第5話 因果逆転の怪異譚

「先輩も、一度くらいは来たことがありますか?」

「いや、今日が初めてだな……」


 部活動に所属していない俺には、そもそも部室棟に立ち入る用件がない。ましてや、女子トイレの前などもってのほかだ。

 しかし、内観自体は本校舎と変わりないはずなのに、夜闇の暗さに怪異への恐れが加わったせいか、入り口を閉ざす扉がいつもよりも不気味に映る。

 視界の端に映る手洗い場の鏡は曇っていてよく見えなかったが、汚れを拭き取ったらきっと緊張した面持ちをした自分が映ったことだろう。


「……やっぱり、入らないと駄目なんだよな?」

「怖気づきましたか、先輩。もしかして、ホラーは苦手なタイプで?」

「いや、苦手なわけではないが……」


 だからといって、ホラー映画を好んで鑑賞するほど得意なわけでもない。怖いものは、普通に怖いと感じる人間だ。

 それに……


「女子トイレに入るのも、ちょっと躊躇いがあるというか……」

「平気ですよ。誰も見てないですし、邪な目的で侵入するわけじゃないんですから。それとも、先輩はかわいい女の子とトイレへ入ることに興奮するタイプでもあるんですか?」

「でもとはなんだ。そんな特殊性癖もないし、ホラー嫌いでもない」

「なら、覚悟を決めてください。私のお手伝いをしていただけるのでしょう?」


 ここまで付いてきて逃がすまいと、強めの力で腕を絡め取られる。

 こんな陰々滅々たる雰囲気でなければ腕組みに胸が高鳴ったりもしたのだろうが、残念ながら今の心拍を上げている緊張は意味が異なっていた。


 仕方がない。厄災ちゃんの言う通り、覚悟を決めよう。

 繋いでいた手を離してもらい、一歩前に出て扉を開ける。今度は件の教室から出た時とは違って、自らの歩みで女子トイレに足を踏み入れた。


「……やっぱり、暗いな」


 当然ながら、部屋の脇にあるスイッチで明かりを灯すわけにはいかない。いくら『夜の帳』の効果で姿が見えないとはいえ、人がいる痕跡を晒さないに越したことはない。

 利用者がいないせいか室内は埃で空気がよどんでおり、窓から差し込む月明りもすりガラス越しで薄い。しかし、徐々にだが暗がりの世界に慣れてきていた夜目は、一番奥の個室に貼られていた『使用禁止』の札を見逃すことなく捉えていた。


「幽実の話していた通りだ」


 噂通り、壊れたままのトイレはしっかりと封鎖されていた。

 ただ、肝心の本筋――七不思議の一番目は、未だ気配すら見せていない。


「なあ、本当に――――」


 本当に、『ハナコさん』なんているのか?

 不安で揺らぐ心を少しでも落ち着かせたくて、厄災ちゃんに声をかけようとした――まさにその瞬間だった。


 『――――しくしく、しくしく』

「なっ…………!?」


 声が、耳に届いた。

 すするというよりは流れるような、さめざめとした少女の泣き声が。


 『――――しくしく、しくしく』

「嘘だろ……ほ、本当に、『ハナコさん』の泣き声が……!?」


 覚悟も、納得もしていたはずなのに、あまりに噂通りの声が――悲痛な涙の音が聞こえたせいか、自らの驚きに共感を求めてしまう。

 しかし――


「――いいえ、そんなものは聞こえませんよ」


 そんな動揺する俺の心を引っ叩くように、厄災ちゃんはぴしゃりと否定を言い切った。


「けど、確かに女の子の泣き声が!」

「先輩、それは本当に女の子のすすり泣く声ですか? 常識的に、合理的に考えて、こんな夜の時間に年端もいかぬ少女が、人様の学校のトイレで泣いていると思いますか?」

「いや、お前が……七不思議の一員がそれを今言うか!?」


 非常識で不条理な存在の権化であるはずの厄災ちゃんに諭され、思わずツッコミを言い返してしまった。

 だが同時に、自分で七不思議の拠点に連れてきておいて異を唱えるという矛盾した行動が、混乱していた俺の思考を落ち着かせてくれたのか、


『――――しくしく、しくしく』


 三度目のすすり泣く声が流れ出した時には、先ほどよりも冷静に音を聞くことが出来ていた。

 ――ん? 流れ出した?


