やがて、君と見る木漏れ日

Gaku

第一話:秒速の承諾

六月の気怠い、長い長い午後だった。


まるで時間が水飴のように引き伸ばされ、濃密な倦怠感となって教室の隅々にまで満ちていく。そんな感覚。窓ガラスの向こう側、空は抜けるような青さを保っているというのに、この四角く切り取られた空間だけが、まるで深海に沈んでいるかのように静かで、重かった。


窓から差し込む西日は、すでに午前中のような突き刺す鋭さを失い、まるで熟成された蜂蜜のような、とろりとした黄金色を帯びていた。その光が、使い古されて傷だらけになった机の天板に長い影を落とし、床に塗られたワックスの鈍い光沢を優しく照らし出している。空気中に舞う、本来ならば目には見えないはずの細かな埃が、その光の筋の中だけで、ひとときの命を与えられたかのようにキラキラと、しかしどこか物憂げに乱舞していた。まるで、この退屈から逃れたいと願う生徒たちの、声にならないため息が形になったかのようだ。


近代史を担当する、白髪交じりの老教諭の声が、古びたレコードのように、同じ溝を何度もなぞる。抑揚を欠いた、平坦な声。ビスマルクがどうした、三国干渉がどうした、という単語だけが、意味の繋がりを失って鼓膜を揺らす。それはもはや知識の伝達ではなく、ただの音の羅列だった。壊れかけのラジオから流れる、歌詞の聞き取れない外国の歌のように、右の耳から左の耳へと、何の痕跡も残さずに通り過ぎていく。時折、チョークが黒板を叩く「カツン」という乾いた音が、この眠気を誘う子守唄に、不規則なアクセントを加えるだけだった。


(また、これか……)


もう何度目になるだろう、この無意味な反復。垣原瞬(かきはら しゅん)は、とっくに思考の舵を手放していた。半ば開いた教科書の、染み一つないページをただ眺めながら、意識だけをふわりと窓の外へと逃がす。


校庭にそびえる数本のケヤキが、主役だった。初夏の風が、その枝葉を優しく揺らすたび、数えきれないほどの葉が一斉に裏返り、その裏側の銀色を太陽に反射させてきらめかせる。まるで、緑色の湖面に無数の魚が跳ねているかのようだ。さわさわ、さわさわ……。葉擦れの音は、老教諭の退屈な講義よりもずっと心地よいリズムで、瞬の耳を撫でた。グラウンドの向こうでは、サッカー部が練習に励んでいるのだろうか、時折「うぉーっ」という鬨の声が、風に乗って微かに聞こえてくる。平和で、退屈で、完璧な日常の風景。


三日前に終わったばかりの中間考査。あの、脳が沸騰するような緊張感と、全てを吐き出した後の虚脱感からの解放。そして、間もなくこの国を覆い尽くすであろう陰鬱な梅雨を前にした、束の間の晴れ間。この二つの要素が奇妙に混ざり合い、教室全体に独特の空気を醸し出していた。床に塗られたワックスの、少し鼻につく化学的な匂い。誰かが机の中にしまい忘れたのであろう、甘酸っぱい柑橘系のコロンの香り。汗ばんだ肌を撫でる、生温かい風。そのすべてが、この時期特有の、どこか浮足立ったような、それでいて物憂げな、アンビバレントな雰囲気を構成していた。


「……というわけで、この日露間の関係性の変化、ここの流れはテストに出やすいから重要だからな」


教師の言葉が、不意に声量を増した。その一言が、眠っていた教室に小さな波紋を広げる。数人の真面目な生徒たちが、弾かれたように顔を上げ、慌ててノートに何かを書き留める音がした。カリカリ、カリカリ……。シャープペンシルの芯が紙の上を滑る、硬質な音。その音すらも、今の瞬にとっては、分厚いガラスを隔てた向こう側で鳴っているかのように、ひどく遠くに感じられた。


