第33話 一番大切なもの

 夜の森は、静まり返っていた。

 さっきまで確かにあったはずの気配は、

 もう、どこにもない。

 マアヤは、深く息を吐いてから、

 ゆっくりとリリーの方へ向き直った。

 小さな身体。

 震える肩。

「……リリー」

 名前を呼ぶと、

 リリーはびくりと肩を跳ねさせ、

 恐る恐る顔を上げた。

 涙でぐしゃぐしゃになった顔。

 それでも――

 その目は、ちゃんとマアヤを見ていた。

「……もうだいじょうぶだ」

 マアヤは、しゃがみ込む。

「ケガはないか?」

 リリーは、小さく首を振る。

「……ない……」

 声は、まだ震えている。

「……こわかった……」

 その一言が、

 胸の奥に、深く突き刺さった。

「……ごめん」

 マアヤは、すぐに言った。

「一人にした」

 言い訳はしない。

 正当化もしない。

「……でも」

 視線を、しっかりと合わせる。

「無事で、よかった」


 それだけは、本心だった。

 リリーの唇が、わずかに震える。

「……おにいちゃん……」

 マアヤは、続けた。

「手紙のこと……

 嫌な思いさせたな」

 リリーは、何も言わない。

 ただ、じっと聞いている。

「アイリス皇女と文通はしてる」

 事実を、隠さない。

「でも」

 声を、少しだけ強くする。

「それで、変わることはない」

 マアヤは、迷わず言った。

「俺は、リリーが一番大切だ」

 その言葉が、

 夜の空気に、はっきりと落ちた。

「……ずっと」

「これからも」

「誰が相手でも、

 それは変わらない」

 一瞬。

 リリーの目が、見開かれ――

 次の瞬間。

「……っ」

 勢いよく、

 マアヤに抱きついてきた。

 小さな身体が、

 全力で、しがみついてくる。

「……おにいちゃん……」

 声が、嗚咽に変わる。

 マアヤは、反射的に腕を上げかけて――

 止めた。

「……待って」

 少しだけ、距離を取ろうとする。

「手が……」

 視線を落とす。

 指先。

 掌。

 まだ、血が付いていた。

「……汚れてる」

 正直な言葉。

 リリーは、一瞬だけそれを見て――

 首を振った。

「……いい」

 ぎゅっと、

 さらに強く抱きしめる。

「きにしない」

「おにいちゃんが……

 まもってくれた」

 その言葉で、

 何かが、胸の中で崩れた。

 マアヤは、

 そっと、

 それでも確かに、

 リリーを抱き返した。

 血の付いた手で、

 それでも。

「……ごめんな」

 小さく、呟く。

「こわい思い、させて」

「……でも」

 リリーは、顔を胸に埋めたまま、言う。

「……きてくれた」

 それで、

 すべてだった。

 月明かりの下、

 二人は、しばらくそのままでいた。

 血の匂いも、

 夜の冷たさも、

 今は、どうでもよかった。

 ただ――

 ここにいる。

 それだけで、

 十分だった。


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