「……もしかして」


 ひらめいた仮説を証明すべく、俺は近くの封鎖されていない個室の戸に手をかけて開く。

 仕切られた内部には当たり前だが洋式の水洗トイレが設置されており――蓋の開かれた内部で水が、


「まさか、これがすすり泣く声の正体?」

「ええ、そのまさかが正解なんです」


 水洗トイレの自動洗浄。

 一定時間ごとに水を自動的に流すことで汚れを防止するその機能自体は珍しくもないが、商業施設ならともかく、学校のトイレにこんな機能がついていたなんて。


「……待て。本校舎の男子トイレには、自動洗浄機能なんてついてなかったぞ?」

「おそらく、このトイレが特別なのでしょう。今でこそ、この校舎は部室棟であり倉庫のように扱われていますが、建設された当初は一階が応接室として使われていたようでして。大人が使うトイレだから、他の棟や階よりも良いものが備えられたのかもしれませんね」

「いや、けど……トイレの流れる音を、女の子の泣く声と聞き間違えるか?」

「現に先輩は聞き間違えたじゃないですか」

「それを指摘されると、何も言い返せないが……」


 しかし、種がわかってしまえば、つい数秒前まで泣き声だと怯えていた自分が恥ずかしくなってくる。

 最初に聞こえた時は間違いなく女の子の声だと思い込んでいたが、文字通り蓋を開けてみた今となっては、ただの水洗音にしか聞こえないのだから不思議なものである。


「まあ実際、自動で水が流れることを知らなければ、聞き間違えても仕方がない状況ではあります。先輩はトイレの中で遭遇したので気付けましたが、これが暗く人気のない廊下で、靴音が響くほどに不気味な静寂の中――人のいるはずもないトイレから突然、扉越しのくぐもった音で耳に入ってきたら」

「オカルト的な何かと勘違いしてもおかしくはない、か」


 水の流れる音単体ではなく複数の要素が絡み合い――正常な判断力を絡め取られた状況で、作り上げられた結果としての少女の泣き声。

 尾びれの付いた噂も、真相を知ってしまえばただの小さな魚でしかなかったわけだ。


「……あれ? ってことは、泣き声の正体が水洗音だったなら、その声の主である『ハナコさん』も本当は存在しないってオチなのか?」


 道中、散々脅されておいて実はフィクションでしたなんて、拍子抜けもいいところであろう。

 いや、美少女とちょっぴり刺激的な肝試しをしたくらいで済んだと、胸を撫でおろしておくべきだったのかもしれない。


 どのみち、非日常は終わってなどいなかったのだから。

 だって俺はまだ、何一つ彼女の手伝いをしていない。

 七不思議に、一つも手をかけていない。


「いいえ、『ハナコさん』はいますよ」


 厄災ちゃんは、再び自分の発言を否定した。


「先輩は、怪異譚が――七不思議がどのようにして生まれるかを知っていますか?」

「それは、初めに怪奇現象が起こって、それが生徒たちの間で噂になって……」

「先輩。ここから先の出来事は、先輩が私達七不思議と――七つの怪異と向き合っていくにあたって、とても重要な話となります。ですから、よく聞いていてくださいね」


 いつになく神妙な声色で告げると、厄災ちゃんはゆっくりとした足取りで奥の個室に歩み寄っていく。


「怪異とは、人の噂から――人間の意思から生まれるものである。多くの人々に噂され、七不思議という枠組みに収められ、そこで初めて存在が――怪異が生まれ落ちる」


 ドアノブの部分に手をかけ、鍵がかかっていることを確認している。

 物に触れられないはずの彼女が、その手を扉に当てていた。


「順序が逆なんですよ。怪異現象が起きて噂が立つのではなく、噂が立つことで初めて怪異現象が発生する。たとえそれが、水洗音を泣き声と誤った勘違いであったとしても、聞き違えた噂はやがて真実となり、水洗音は少女のすすり泣く声となり――――そして」


