第6話 窓の向こう側

――四年後。

 朝の空気は、冷たく澄んでいた。

 伯爵家の屋敷に隣接する訓練場では、剣と剣がぶつかる乾いた音が響いている。

 大人の騎士たちの掛け声。

 足音。

 金属の擦れる音。

 その中に、明らかに不釣り合いな存在があった。

「はぁ……っ、はぁ……っ……」

 小さな身体。

 短い手足。

 それでも、確かに剣を握っている。

 マアヤ・レオンハルト。

 五歳。

 伯爵家の嫡男でありながら、

 家の騎士団の基礎訓練に参加している異例の子供だった。

「そこまで!」

 騎士団長の声が響く。

「本日の訓練は終了だ!」

 騎士たちは剣を収め、各々息を整える。

 額に汗を浮かべながらも、どこか余裕があった。

 ――ただ一人を除いて。

 マアヤは、その場に膝をつきそうになるのを、必死に堪えた。

 腕は痺れ、指先の感覚が鈍い。

 息を吸うだけで、肺が焼けるように痛む。

(……まだだ)

 ここで倒れるわけにはいかない。

 騎士団の訓練は、あくまで“参加”を許されているだけだ。

 遊びだと思われれば、次はない。

 マアヤは、ふらつく足で一歩前に出ると、騎士団長に向かって頭を下げた。

「……ありがとうございました」

 声は幼い。

 だが、目だけは違った。

 騎士団長は、しばらくマアヤを見つめ、

 小さく息を吐いた。

「……よくやったな」

 それだけを言って、背を向ける。

 騎士たちが次々と訓練場を後にしていく。

 やがて、広い空間にはマアヤ一人だけが残った。

 それでも、彼は剣を置かなかった。

 訓練用の片手剣。

 大人用よりも軽く作られているとはいえ、

 五歳の身体には十分すぎる重さだ。

 マアヤは、ゆっくりと剣を構えた。

(……振る)

 意味はない。

 誰かに見せるためでもない。

 それでも、止めるわけにはいかなかった。

 ――死にたくない。守りたい。

 邪神教団。

 学園。

 確定している自分の死。

 俺に才能は、期待できない。

 虚属性は、未だに形にならない。

 なら、せめて。

 身体を。

 技を。

 剣を。

 使えるようになるしかない。

 ぶん、と空を切る音。

 小さな腕で、何度も、何度も振る。

 汗が落ちる。

 視界が揺れる。

 それでも、剣を下ろさない。

 その光景を――

 屋敷の二階の窓から、リリーが見ていた。

 柔らかなカーテンの陰。

 小さな手で窓枠を掴み、じっと訓練場を見下ろしている。

 マアヤの姿は、遠い。

 それでも、はっきりと分かる。

 剣を振るたびに、

 小さな身体が揺れる。

「……おにいちゃん……」

 小さく、声が漏れた。

 リリーは、その理由をまだ知らない。

 なぜ兄が、そこまで自分を追い込むのか。

 ただ、分かることがひとつある。

 ――あれは、遊びじゃない。

 マアヤの背中は、

 「守る」ための背中だった。

 ぶん。

 ぶん。

 夕暮れの光が、訓練場を赤く染めていく。

 その中で、

 五歳の少年は、

 来るはずの死から逃げるために、

 ただ一人、剣を振り続けていた。

 そして、窓の向こう側で、

 妹はその背中を、決して見逃さなかった。

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