第32話 虚ろになる

 残り、二匹。

 月明かりの下で、

 ゴブリンたちは距離を取り、

 こちらを警戒していた。

 息が荒い。

 魔力も、体力も、限界に近い。

(……このままじゃ)

 瞬間移動は、連続使用が厳しい。

 空間湾曲も、反射の精度が落ちてきている。

 囲まれれば――

 終わりだ。

 マアヤは、ゆっくりと息を吸った。

(……使うか)

 頭の奥で、

 ずっと考え続けてきた“仮説”。

 回避に特化した虚属性を、

 攻撃に転用する方法。

 成功する保証はない。

 だが、今は――

(……やるしかない)

 意識を、深く沈める。

 瞬間移動でもない。

 空間湾曲でもない。


 自分自身を、虚にする。

 この世界に――

 存在しないものに。

 魔力が、

 身体の輪郭から、

 ゆっくりと剥がれていく。

 重さが、消える。

 地面を踏みしめる感覚が、なくなる。

 それでも――

 視界だけは、残っていた。

 ゴブリンたちの目に映るマアヤは、

 確かにそこに“いる”。

 だが。

 輪郭は揺れ、

 焦点が合わない。

 蜃気楼のように、

 幽霊のように。

「……ギ?」

 ゴブリンが、戸惑った声を上げる。

 理解できない。

 質量がない。

 体積もない。

 存在していない存在を、

 生物の脳は処理できない。

 マアヤは、

 音もなく歩いた。

 一歩。

 また一歩。

 草を踏んでも、

 音はしない。

 枝に触れても、

 抵抗がない。

 ゴブリンの目の前に立つ。

 怯えた顔。

 混乱した動き。

(……今だ)

 マアヤは、

 腕を伸ばした。

 透けた手が、

 ゴブリンの胸を――

 抵抗なく、通り抜ける。

 肋骨も、

 肉も、

 血も。

 何も、引っかからない。

 そのまま、

 心臓の位置へ。

(……解除)

 次の瞬間。

 世界が、

 一気に“戻った”。

 重さ。

 抵抗。

 感触。

 握っている。

 生々しい、

 温かい、

 鼓動するものを。

「――ギッ……!?」

 叫びは、途中で潰れた。

 マアヤは、

 躊躇しなかった。

 握りつぶす。

 感触が、

 指の間で、

 崩れる。

 次の瞬間、

 もう一匹。

 同じ動作。

 同じ位置。

 同じ結果。

 虚を解除した腕が、

 心臓を掴み、

 力を込める。

 音もなく、

 命が、終わった。

 ゴブリンたちは、

 何が起きたのかも理解できないまま、

 地面に崩れ落ちた。

 夜の森に、

 静寂が戻る。

 マアヤは、

 数歩ふらつき、

 膝をついた。

「……はぁ……はぁ……」

 魔力は、ほぼ空。

 全身が、鉛のように重い。

 それでも――

 立ち上がる。

 振り返る。

「……リリー」

 無事だ。

 泣いているが、

 傷はない。

 マアヤは、

 胸の奥で、静かに理解していた。

(……やった)

 初めて、

 自分の意思で、殺した。

 逃げるためじゃない。

 守るために。

 虚は、

 逃げるための力じゃない。

 守るための力だ。

 そう、

 はっきりと分かった。

 月明かりの下で、

 マアヤは、

 自分がもう戻れないことを、

 静かに受け入れていた。

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