第4話 最推し、降臨


 部屋の空気は、どこか柔らかかった。

 静かで、温かくて、

 ほんのりと甘い匂いが漂っている。

 マアヤは、短い足を必死に動かしながら、部屋の奥へと向かった。

 大人にとっては数歩の距離でも、一歳の身体にはちょっとした冒険だ。

「ほら、マアヤ。こっちよ」

 母の声に導かれ、視界の先にそれが見えた。

 ――ベッド。

 いや、正確には赤子用のベッド。

 白い布に包まれ、小さな命がそこに横たわっている。

 マアヤは、ベッドの縁に両手をかけ、背伸びをした。

 つま先立ちになり、必死に中を覗き込む。

 その瞬間。

(――――――)

 思考が、弾け飛んだ。

(いた)

(いる)

(リリーだ)

 小さな顔。

 閉じた瞳。

 規則正しい寝息。

 画面越しに何度も見たはずの存在が、

 現実として、そこにいた。

(……やばい)

 心の中で、言葉にならない声が溢れ出す。

(赤ちゃんだ……)

(小さい……)

(尊い……)

(最推しが、赤子の姿で実在してるんだが?)

 感情が、制御を失って暴れ回る。

 狂喜。

 興奮。

 歓喜。

 そして、言いようのない愛おしさ。

(あああああああ……)

(無理……)

(可愛い……)

(世界……ありがとう……)

 だが、表情は変えない。

 いや、変えられない。

 一歳児の顔で、

 内心で狂喜乱舞しているなど、

 誰が想像するだろうか。

「……あかちゃん」

 かろうじて、それだけを口にする。

 母が微笑みながら頷いた。

「そうよ。あなたの妹」

 妹。

 その言葉が、胸に落ちた。

 原作では、

 俺はこの子を傷つけた。

 才能を理由に、

 存在を否定し、

 心を壊した。

 ――そんな未来。

(絶対に、ありえない)

 マアヤは、ベッドの縁を握りしめる。

 この小さな命が、

 七つの属性を持つだとか、

 天才だとか、

 世界の切り札だとか。

 今は、どうでもいい。

 ここにいるのは、

 ただ眠っている、

 俺の妹だ。

(守る)

 心の奥で、静かに言葉を刻む

(誰よりも)

(何よりも)

(何があっても)

 世界が彼女の才能を求めるなら、

 俺は世界を拒む。

 才能が彼女を縛るなら、

 俺はその才能ごと否定する。

 虚でもいい。

 英雄になれなくてもいい。

 ただひとつ。

(この子が、笑って生きられる世界を)

 マアヤは、そっとベッドから手を離した。

 今は、触れない。

 壊してしまいそうだから。

 だが、心はもう決めている。

 この瞬間から――

 マアヤ・レオンハルトは、

 リリー・レオンハルトの兄として生きる。

 最推しを、

 この手で守り抜くために。

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