第7話 炎の騎士と五歳児

 夜の庭は、ひどく静かだった。

 屋敷の明かりは遠く、

 月光だけが芝生を淡く照らしている。

「……っ、はぁ……」

 マアヤは、地面に両手をつき、腕立てを続けていた。

 小さな腕が震え、額から汗が落ちる。

 十回。

 二十回。

 三十回。

 数を数える余裕は、もうない。

(……まだだ)

 昼の訓練で、身体は限界に近い。

 それでも止めなかった。

 死にたくない。

 守りたいものがある。

 その二つだけが、マアヤを動かしていた。

 腕立てを終えると、今度は立ち上がり、スクワットに移る。

 膝が笑い、太腿が悲鳴を上げる。

 その時だった。

「……感心するな」

 背後から、低い声が聞こえた。

 マアヤは、息を整えながら振り返る。

 月明かりの下に立っていたのは、

 騎士団長――カムロス・マテウスだった。

 がっしりとした体躯。

 鋭い眼差し。

 立っているだけで、周囲の空気が引き締まる。

「……こんばんは」

 マアヤは、幼いながらも礼をした。

「団長」

「五歳児にしては、随分と夜更かしだな」

 カムロスは、腕を組みながら庭を見回す。

「訓練に参加し始めて、もう一ヶ月か」

 マアヤは、黙って頷いた。

「どうだ?」

 問いは短い。

「……きついです」

 正直に答える。

 嘘をつく意味はなかった。

「だろうな」

 カムロスは、小さく笑った。

「それでも、お前は一度も逃げなかった」

 その言葉に、マアヤは何も返さない。

 逃げるという選択肢は、最初から存在しなかった。

 しばらくの沈黙の後、

 カムロスは、ふと視線を鋭くした。

「なぜだ?」

 マアヤを、真っ直ぐに見据える。

「なぜ、貴族の子が――

 前線で戦うための訓練を受けている?」

 庭の空気が、少しだけ張り詰めた。

 マアヤは、迷わなかった。

「……貴族は」

 幼い声。

 だが、言葉ははっきりしていた。

「民を守るために、あるべきだと思います」

 カムロスの眉が、わずかに動く。

「自分の地位や命だけを守る貴族は……」

 マアヤは、拳を握りしめた。

「いずれ、滅びます」

 短く、断定的な言葉。

 庭に、沈黙が落ちる。

 五歳児の口から出るには、あまりにも重い価値観だった。

 カムロスは、しばらく何も言わずにマアヤを見ていた。

 その目には、驚きと、警戒と、そして――興味が混じっている。

「……普通の貴族の子はな」

 やがて、低く言った。

「戦場を“見ない”ようにして生きる」

「前線は、使い捨ての兵に任せればいいと考える」

 炎属性の魔力が、微かに揺れる。

「だが、お前は違うらしい」

 カムロスは、ふっと息を吐いた。

「五歳にして、その考えか……」

 マアヤは、ただ立っていた。

 自分の言葉が、どれほど異常かを理解した上で。

 だが、引く気はなかった。

「……守れないなら」

 小さく、付け加える。

「最初から、守るなんて言わない方がいい」

 カムロスは、思わず笑った。

 低く、短い笑いだった。

「面白い」

 そう呟き、月を見上げる。

「マアヤ・レオンハルト……」

 その名を、噛みしめるように呼ぶ。

「お前は、他の貴族とは違うのかもしれん」

 炎の騎士は、背を向けた。

「今夜はもう休め。

 明日の訓練に支障が出る」

「……はい」

 カムロスの背中が、闇に溶けていく。

 庭に残ったのは、

 汗に濡れた五歳児と、

 ほんの少し変わった評価だけだった。

 マアヤは、月を見上げる。

(……まだ足りない)

 認められるためじゃない。

 守るためだ。

 妹と、

 自分の未来を。

 そのために、

 彼は今夜も、静かに拳を握りしめていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る