第29話 夜に消える
走った。
ただ、走った。
「リリー!」
名前を呼ぶ声が、
屋敷の廊下に反響する。
返事はない。
角を曲がり、
階段を駆け下り、
また名前を呼ぶ。
「リリー!!」
灯りの落ちた廊下は、やけに長く感じられた。
壁に掛けられた絵画も、
並んだ扉も、
今はすべてが邪魔に見える。
(……どこだ)
(どこに行った)
胸の奥が、じりじりと焼ける。
使用人の姿も見えない。
夜更けの屋敷は、静まり返っていた。
マアヤは玄関へ向かい、
そのまま外へ飛び出した。
夜の空気が、肺に突き刺さる。
庭。
月明かりに照らされた芝生。
木々の影が、黒く揺れている。
「リリー……!」
声が、震えた。
走りながら、
頭の中で何度も同じ光景が再生される。
涙を浮かべた目。
震える声。
『おにいちゃん、とられちゃう……』
(……なんで)
(なんで、あんな顔させた)
自分が選んだ行動。
文通。
皇女。
正しい判断だったはずだ。
生き残るために必要な、関係。
――なのに。
(……一番大事なものを)
(見落とした)
足が、もつれそうになる。
それでも止まらない。
東屋。
花壇の裏。
木陰。
どこにも、いない。
「……くそ」
息が荒くなる。
夜の闇が、
やけに深く感じられた。
(……最推しだろ)
(守るって、決めただろ)
どんな結末を迎えようと、
自分はリリーを守ると誓った。
それなのに。
(……悲しませてどうする)
胸が、きしむ。
焦りが、
恐怖に変わっていく。
もし、この闇の中で――
何かあったら。
その想像だけで、
喉が詰まった。
「リリー……」
呼ぶ声が、
今度は、祈りに近かった。
庭を抜け、
屋敷の外縁を回る。
石畳を蹴り、
影の中を走る。
月明かりだけが、
マアヤの進む先を照らしていた。
(……見つける)
(必ず)
(謝る)
(連れ戻す)
理由は、
生存のためでも、
運命のためでもない。
ただ――
(……リリーだからだ)
夜の闇の中、
マアヤは必死に走り続けた。
その小さな背中を探して。
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