Ep14.愛しい男
清水のいない二日間はあっという間に過ぎ、はやくも今日、彼が帰ってくる日を迎えた。
出張終わりに会社へ顔を出すのか、そのまま直帰なのかは分からない。
「また二日後」と言って別れたのだから、恐らく今日は会うことになるとは思うけれど。
この二日間、彼から連絡が来ることはなかった。
今日の戻りについても、きっと“今帰ってきた”と、土壇場で連絡が来るのだろう——そんな予感だけがある。
(……今日も、定時で終われそう、かな)
クライアントへのメールを打ち終え、ぐっと背伸びをした、その時。
デスクの上の内線が鳴った。
表示された番号は——国立のものだった。
「……お疲れ様です。安積です」
『——お疲れ様。今、大丈夫?』
「……はい」
『……佐々木と田端と三人で、部長室まで来てもらえるかな?』
杏華は短く返事をし、受話器を置いた。
それからもしばらく、受話器に添えたままの手を見つめて動けずにいる。
少し遅れて、胸の奥から鼓動の高鳴りが押し寄せてきた。
このメンバーで国立に呼ばれるということは——
恐らく、プレゼンの結果報告だ。
杏華はゆっくりと椅子から立ち上がり、佐々木と田端に声を掛けると、三人で廊下へと向かった。
「……失礼します」
杏華を先頭に部長室へ入ると、国立はいつものように気軽な雰囲気で、にこりと笑った。
こういう時、表情だけでは良い話なのか悪い話なのか悟らせないのが、国立の良いところでもあり、怖いところでもある。
三人が国立のデスクの前に横一列に並ぶと、彼も腰を上げた。
「……三人をここに呼んだのは、プレゼンの結果について、なんだけど……」
なんとも焦らすような言い方だった。
プレゼン以降のこの数週間、杏華は意識的に結果のことを考えないようにしてきた。
これまでにも、プロモーションの結果に悔しい思いをしたことは何度もある。
だからもし、今回も残念な結果に終わったとしても——それは、仕方のないことだ。
そう、頭では分かっている。
けれど、それでも。
胸の奥のさらに奥では、今回は——
あの人と一緒に積み上げてきた時間がある分、どうか上手くいってほしいと、願ってしまっていた。
杏華は国立の目を、ただまっすぐに見つめる。
「……GELLAT社から連絡があって。今回の統合プロモーションは——君たちの企画が採用されました」
その言葉を受けても、三人の中の誰も、すぐには何も言えなかった。
ただ、張り詰めていた空気が、音もなくほどけていくのを感じていた。
杏華は、たった今国立が口にした言葉を、頭の中で何度も反芻する。
——採用されました。
その言葉が脳裏を何度駆け巡っても、驚きなのか安堵なのか、感情に名前をつけることすらできず、言葉はひとつも出てこなかった。
「……あれ、反応、薄い……?」
あまりにも誰も何も反応しないので、国立が少し戸惑ったように目を瞬かせる。
「……えっと……私たちの企画が、採用された、とおっしゃいましたか?」
そう確認するように口を開いたのは、佐々木だった。
その問いかけに、国立は目をきれいな三日月型にして、やわらかく微笑んだ。
「そうだよ。君たちのが、選ばれたんだ。おめでとう」
“おめでとう”その五文字が、胸の奥に溜め込んでいたものを静かにほどいていった。
「き、杏華さん……!」
佐々木に肩を掴まれ、強く揺すられて、杏華の意識が一気に現実へ引き戻される。
「……っ」
言葉にならないまま、ただ小さく息を吐いた。
「……諸々のことはまた明日以降でいい。今日は、結果だけ伝えたかったんだ」
そう言って国立は軽く手を振る。
三人は揃って頭を下げ、そのまま出口へ向かい始めた。
杏華が最後に部屋を出ようとした、その時。
「安積」
名前を呼ばれ、杏華は足を止めて振り返る。
「……この結果について、清水には、安積から伝えてあげて」
国立の声はいつも通り穏やかだったけれど、その目には、どこか含みがあった。
国立が、杏華と清水のことをどこまで知っているのかは分からない。
清水が、自分たちのことをあれこれ話すようにも思えなかった。
けれど——
そもそもすべての始まりは、国立が仕立てた、あの夜にあったのだ。