 ノックを二回、戸を叩くと――――


「泣き声の主である『ハナコさん』は――怪異は、顕現けんげんする」


 ――――ガチャリと、閉ざされていたはずの扉がひとりでに開いた。


「…………!?」


 正直な話をすれば、俺はこんな状況下に置かれてもなお、厄災ちゃんの言葉を半分程度しか信じていない節があった。

 たとえば、大掛かりな仕掛けを施した盛大なドッキリだとか、中二病を拗らせた少女の大袈裟な狂言だとか。


 だから、厄災ちゃんに導かれるがままこの場に挑もうとした時の心情だって、きっと幽実のオカルト話に付き合ってやるくらいの感覚でしかなかったのだろう。

 ちょっとした退屈しのぎで、凪いだ日常に一滴の刺激を垂らすくらいの軽い気持ち。だが、その楽観は――眼前に現れた異常なるソレによって、強制的に塗り替えられた。


 顔がない。瞳がない。なにより、その姿には生気がない。

 一目見ただけで、否応なく理解させられる異常性――自分とは異なるモノであることの確信。


 この場に立って、初めて思い知らされた。日常と非日常の境界線を、俺はとっくの昔に踏み越えていたのだと。

 ここはもう、異常達の領域だ。


 『ねえ、ワタシはナに?』

「答えないでくださいね。絶対に、話を聞いてはいけません」


 厄災ちゃんの忠告が辛うじて耳に入るが、視線は眼前の存在から離すことが出来ない。


 『明かりを、光を、ワタシを、ワタシが、ワタシは、ワタシは、ワタシは――――?』


 同じ言葉をうわ言のように繰り返す『ハナコさん』。もはやその発声は言語の型を成してはいない。

 自我が崩壊している。いや、自我が完成していないという表現の方が正しいか。

 生まれたばかりのソレは、また怪異としての在り方すら成立しておらず、不完全で不整合で――それ故に、七不思議の一番目は此岸しがんの光を求める。

 

『ねえ、ワタシに、その目を――』

「――ごめんね、『ハナコさん』。この人は、貴女にはあげられないの」


 その時、震えながら手を伸ばしかけていた『ハナコさん』を覆うように、厄災ちゃんは正面から怪異の肩を抱きしめた。


「起こしちゃってごめんね。もう誰もここには来ないから……だから、ゆっくりとおやすみ」


 ほんの数秒であったような、数分であったような。短くも長い時間をかけて背中をさすりながら宥めると、『ハナコさん』は呪詛を収めて静かに姿をくらませる。

 その直後、個室の扉はゆっくりと閉まり、始まりの時と同じガチャリという音を立てて、元の封鎖された形に戻ったのであった。


「……今ので、『ハナコさん』は消えたのか?」

「いいえ、あくまでも元の場所に帰しただけです。『ハナコさん』は、まだ怪異として存在しています」

「それじゃあ……もしもまた今の俺達のように、このトイレを訪れる生徒がいたら」

「今はまだ能動的に外へ出ることは出来ませんが、あの子の存在が大きくなってしまえば、いずれ自らの力で個室を飛び出して生徒を見境なく襲うようになってしまうでしょう。だからその前に――私達七不思議が人に害を成す前に、あの子を鎮めてあげたいんです」


 ――嘘が嘘であるうちに、私は七不思議を終わらせようと思ったんです。

 厄災ちゃんが、自らの目で判断するように言った理由がわかった気がした。

 きっと言葉で説明されただけでは、この危機感を――同族の手で収まるうちに七不思議を終わらせたいと願う彼女の心情を、理解することは出来なかっただろう。


「……やり方は、もう見つけているんだよな?」

「その問いかけは、肯定と受け取ってよろしいのですね」


 俺が首を縦に振ると、厄災ちゃんは小さく優しい吐息を零して微笑んだ。


「……ありがとうございます。ですが説明をする前に、ひとまず場所を変えましょうか」

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