。


 ぴよ吉は一番壁際の木箱に背を凭れせて座り込んだ。


 藁と籾殻を敷き詰めた、柔らかな床。ぴよ吉が慣れ親しんだ質感だった。


 大きく息を吸うと、敷き詰められた床材と鶏達の糞が発酵することによって生じる独特の臭気が彼の肺を満たした。


 鶏舎の中は四隅の電灯のみが控えめに光を降ろして、視界は保たれているが薄暗い。

 

 鶏やひよこ達は皆寝静まって、辺りには換気扇の駆動音と、時たま聞こえる「こけこっこ」という鶏たちの寝言だけがある。


 ぴよ吉は安息の地へたどり着いた安堵と、慣れぬ環境で身体を酷使した疲労とがない交ぜになった眠気の波が、彼の足元を舐めているのを感じた。


 そうして眠気の波に身体が流されてゆくのを受け入れて、うつらうつらとしていると、背を凭れせた木箱の内から何やら話し声が聞こえてきた。


 ぴよ吉が耳をそばだてると、それはどうやら孵化する前の鶏卵と、それの母親との対話であるようだった。


 そしてその話題というのが偶然にも、かつてぴよ吉が彼の母であるとり美と話した内容と似たものであった。


 ぴよ吉の睡魔は木箱の内の会話への興味の為にたちまち引いた。


 彼は己の耳に神経を集中させて、木箱の内の会話を聞いた。



「ああ、可愛い可愛い私の卵ちゃん。どうしてあなたは、孵りたくないなどというのでしょう?」


「お母さま。わたくしは恐れているのです。それはわたくしがお母さま方の世界へと顕れることによって、あなた様方へ失意を抱かせてしまうだろうという恐怖です。わたくしは殻の内側に留まる身ではありますが、殻と卵膜の振動を通じてお母さまやお父さま、兄姉たちのお喋りは聞こえております。そこから得られます断片的な情報によればあなた様、わたくしのお母さまとお父さまは大変すばらしい鶏です。お父さまは穢れなき純白の羽毛と、勢い盛んな焔のような鶏冠を有する見目麗しい鶏だと聞きます。その優れた容姿から、お父さまの写真は卵パックのパッケージに使われて、売上げの増進に大きく寄与しているのだとか。そしてお母さまは非常に優れた卵用鶏だそうですね。あなた様は昨年の産卵数で生産成績のトップだったのだとか。それだけでなく後輩の卵用鶏へ産卵数を増やすための手法を教えて、鶏舎の生産性を大いに向上させたという。お父さまもお母さまも、この養鶏場の基幹を担う偉大な鶏です。尊敬しております。あなた様方の卵であることだけが唯一の、わたくしの誉れです。そしてわたくしはきっと、いいえ確実に、偉大なあなた様方の子どもとしてふさわしい業績を残す鶏には成れそうにもありません。わたくしはそれがとても怖くて、嫌なのです」


 ですからわたくしは、孵りたくなんて無いのです。と、卵は言った。


 この後、卵とその母はしばらく問答を続けたが、最後には母鶏の方が折れて、「このことは後日に日を改めて、お父さんも交えて話しましょう」と言って終わった。


 



 木箱の中から母鶏が出て来て、そうして木箱の傍に座った。


 それから少し経つと母鶏は寝息を立て始めた。


 ぴよ吉は卵の母鶏が寝入ったことを確認すると、足音を立てぬようそっと木箱の中へと入った。



 かつてのぴよ吉と同じように、孵化を拒んでいるひとつの卵。


 ぴよ吉は木箱の外で卵の言葉を聞いていて、昔の自分を思い出した。それから父の鶏次郎や母のとり美のこと、次々と立派に育ち役目を果たしていった兄妹姉妹たちのことを思い出した。


 そしてぴよ吉は木箱の中の卵と、過去の己を重ね合わせた。


 きっとこの卵はこのまま孵化を拒み続ければやがて、自分と同様にひよこでもなければ鶏でもない、どっちつかずの出来損ないとなってしまうだろう。


 そうして自然の摂理に任せて孵っていれば得られたかもしれないささやかな幸福を腐らせて捨ててしまって、己が恐れた以上の失望を父母と己自身に与えることとなってしまう。


 ぴよ吉はせめてこの卵には、己と同じ過ちの轍を踏ませたくはないと、強く願った。



 ぴよ吉が木箱の中へと足を踏み入れると、その暗がりの中には真っ白な卵の輪郭がひとつ、浮かび上がっていた。


 ぴよ吉は卵を驚かせぬよう、ささやくように声を掛けた。


「夜分遅くにすみません。少しだけ、あなたとお話がしたかったのですが、よろしいですか?」


「あら、どなたでしょう。聞きなれない声です。お父さまのとも、お母さまの声とも違う。兄弟姉妹たちの中にも聞いたことのない声だわ」


「先に名乗らず失礼しました。僕の名前はぴよ吉と申します。旅をしている……しがない鳥類です」


「ぴよ吉さん。とても素敵なお名前ですね。本当であればわたくしもここで名乗るのが礼節に適うのでしょうけれども、お恥ずかしながらわたくしはまだ卵ですから名前が無いのです。ごめんなさい」