彼の心は、ここにはない。三日前に終わった中間考査でも、これから始まる退屈な日常でもなく、もっと別の「何か」に、まだ囚われていた。いや、囚われている、という表現は正確ではないのかもしれない。むしろ、あまりにも綺麗に解放されすぎて、ぽっかりと空いてしまった心の空白を、ただ持て余しているだけなのだ。まるで、長年連れ添った重い枷を外された囚人が、自由になった手足の軽さに戸惑い、次の一歩をどこへ踏み出せばいいのか分からずに立ち尽くしているかのように。


早乙女里奈。


脳裏に、その名前が浮かぶ。一つ下の学年で、誰もが振り返るほどの美貌を持つ少女。長いまつげに縁取られた大きな瞳は、いつも少し潤んでいて、庇護欲を掻き立てる何かがあった。彼女との関係は、ついこの間まで、瞬の日常の大部分を、その鮮やかな色彩で塗りつぶしていたはずだった。


最初は、燃え上がるような、という形容詞が陳腐に思えるほどの熱を帯びた恋だった。いや、恋というよりは、もっと戦略的な「狩り」に近かったかもしれない。彼女の視線を独り占めにしたくて、あらゆる手管を使った。友人との会話の中に、さりげなく自分の存在を匂わせる。すれ違う廊下で、計算され尽くしたタイミングで声をかけ、些細な一言を交わす。メッセージアプリでの、一進一退の駆け引き。既読がついてから返信を返すまでの時間を秒単位で調整し、彼女の心を揺さぶる。彼女の心が、まるで精密な天秤のように、少しずつ、しかし確実に自分の方へと傾いていくのを肌で感じる、あの高揚感。それは、この世のどんな娯楽よりも刺激的な、最高のゲームだった。


告白は、彼女の方からだった。夕暮れ時、誰もいなくなった教室で。オレンジ色の光が彼女の白い肌を薔薇色に染め上げる中、頬を上気させ、少し震える声で告げられた「好きです」の四文字。その瞬間、瞬は確かに勝利を確信した。カチリ、と音がして、最後のピースが嵌ったような感覚。手に入れた。このゲームのエンディングに、自分は到達したのだ、と。


問題は、エンディングの後には、もうクレジットロールが流れるだけで、その先には何もないということだ。


あれほど焦がれた彼女とのデートも、数回重ねればただのルーティンになった。映画を見て、カフェでお茶をして、他愛のない話をする。その繰り返し。最初は新鮮だった彼女の笑顔も、見慣れてしまえば背景の一部になる。彼女が紡ぐ言葉は、すぐに中身のない時間の浪費のように感じられ始めた。「会いたい」と、ハートマーク付きのメッセージが送られてくるたび、瞬の心は、まるで氷水を浴びせられたかのように、急速に冷めていった。


「好き」という感情は、まるで打ち上げ花火だ。導火線に火をつけた瞬間の、あの期待と興奮。ヒュルルル、と空高く昇っていくときの、胸のざわめき。そして、夜空を焦がすほどの鮮やかな色と光を一瞬だけ放ち、見る者すべてを魅了する。だが、その輝きが消えた後には、ただ火薬の煙の匂いと、耳鳴りがするほどの深い静寂だけが残される。後に残るのは、燃えカスと虚しさだけだ。


結局、関係の終わりはあっけなかった。里奈の、美しい瞳からこぼれ落ちる涙と、「私のこと、もう好きじゃなくなったの?」という、テレビドラマで使い古されたようなありきたりな問い詰め。喫茶店の、冷房が効きすぎた窓際の席。テーブルの上の、ほとんど溶けてしまったアイスティーの水滴が、コースターに滲んでいくのを、瞬はただ黙って見ていた。彼は、何も答えられなかった。いや、答えるべき言葉を持たなかったのだ。「飽きたから」などと、口が裂けても言えるはずがない。それは、このゲームの唯一にして最大の禁則事項だったからだ。プレイヤーは、ゲームそのものを否定してはならない。


