第2話 泣かない理由


 柔らかな揺れの中で、マアヤは天井を見つめていた。

 自分がまだ赤子であるという事実は、理解している。

 身体が思うように動かないことも、声を出そうとしても泣き声しか出せないことも、頭では分かっていた。

 ――だが、泣く理由がなかった。

 腹は満たされている。

 身体は温かい。

 周囲には敵意がない。

 それ以上に、心が忙しすぎた。

(……これから、どうする)

 考えは、自然と未来へ向かう。

 いや、未来というより――確定した死だ。

 邪神教団のテロ。

 学園。

 共通ルート。

 細部は霧に包まれているのに、結論だけはやけに鮮明だった。

 何もしなければ、確実に死ぬ。

(参ったな……)

 前世では、努力しても結果が出なかった。

 才能がなかった。

 誰にも選ばれなかった。

 そしてこの世界では、

 「才能がない兄」として嫌われ、死ぬ役割が与えられている。

 まるで、逃げ場がない。

 ――それでも。

 思考の中心に、ひとつの存在が浮かぶ。

(……リリー)

 妹。

 レオンハルト家の、もうひとりの子。

 基本七属性すべてを持つ天才。

 原作では、誰からも期待され、誰からも人として見られなかった少女。

 そして、俺の――

(最推し)

 胸の奥が、じんわりと熱を帯びた。

 ゲーム画面の向こうで見ていた彼女。

感情を押し殺し、微笑うことすら忘れていた少女。

 ルートに入らなければ救われない。

それ以外では、ただ利用され、壊れていく存在。

(……冗談じゃない)

 原作の俺は、彼女を虐める。

 才能への嫉妬。

 劣等感の八つ当たり。

 その結果、彼女は心を閉ざす。

 ――最悪だ。

 思い出すだけで、胃の奥が重くなる。

(やるわけないだろ、そんなこと)

 この世界での俺は、確かにマアヤ・レオンハルトだ。

 だが、中身は違う。

 才能がなくて、

 報われなくて、

 誰にも愛されなかった男だ。

 だからこそ、分かる。

 才能があっても、

 愛されなければ壊れることを。

(……俺が守る)

 言葉にしなくても、誓いは形を持った。

 リリーを守る。

 誰よりも甘やかす。

 誰よりも味方でいる。

 世界が彼女を「切り札」として扱うなら、

 俺は彼女を「妹」として扱う。

 そのためには――

(強くならないと)

 脳裏に浮かぶ、自分の魔法属性。

 (たしか虚、だったか)

 派手さはない。

 英雄向きでもない。

 だが、だからこそ思う。

(才能を否定する力、か)

才能がすべてだと思い知らされてきた前世の人生。

 その結論を、真っ向から否定する属性。

 皮肉で、悪くない。

(……使いこなせるかは別だけど)

 自嘲気味に考えながらも、覚悟は揺るがなかった。

 俺は、英雄にならなくていい。

 世界を救わなくてもいい。

 ただひとつ。

 リリーが壊れる未来だけは、潰す。

 そのためなら、

 原作を壊してもいい。

 世界に嫌われてもいい。

 そして――

 自分が死ぬ運命すら、否定してやる。

その静かな決意を胸に、マアヤは泣かずにいた。

「……この子、泣かないわね」

 少し困惑した声が聞こえる。

「普通なら、もっと泣くものだが……」

 視界の端で、両親が顔を見合わせていた。

 不安そうでもあり、不思議そうでもある表情。

 赤子が泣かない。

 ただ天井を見つめ、静かに瞬きをしている。

 それは確かに、異様な光景だった。

「賢い子なのかしら」

「……いや」

 父親は、ほんの一瞬だけマアヤを見つめ、低く呟いた。

「何かを、考えているように見える」

 その言葉に、マアヤは心の中で小さく笑った。

(ああ、考えてるさ)

 生き残る方法を。

 妹を守る方法を。

 この世界を、否定する方法を

 豪華な子供用ベッドの上で、

 泣かない赤子は、すでに未来を睨んでいた。

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