そう思うと、今さら何かを隠すような気にもならなかった。
杏華は小さく頷き、
「……はい」
それだけを返して、部長室をあとにした。
部長室を出ると、エレベーターの前で二人が待っていた。
「杏華さん!やりましたね!」
「僕、びっくりしすぎて、さっき何も言えませんでした……」
二人の傍まで歩み寄った途端、張り詰めていた緊張の糸が一気に切れたように、口々にそう言われる。
その空気に引きずられるように、杏華もようやく実感が追いついてきて、肩の力がすとんと抜けた。
「……うん。ほんと、よかった……」
「これはもう、絶対に打ち上げしなきゃですよね!」
佐々木の声に、田端も大きく頷く。
「……って、また清水さんいないし……」
そう言って、佐々木は分かりやすく肩を落とした。
「……清水さん、今日戻る予定だから。連絡してみるよ」
杏華がそう言うと、二人は俄然その気になって、もう打ち上げの段取りを相談し始めながら、先に歩き出す。
杏華はその少し後ろをついて歩きながら、ほんの一瞬だけ迷って、社用携帯ではなく、自分のスマホを取り出した。
画面を見つめてから、短くメッセージを打ち込む。
『プレゼンの結果が出ました』
送信ボタンを押すと、胸の奥が、きゅっと小さく鳴った。
°・*:.。.
ガヤガヤとした喧騒が店内を満たしていた。
赤ら顔のサラリーマンたちの笑い声があちこちで弾け、ジョッキがぶつかる乾いた音が絶え間なく響く。
その中で、杏華たちのテーブルも例外ではなく、すでに三人とも三杯目のジョッキに手を伸ばしていた。
「いや〜、今日はもう飲んで飲みまくりますよ〜」
「お、いいねぇ、田端!」
すっかり赤ら顔の二人に、杏華は小さく笑いながらも、手元のスマホへと視線を落とした。
清水にプレゼン結果をメッセージで伝えたあと、すぐに既読がついたけれど返信はなく。
重ねて打ち上げの件を送信しても、それにも既読がついただけで返事は来ないまま。
時刻は十九時を過ぎたところ。
(……なにかイレギュラーかな…)
そんなことを考えていると、向かいでじゃれ合っていた佐々木と田端が、「あっ」と声をあげた。
二人の視線の先を追うように振り返ると、ちょうど暖簾をくぐって店に入ってくる清水の姿が目に入る。
「清水さーん!こっちです!」
酒が入ってすっかり陽気になった佐々木が、気負いのない様子で手を挙げた。
その声に気づいた清水が、軽く会釈をしてこちらへ向かってくる。
その間、杏華は落ち着かなくなって、どこを見ればいいのか分からず、テーブルの方へ向き直った。
——たった二日、会わなかっただけなのに。
胸の奥がそわついて、ジョッキ三杯程度では滅多に赤くならないはずの頬に、じんわりと熱が集まるのを感じる。
「清水さん!お疲れ様です!」
田端の明るい声と同時に、杏華の隣の椅子が引かれた。
反射的に顔を上げると、どこかホッとしたように緩んだ口元を捉えた。
「遅くなった。……よくやったな」
落ち着いた声で言いながら、清水が隣に腰を下ろす。
その気配が近すぎて、杏華は思わず背筋を伸ばした。
ただ隣に座っているだけなのに、呼吸の仕方すら一瞬わからなくなる。
「清水さんも、ビールでいいですか?」
佐々木がそう尋ねると、清水は首を横に振る。
「いや。車で来てる。ノンアルでいい」
短くそう言ってから、ちらりと杏華の方へ視線を寄越す。
「っ、お疲れ様です……」
至近距離で目が合うと、杏華は反射的に視線を逸らし、か細い声でそう言った。
清水はそれに言葉を返さず、ほんのわずかに目元を緩める。
(……だめだ。すごく、ドキドキしてる……)
まさか今、こんな気持ちで隣に座っているなんて、出会った頃は想像もできなかった。
ほんの少しで腕が触れそうな距離に、意識が引き寄せられてしまう。
それを逃がすように、杏華は手元のビールを口に運んだ。
ほどなくして清水のドリンクが運ばれ、テーブルの上に全員のグラスが揃う。
「……では、清水さんから乾杯の音頭をいただけますか!」
佐々木が楽しそうにそう言うと、清水は一瞬だけ困ったように眉を動かした。
