第3話 知らないふり


 柔らかな拍手の音が、部屋に響いていた。

「おめでとう、マアヤ」

「一歳よ。大きくなったわね」

 視界の中で、両親が微笑んでいる。

 テーブルの上には小さなケーキ。甘い匂いが漂っていた。

 一歳。

 この世界で過ごした時間は、まだそれだけだ。

 身体は小さく、手足も短い。

 それでも、言葉はもう不自由しない。

 ゆっくりだが、簡単な会話なら成立する。

「……ありがとう」

 幼い舌で、できるだけ素直に言う。

 両親は少し驚いたように目を見開き、すぐに嬉しそうに笑った。

「ほんとうに早熟ね」

「私が一歳の頃なんて、こんなには話せなかったぞ」

 ――だろうな。

 心の中で、そう返す。

 前世の記憶がある以上、当然だ。

 だが、それを悟られるつもりはない。

 賢すぎる子供は、警戒される。

 目立つ存在は、管理される。

 それはゲームの世界でも、現実でも変わらない。

 マアヤはケーキを見つめながら、静かに考えていた。

(……もうすぐだ)

 分かっている。

 この時期だ。

 原作の設定では、年の差は一歳。

 つまり――

「マアヤ」

 父が、少し改まった声で呼んだ。

「今日は、もうひとつ大事な話がある」

 来た。

 心臓が、わずかに早まる。

 だが表情には出さない。

「なあに?」

 首を傾げる。

 幼い仕草を、意識的に作る。

 母が、そっとお腹に手を添えた。

「……もうすぐね、あなたに妹ができるの」

 一瞬、世界が静止したような気がした。

 分かっていた。

 知っていた。

 何度も画面越しに見てきた未来だ。

 それでも――

「……え?」

 マアヤは目を丸くし、口を少し開けた。

「いも、うと……?」

 わざと、たどたどしく。

 両親はその反応に安堵したように笑う。

「そうよ。マアヤ、お兄ちゃんになるの」

「ちゃんと守ってやらないとな」

 守る。

 その言葉が、胸の奥に深く沈んだ。

(ああ、守るとも)

 原作では、

 守るどころか壊す兄だった。

 才能に嫉妬し、

 感情をぶつけ、

 彼女の心を折る存在。

(……そんな未来、絶対に選ばない)

 マアヤは小さな手を握りしめる。

「……ぼく、おにいちゃん?」

「ええ、そうよ」

 母は優しく頷き、マアヤの頭を撫でた。

 その手の温もりを感じながら、マアヤは静かに誓う。

(大丈夫だ、リリー)

 まだ姿も見えない妹の名前を、心の中で呼ぶ。

(俺は、もう違う)

 才能に怯えない。

 才能に縋らない。

 そして、才能のある君を妬まない。

 驚いたふりをしながら、

 無邪気に笑いながら、

 マアヤはすでに“兄”になっていた。

 原作を知る、

 最推しの兄として。

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