「おい、瞬。また魂が冥王星あたりまで飛んでってるぞ」


隣の席の木下大輝(きのした だいき)が、分厚い教科書で口元を隠しながら、呆れたように囁いた。無精髭の剃り跡が青い顎。気怠げな表情の中に、しかし親友だけがわかる心配の色が微かに滲んでいる。彼は、瞬のこの「ゲーム」の、唯一の観客であり、理解者だった。


「別に。今日の晩飯、生姜焼きにするか唐揚げにするか、人類の未来を左右するレベルで悩んでただけ」


瞬は、視線を窓の外に向けたまま、軽口で返す。


「嘘つけ。どうせ早乙女とのことだろ。お前、マジで懲りねえよな。毎回毎回、同じパターンじゃねえか」


大輝の声には、非難よりも諦めに近い響きがあった。


「……うるせえよ」


その時だった。けたたましい電子音が鳴り響き、教室を支配していた重苦しい空気を切り裂いた。終業のチャイム。その瞬間、まるで魔法が解けたかのように、死んだように静かだった空間に、一斉に命が吹き込まれた。ざわ、ざわ、と空気が揺れる。ガタン、ゴトンと椅子を引く音。金属製のロッカーを乱暴に開け閉めする音。友人たちの名前を呼び合う、解放感に満ちた声。瞬はゆっくりと立ち上がり、腕を天井に突き上げるようにして、大きく伸びをした。ゴキリ、と身体の節々が、錆びついた機械のように鈍い音を立てて軋む気がした。


「購買、行くぞ。焼きそばパン、まだ残ってるかな」


「おう」


教科書やノートを雑に鞄に詰め込み、瞬は大輝と連れ立って廊下に出た。放課後の廊下は、生徒たちの熱気でむせ返るようだ。我先にと昇降口や部室へと向かう流れ。長年、何千人、何万人という生徒たちの足跡を受け止めてきたリノリウムの床は、窓から差し込む西日を鈍く反射して、ところどころ擦り切れた痛々しい模様を浮かび上がらせていた。


瞬は、その人の流れを、どこか他人事のようにぼんやりと眺めていた。誰もが、それぞれの日常を、それぞれのドラマを生きている。恋愛に悩み、部活に汗を流し、友人と笑い合う。だが、今の瞬にとって、それはすべてが色褪せたモノクロ映画のワンシーンのように見えた。心が、砂漠のように渇いている。あの、獲物を見つけ、追い詰め、手に入れる瞬間の、脳髄が痺れるような興奮。アドレナリンが全身を駆け巡る、あの鮮烈な刺激がなければ、日常はあまりにも退屈で、無味乾燥なのだ。


中庭に差し掛かった、その時だった。


空気が、変わった。


ひときわ明るい、鈴が転がるような声の集団が、瞬の視界の端を鮮やかにかすめた。


中庭に植えられた、あの大きなケヤキの木。その木漏れ日が、まるで天然のスポットライトのように降り注ぐ一番心地よい場所に、五、六人の男女が輪になって、まだ食べ終わっていなかった弁当を広げている。その輪の中心に、彼女はいた。


前原美影(まえはら みかげ)。


同じクラスではあるが、所属するグループ、いわゆるスクールカーストの階層が全く違うため、まともに話したことは数えるほどしかない。だが、彼女を知らない者は、この学年には一人もいないだろう。彼女は、そういう存在だった。


いつも太陽のように笑い、その笑顔には何の裏も計算もないように見える。誰にでも平等に、そして屈タックなく接する。男子生徒だけでなく、女子生徒からも絶大な人気を誇っている。彼女がいる場所は、まるでそこだけ気圧が変わるかのように、自然と空気が明るくなり、温度が二、三度上がるような気がした。