「……いや、ここは安積がするべきだろう」
そう言って、手にしたグラスを杏華の方へとわずかに傾ける。
「え、私……?」
突然振られて戸惑いながらも、三人の視線を受けて、杏華は小さく息を整えた。
「……えっと、それじゃあ……改めて、お疲れさまでした……!」
少し照れた声に、三つのグラスが軽く触れ合う。
その最後に、清水のグラスが、静かに杏華のものと重なった。
軽く音を立ててジョッキを合わせた、その拍子に——
杏華は、清水のグラスを捉えていた視線を、そっと持ち上げる。
その瞬間、清水と真っ直ぐに視線が交わった。
「……お疲れ様」
たったその一言で、杏華の胸が締めつけられる。
——あの日から、ずっと欲しかった言葉。
それなのに、杏華は上手く返す言葉が出ず、ただ照れたように口元をきゅっと結んだ。
その後は他愛のない話が続き、笑い声が何度もテーブルを包んだ。
けれど杏華の意識は、ずっと清水の存在を追いかけていて。
隣に座る彼の気配が、ひどく近くて、遠かった。
°・*:.。.
「「清水さん!ごちそうさまでしたぁ!」」
すっかり出来上がった佐々木と田端が肩を組み、へらりと笑いながら清水へ声を揃える。
清水は大げさな反応も見せず、ただ軽く頷いた。
「明日、遅刻するなよ」
淡々としたその一言にも、二人は「はぁい」と間延びした返事を返す。
あれほど職場では緊張していたのに、アルコールというのは本当に恐ろしい潤滑油だ。
相変わらず上戸の杏華は、夜気に混じる酒の匂いを感じ取れるほど、すでに酔いは抜けていた。
二人が次々と杯を重ねる中、三杯目以降を意識的に控えていたのだ。
「じゃあ〜、私たちはこっちなので〜。お疲れさまでしたぁ」
佐々木がそう言いながら手を振る。
「ああ。気をつけて」
その声を背に、佐々木は杏華の腕を引っ掛け、田端と一緒に歩き出した。
一瞬、足を止めかけたけれど、そのまま流れに任せるように同じ方向へ進く。
ふと振り返ると、清水はすでに逆方向へと歩き出していた。
スキップ混じりに歩く佐々木が、杏華と田端を両脇に抱え込む。
田端は上機嫌に鼻歌を口ずさみ、足取りも軽い。
その中で、杏華だけが、ほんの少し遅れて歩いていた。
そして、ついに。
「……ごめん、私、店に忘れ物したかも……」
杏華が足を止めると、腕にかかっていた力が自然とほどけていく。
佐々木が一歩先で立ち止まり、振り返った。
「え〜?それなら戻りましょ〜」
「ううん。ひとりで行くから大丈夫。今日はありがとう、また明日……!」
少し早口でそう告げると、杏華は返事を待たずに踵を返した。
来た道を戻りながら、胸の奥が、静かに高鳴っていくのを感じていた。
足早に歩を進め、居酒屋を通り過ぎると、いちばん近くに見えたパーキングの看板を目指して、さらに歩幅を早めた。
(……まだ、いますように……)
肩にかけたバッグの紐を握る指に、自然と力がこもる。
駐車場に入ると、奥に見覚えのある車と、その傍に立つ長身のシルエットが目に入った。
煙草をくゆらせながら、暗がりの中でスマホの画面の光が、その横顔をぼんやりと照らしている。
まだこちらには気づいていないようで、杏華は一度立ち止まり、そっと息を整えた。
(……よし…)
胸の内で決心するように小さく頷き、一直線に歩き出す。
ジャリ、と砂利を踏む音が静かな空気に響き、その表情がはっきりと見える距離まで近づいたところで、清水が顔を上げた。
杏華の姿を捉えた瞬間、驚いたように目を見開く。
「……ちょうど今、連絡したところだった」
その言葉とほとんど同時に、杏華のスマホが震えた。
画面を確認すると、『この後どこかで落ち合おう』というメッセージが届いている。
杏華はすぐにスマホをしまい、ひとつ大きく息を吸った。
「私が……」
あと一歩、距離を詰める。
「私が、ふたりきりになりたかったんです」
清水は視線を逸らすことなく、しばらく杏華を見つめたまま立ち尽くしていた。
口元に運んだ煙草を外し、吐き出された煙が、二人の間をゆっくりと漂う。
その白が夜の空気に溶け切ると、清水は短く息を吐いて。
「……行こうか」
静かな声を落とした。
°・*:.。.
