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  • 編集済

    長文の質問で申し訳ありません。


    大枠と終着点だけは決めて、道中のイベント展開は即興で、基本的にキャラクターに任せて書いています。

    その結果として当初の想定から外れても、最終的に自分が納得できれば壊れても構わない、という考え方です。

    ただその一方で、出来上がった物語に対しては「自分が面白いと思えるかどうか」という基準で常に検閲がかかっており、
    物語の最終的な「手綱」まで完全に手放すことには、まだ強く抵抗があります。

    これは典型的な初心者パンツァーの書き方だと自覚していますが、慣れたパンツァーの方々は、
    ・手綱を手放した後の整合性
    ・ご自身が物語を面白いと思える説得力
    を、どのように整えておられるのか──という点を伺いたいです。

    「どの段階で」「どのくらい」作者として介入するのか、考え方や経験があれば教えていただけると嬉しいです。

    作者からの返信

    ここがあなたが苦しんでいる部分ですね。
    言語化するのも苦しかったと思います。

    まず、大前提として「私は最初から手綱を握ることを放棄している」ということ。
    これは単なる無責任ではなく、結果として私が介入しないほうがキャラクター達はそれぞれの思考で動いてくれるからです。
    また、私は常に自分の書いた物語が面白いと思っています。
    これは精神論に過ぎないかもしれませんが、私が書いたものを一番面白いと思って、一番愛してあげられるのは私だからです。

    次回の内容で触れますが、パンツァー型の物書きにとって「書いている時の熱量」を後から介入することで冷ましてしまうと、「自分の本当に書きたかったことはこれなのか?」という疑問が浮かび、「これは本当に面白いのか?」「脳内で見ていたものはもっと面白かったはずだ」という呪いになります。

    おそらく、書き上がったものに対して「自分が面白いと思えるか」という目で見ると、勢いで書いた部分=手綱を放した部分が粗として見えてしまい、そこを改稿することで熱が失われ、より「これは面白くないのではないか」という悪循環を起こしてしまうのではないかと思います。
    結果として最終的な手綱を放すことが出来なくなるのでしょう。
    それは物語が想定と変わってもいい、という思想と真逆の、心を守るセーフティーになっているのだと思います。
    「最低限の面白さだけでも担保したい」という欲求です。
    物書きとして、それを間違っているとは決して言えません。

    慣れたパンツァーは手綱は必要としない、それでも整合性を保ってくれるキャラクターがいる、だから、私が信じて任せた彼らの話は面白い。
    これが根本の思考です。

    作者として介入するのは「校正」の時だけです。
    「推敲・改稿」ではありません。「校正」です。
    パンツァーは、脳内の映像を見て書き留めています。
    「校正」はその時のレンズの曇りを取る作業。誤変換や、タイプミスなど、見たものがちゃんと伝わらない、という部分だけ修正することです。
    一方で「推敲・改稿」は、自分が見た光景を後から編集で作り変える行為です。
    浮きます、当然、後付けだから。
    だからパンツァー……私は書き上がったら校正以上の手を入れないんです。

    パンツァーというのは、自分の感性と直感だけで無意識のうちに物語の方向を決め、キャラクターを解き放ち、信じてついていく物書きです。

    なので「作者」ではなくて、パンツァーは「観察者」なんですよ。

    今は連載のことで頭がいっぱいだと思います。
    だからこそ、4000字程度の、連載と全く関係ない短編を、最初から手綱を放棄して書いてみてください。
    大枠も結末も決めない、全部フリーハンドで。

    もしそれで、とりあえずでも破綻せず、読んでてまあまあ面白いじゃん、というものが書けたら、貴方はパンツァー寄りでしょう。コツを掴めば手綱を放しても面白いものが書けるようになります。

    まったく言葉が出てこない、きちんと話を畳めない、キャラクターがどこへ行ったらいいかわからなくて止まってしまった、この症状が出た場合は、貴方はプロッターの方が向いています。

    作品をきちんと管理したい、という欲求を抱いたならば、プロットを立ててきちんと話を整えて書き始め、ここはちょっとキャラに任せようかな、という部分だけ手綱を緩める。
    そういう書き方が合っている可能性があります。

    長文の上、的外れな返答になっていたら申し訳ない。
    ただ、初心者の内は書き方で迷ってもいいんです。
    私は30年以上かけてこの状態に体や思考を調整しました。
    あなたはまだ、たった3ヶ月じゃないですか。
    大いに迷って、色んなやり方をしていいんですよ。
    貴方にとっての正解は、経験と時間が連れてきてくれます。

  • パンツの観さ……

    パンツァーの観察をさせていただいていますよ。

    キャラクターを信頼するのはとても重要ですよね。
    これはプロッターとて一緒です。
    物語を演じてもらうためには、キャラを信用していないと動かせませんからね。

    『キャラを信じて動いてもらう』
    この言葉は読むと一緒ですが、パンツァーとプロッターとでは受け止め方がまるっきり違うのが面白い。

    作者からの返信

    そうですねぇ、プロッターは設計図を託してその通りに動いてもらう、パンツァーはゴールに連れて行ってもらう。
    この違いは大きくとも、共にキャラを信じて動いてもらうのは同じです。

    パンツは流石に見えないはず…長ズボン履いてるからね!

  • 分かります!
    自分もプロット立てて書けなくなった口ですから〜。

    作者からの返信

    プロットが枷にしかならない物書きは確かに存在するんですよね。
    その辺り、あまり触れられない部分かな、という気がしています。
    だから大概の創作論は「プロットを立てよう」から始まっているのだろうな、それで苦しむパンツァーもいるのだろうな、という思いです。


  • 編集済

    面白いです!

    私も最初に小説を書いた頃は、まさに“パンツァー”でした(笑)。ただ、勢いだけで走ると、どこかで必ず詰まるんですよね。今はプロット必須で、まず「核になるシーン」を先に固定して、そこへ辿り着くために前後を組み直す――いわゆる逆算型で書くようになりました。

    スティーブン・キングも確かパンツァー寄りでしたよね。ジョージ・R・R・マーティンの「設計図を引く人」と「育てる人(庭師)」の比喩は、その違いを一発で伝えてくれるから好きです。どちらが正解というより、自分の癖を理解して、詰まった時に立て直せるのが一番強い気がします。

    作者からの返信

    そもそものパンツァーはスティーブン・キングの「行き当たりばったりで書く人」からきていますが、現在の日本では「プロットなしで書く人」の意味の方が通りやすいので説明は省いてますねぇ。
    定義は簡単に、気になれば物書きなのだから自分で調べればよろしい。
    割とスパルタです(笑)

    パンツァーからスタートしてプロッターになっていく人が大半だと思うんですよ、おっしゃる通り、行き詰まるから。
    それでも、走り始めたパンツァーには補助輪が必要になるよな、という思いでこれを書いていました。
    よかったら不定期ですがまた読んでやってください。

  • 私はプロッターとパンツァーの『どっちつかす』です。
    中編ですらプロットがなければ書けませんが、短編のほとんどがノープロットで映像を見ながら書いている感覚です。

    西海子さんのレベルのパンツァーの話、私にとっては興味しかないので、正座しながら読ませてもらいます。

    いや、正座はしないです……

    作者からの返信

    謎に包まれたパンツァーの生態を明らかにするかもしれない文章…になったら面白いですね。
    短編なら即興で、中編以上ならプロットありきでという人も結構多いと思いますよ?
    ゴロゴロしながらなんとなく読んでいただくのが一番合うゆるさになると思いますw