今日、彼女は汚れひとつない、真っ白なコットンのワンピースを着ていた。初夏の、少し湿り気を帯びた風が、ふわりと彼女のスカートの裾を優しく揺らし、手入れの行き届いた艶やかな長い黒髪を、緩やかになびかせる。風が運んでくる、近くの花壇で咲き始めたクチナシの、むせ返るほど甘い香りと、数日前に用務員が刈ったばかりの芝生が放つ、青々しい匂い。そのすべてが、まるで彼女という存在を彩るために用意された、完璧な舞台装置のように思えた。


彼女が、何か面白いことを言ったのだろう。友人たちに囲まれた輪の中心で、大きな口を開けて、からからと笑った。


その瞬間。


まるで奇跡のようなタイミングで、ケヤキの葉の隙間からこぼれた一筋の強い日の光が、完璧な角度で彼女の顔を照らし出した。笑い声に合わせて揺れる髪の一筋一筋を、黄金色の輪郭で縁取る。その光景は、あまりにも非現実的で、まるで一枚の絵画のようだった。


トクン、と。


瞬の心臓が、久しぶりに大きく、そして確かな存在感を主張して脈打った。長い間、渇ききってひび割れていた大地に、最初の一滴の水が染み渡るような、鮮烈な感覚。


(……あれは)


今まで瞬がターゲットにしてきたのは、どちらかと言えば、どこか影のある、守ってやりたくなるようなタイプの女の子が多かった。少し自信がなさそうで、誰かに依存したがっているような隙のある少女たち。自分の存在を強く意識させ、心の隙間に入り込み、支配するのは容易かった。だが、前原美影は違う。全く違う種類の生き物だ。


彼女は、自己完結している。他者からの承認や賞賛などなくとも、自分自身の力だけで、完璧に輝いているように見えた。まるで、自ら光を放つ恒星だ。誰かの光を反射して輝く惑星とは、根本的に存在の次元が違う。


難攻不落。


その四文字が、雷鳴のように頭の中に響いた。


「どうした、瞬。見惚れてんのか?お前らしくもねえ」


隣を歩いていた大輝が、俺の固まった視線の先を追い、すぐに合点がいったというようにニヤリと口の端を歪めた。


「……別に」


否定の言葉は、自分でも驚くほど弱々しかった。


「やめとけよ、ああいうタイプは。太陽みたいに眩しすぎる女は、お前の得意な夜の戦法じゃ通用しねえぞ。影に入り込む隙がどこにもない」


「……」


「それに、お前、早乙女と別れたばっかだろうが。少しは喪に服せよ、人として」


大輝の忠告は、百も承知だ。理屈では、その通りだった。だが、瞬の心には、もうすでに小さな火種が落とされてしまっていた。乾ききった草原に落ちた火種が、一瞬で燃え広がるように。


そうだ、通用しないかもしれない。今までの手管は、一切役に立たないかもしれない。


だからこそ、面白いんじゃないか。


あの、誰にも媚びず、何にも依存せず、ただそこにいるだけで周囲を照らす太陽を、俺だけの方に向けさせることができたなら。あの完璧で、一点の曇りもない笑顔を、俺のためだけに歪ませることができたなら。それは、今まで味わったことのない、最高にして至上の達成感をもたらすだろう。


(新しいゲームの、始まりだ)


胸の奥深くで、長い間冷え切っていた何かが、再びゴウ、と音を立てて熱を帯び始めるのを感じた。指先が、微かに痺れる。視界が、クリアになる。世界に、再び色が戻ってきた。


「なあ、大輝。俺、ちょっと屋上行ってくる」


「は?購買は行かねえのかよ」


大輝の訝しむ声が、背後から飛んでくる。


「後でいい。腹は、後で満たす」


瞬は、くるりと踵を返した。その足取りには、先程までの気怠さは微塵もなかった。向かう先は、中庭とは反対側に位置する、特別棟の階段。屋上へと続く、普段はあまり人が使わない、ひっそりとした場所だ。