リビングに入るまで、互いに言葉はなかった。
清水が先に室内へ入り、照明をつける。
その背中を追って入った杏華は、いつもなら自然とソファに腰を下ろすはずなのに、今日は立ったまま、その場に留まっていた。
清水が腕時計を外しながら振り返る。
「……改めて、よくやったな」
その声はさっきよりもずっと近く、瞳も柔らかいのに、杏華の頬は強張るばかり。
けれど清水はいつも通りに「何か飲むか?」と、キッチンの方へ向きかける。
——その瞬間。
「……清水さん…っ」
タタッと二歩分進んだ杏華の指が、清水の腕を捕えた。
自分の声は、思ったよりはっきりと響いた。
清水が足を止める。
振り返った視線が、立ったままの杏華を見下ろした。
その目に浮かぶのは、驚きか戸惑いか、何を思うのかは分からない。
杏華は、清水に触れている自分の指に一度視線を落とす。
そして息を吸うのと同時に顔をあげ、今度こそは——としっかりその瞳を見据えた。
「…私……」
——もう、迷わない。
「…私、清水さんのことが、好きです」
清水の目が僅かに開き、凛とした黒い瞳が揺れる。
「もう、曖昧なままは…嫌」
思わず、清水を捕えたままの指に力がこもった。
「……清水さんに……触れて欲しい」
その言葉が零れ落ちた瞬間だった。
清水は掴まれていた腕を引くようにして、杏華の身体ごと引き寄せた。
杏華はそのまま、強い胸の中へと抱き込まれる。
高鳴っていた自分の鼓動が、清水の胸に触れた途端、別の重さと重なって響く。
——とくん、とくん。
自分のものなのか、彼のものなのかも分からない音が、二人の間で溶け合っていく。
「……俺も、ずっとこうしたかった」
耳元に届いた低い声。
彼の大きな掌が、杏華の背中から腰に回ると、さらに強く抱きしめられた。
杏華もそれに応えるように、背中へ手を回す。
身体を包み込む体温が心地いい。
「杏華」
あまりに優しい声で名を呼ばれ、杏華は顔を上げた。
目が合った、その瞬間、そっと唇が重なった。
一度ずつ離れるたび、名残惜しそうな熱を残しながら。
触れ合わなかった日々の空白を、埋めるように。
優しく啄まれる感覚に、ただ酔いしれていく。
やがて、息を継ぐ間隔が、少しずつ短くなっていった。
いつのまにか後頭部へ滑り込んでいた掌に引き寄せられ、歯列を割って差し込まれた柔らかな熱に、杏華はさらにうっとりと溶かされていく。
怖さは、確かにまだある。
たった数ヶ月で、過去の傷が癒えることなんてない。
それでも——
“信じる”そんな気持ちよりも先に、この腕の中に、この温もりに、包まれていたいと思ってしまう自分がいる。
それほどまでに、この気持ちが大きくなっていたことに気付かされる。
苦手で、いけ好かなくて。
そんな印象から始まったはずなのに。
ふいに見せる優しさや甘さ、触れる温度に——
きっと、ずっと、囚われている。
°・*:.。.
暴君上司の甘い支配に囚われて
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