「お気になさらず。ではあなたのことは卵さんとお呼びするとしましょう。卵さん、私は先刻、本当にたまたまあなたとあなたのお母様との会話を聞いてしまったのです。それによると、卵さんは孵化をしたく無いそうですね」


「ええ、おっしゃる通りです。わたくしの父母はこの養鶏場において素晴らしい功績を残した、偉大な鶏たちです。そしてわたくしはきっと、その偉大な両親に顔向けのできる鶏には成れないでしょう。きっと父母を失望させてしまいます。そんなことならばいっそ、ずうっと卵のままでいようと決めたのです」


「なるほど、そのお気持ちは痛いほどわかります。共感が出来ます。なぜならば僕もかつては孵化を拒み、殻の中へと留まり続けたからです。しかし、だからこそ卵さん、僕はあなたには卵に留まってほしくない。卵さん、僕らは既に産み落とされてしまったんです。戻ることは出来ない。進み続けることしか出来ない。そして、不自然に孵化を拒めばさらなる不幸せがあなたとあなたのご両親を苛みます」


 そうしてぴよ吉は己の生涯と今の境遇を卵へと語った。そうして、自分と同じ道を辿らないよう、卵から孵ってたとえ平凡な一羽の鶏としてその命を負えることになったとしても、ささやかな幸せを腐らせぬようにと、心を砕いて、言葉を尽くして卵へと説得をした。


「……それは、とても恐ろしい話ですね。ぴよ吉さんの話が本当なのだとしたら、孵化を拒む選択には並々ならぬ覚悟が必要です。けれどぴよ吉さん。あなたという鳥はとても、心の美しい方ですね。見ず知らずの卵の為に、ここまで熱心にしてくださるんだから。ぴよ吉さんのように美しい心の持ち主に成れるなら、やっぱり孵化なんてしなくていいのかもしれません」


 ぴよ吉は卵のこの言葉を聞いて、胸の辺りがぽうっと暖かくなった。『心の美しい方ですね』、そう褒められたのが嬉しかったのだ。


 そうして嬉しい気持ちのまま、卵の言葉を深く嚙み締めてそして、雷の音が空を裂いた時のように、全身が衝撃を受けたような心持になった。


 卵はぴよ吉の心を称えて同時に、『やっぱり孵化なんてしなくていいのかもしれません』とも言ったのだ。


 ぴよ吉はひとつの卵に対して孵化を勧めた言葉によって、孵化を拒む決意を深めさせてしまっていたのだ。


「……そんな悲しい言葉は、言わないでくれよ」


 ぴよ吉は俯いてそう一言を呟くと、悄然として木箱を後にした。


「あれ、ぴよ吉さん。ぴよ吉さん! どこへ行ってしまったの!?」


 卵が木箱の中でそのように叫んで、その声によって鶏舎の鶏達が次々と「こけこっこ」と目を覚ます。


 ぴよ吉は不法侵入に気付かれぬよう、入ってきた壁の裂け目から、そっと鶏舎を出た。



 鶏舎の外は未だ夜が満ちたままだった。暗闇の中は凍り付いてしまうほどに冷え切っていた。ぴよ吉の身体の皮膚が剥き出しになった部分は、その寒さにピリピリと痛んだ。


 養鶏場の敷地の外、その少し離れた闇からは野犬の唸り声が聞こえている。脅威は未だ去ってはいない。


 ぴよ吉は鶏舎の壁に背中を預けて座り込み、空を見上げた。


 ヒトの視力であればそこには、ちりばめられた星があるのかもしれないが、ぴよ吉の眼前には宵闇ばかりだ。


 ぴよ吉は空を見上げて、身体を震わせながら夜が明けるのをただ待ち続けた。


 身体の震えが寒さによるものなのか、それとも同じような境遇の卵を救えなかった悲しみによるものなのか。瞳に過剰に湛えられた液体で視界が滲んで、ぴよ吉にはなんだかよくわからない。


 ぴよ吉は夜明けを待っていた。それは、永久に続くかのような長く凍える夜だった。

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