コンクリート打ちっぱなしの階段を、一段、また一段と上る。カツン、カツン、と自分の革靴の踵が立てる音が、四方の壁に反響してやけに大きく響いた。まるで、これから始まる決闘のゴングのように。壁に手のひらを触れると、ひんやりとした無機質な感触が伝わってくる。それが、燃え上がり始めた思考をクールダウンさせてくれるようで心地よかった。踊り場の窓の外では、さっきまで穏やかだった風が、建物の影響で少し強くなっているようだった。ヒュー、と隙間風のなくような音が聞こえる。


そして、目の前に現れた、屋上へと続く重い鉄の扉。塗装が剥げ、ところどころに浮かんだ赤錆が、長い年月の経過を物語っていた。錆びた鉄の匂いが微かに鼻をつく。それを、両手で、力を込めて押し開ける。ギィィ、と軋む耳障りな音。


その瞬間、ぶわり、と生温かい風が、溜まっていた熱気と共に顔を撫でた。


眼下に広がる、まるで精巧なミニチュアのような街並み。遠くのグラウンドから、野球部の「一球、集中!」という掛け声が、風に乗って鮮明に聞こえてくる。屋上を囲む高い金網のフェンスが、風を受けてカラカラカラ、と乾いた、どこか寂しげな音を立て続けていた。


狙い通り、彼女はいた。


美影は、親友の白石結衣たち数人と、フェンス際で楽しそうにおしゃべりをしていた。眼下に広がる景色を眺めながら、昼休みの終わりを名残惜しむように。


瞬は、一度、ゆっくりと深く息を吸い込んだ。肺が、新鮮な空気で満たされる。これから始まるゲームの、オープニングセレモニーだ。最初のターン。セオリー通りなら、まずは偶然を装って接触回数を増やし、彼女の警戒心を少しずつ解きほぐし、友人というカテゴリーから、徐々に「特別な異性」として俺を意識させる。時間をかけて、じっくりと外堀を埋めていくのが常道だ。


だが、それでは面白くない。今の、この最高潮に達した高揚感が、そんなまどろっこしい手順を許さなかった。


不意を突く。

意表を突く。

彼女の頭の中に、俺という存在を、最も強烈な形で刻み込む。


それが、今回の戦略だ。


瞬は、迷いない足取りで、彼女たちのグループへとまっすぐに近づいていった。一歩、また一歩と距離が縮まる。カツ、カツ、とコンクリートの床を叩く自分の足音だけが聞こえる。


突然の闖入者に、彼女たちの楽しげな会話が、まるで再生中の動画を一時停止したかのように、ぷつりと途切れた。白石結衣が、最も早く瞬の存在に気づき、怪訝そうな、敵意すら含んだような顔でこちらを鋭く見ていた。


だが、俺は、そんな周囲の視線など意にも介さなかった。網膜に映っているのは、ただ一人。まっすぐに、前原美影だけを見つめて、言った。


「ねぇ、前原さん」


昼休みの喧騒と、風の音が満ちる屋上で、俺の声は、自分でも驚くほどクリアに、そして凛と響いた。


「俺と、付き合ってみない?」


時が、止まった。


いや、もちろん、そう感じただけだろう。実際には、風は相変わらずフェンスを揺らし、遠くのグラウンドからの喧騒も聞こえているはずだ。だが、俺の世界では、すべての音が消えていた。シン、と静まり返った無音の空間。


俺の突飛な行動に驚いて追いついてきた大輝が、すぐ後ろで息を呑む気配を感じる。美影の友人たちが、信じられないものを見るような目で、俺と彼女の顔を交互に見ている。その視線が、チリチリと肌を焼くようだった。


そして、美影は。

彼女は、大きな猫のような瞳を数回、ぱち、ぱち、とゆっくり瞬かせた。


その表情の、微細な変化を、俺は見逃さない。

まず、驚き。次に、戸惑い。そして、ほんの少しの警戒心。

完璧だ。完璧な反応だ。俺の仕掛けた爆弾は、見事に彼女の心の平穏を打ち砕いた。

ここからだ。ここから、どう切り崩していくか。


「え、なんで?」

「冗談やめてよ」

「まずはお友達からで…」


彼女が口にするであろう、あらゆる拒絶の言葉を瞬時にシミュレートし、それに対する最適解を、頭の中の高速プロセッサが、何百、何千通りも弾き出していく。この思考のチェスが、たまらなく好きだ。相手の次の一手を読み、そのさらに先を読み、完璧な王手(チェックメイト)へと導く、この知的興奮。


さあ、言え。

お前の最初の言葉を。

俺が、それを完璧に、そして華麗に打ち返してやる。


勝利への方程式が、頭の中で美しく組み上がり始め――


「いいよー!」


「……へ?」


思考が、完全に停止した。

プツン、と、まるで電源をいきなり引き抜かれたコンピュータのように、脳内の全ての活動が止まった。


予測された千通りの返答の、そのどれにも当てはまらない。あまりにも想定外すぎる。

あまりにも軽やかで、あまりにも屈託のない、まるで春の麗らかなそよ風みたいな声。


美影は、そこに立っていた。

驚きも、戸惑いも、警戒心も、全てが霧散した顔で。

まるで、硬かった花のつぼみが、ぽん、と音を立ててほころぶような、一点の曇りもない、完璧な笑顔で。


「え、あ、うん…?いいの?」


我ながら、ひどく間抜けな、気の抜けた声が出た。頭が、現実の処理に全く追いつかない。耳から入ってきた情報と、脳が予測していた情報との間に、致命的なエラーが発生している。


「うん、いいよ。垣原くんって、なんか見てると毎日楽しそうだし、一緒にいたらもっと面白そうだから!」


キラキラと、効果音がつきそうなほどの眩しい笑顔で、彼女はそう言いのけた。


違う。

そうじゃないだろ。

俺の描いた完璧な設計図では、ここから数週間、あるいは一ヶ月という長い時間をかけて、じっくりと、慎重に、この難攻不落の城を攻略していくはずだった。俺の仕掛ける数々の罠に、彼女が戸惑い、悩み、やがて抗いがたい力に引かれるように俺に夢中になっていく、あの背徳的で甘美な快感を、ゆっくりと、時間をかけて味わうはずだったのだ。


なのに、なんだ、この感覚は。


まるで、壮大な冒険の果てに、ようやく魔王の城にたどり着いたと思ったら、そのラスボスが満面の笑みで玄関を開けて、「やあ、勇者!待ってたよ!さあ、一緒に世界、救おうぜ!」と、いきなりパーティーに加わってきたような。


圧倒的な、理解不能な、もはや宇宙的な規模のペースの乱れ。


「じゃあ、これからよろしくね、瞬くん!」


彼女は、今、初めて俺を下の名前で呼んだ。

ニコッと、悪戯が成功した子供のように笑うと、呆然と立ち尽くす俺と、その隣で同じように口をあんぐりと開けている大輝を残して、くるりと身を翻し、友人たちの輪へと戻っていく。


友人たちが、何かを小声で彼女に聞いているが、もう俺の耳には何も入ってこない。


取り残された俺の頭の中は、「なんで?」「どうして?」「どういうことだ?」という、ただ一つの、しかし答えの出ない疑問符で埋め尽くされていた。


手に入れた、という実感がない。

勝利した、という高揚感もない。

ただ、目の前で、自分が完璧にルールを熟知しているはずだったチェス盤が、ルールも目的も全くわからない、全く別の奇妙なゲームにすり替えられてしまったような、途方もない困惑だけがあった。


垣原瞬、17歳。

俺の、百戦錬磨の必勝恋愛ゲームは、開始わずか0秒で、その根底から、音を立てて覆された。


屋上の風が、やけに生暖かく、そして意地悪く俺の頬を撫でていった。

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やがて、君と見る木漏れ日 Gaku @gaku1227

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