Ep13.待つ男
「……それはたぶん、ちゃんと伝わってないですね」
佐々木の言葉に、口に運ぼうとしていたうどんが、箸からするりと滑り落ちた。
「いや、たぶんじゃなくて、絶対、伝わってないですね」
念を押すようにそう言われ、杏華は完全に手を止める。
あのデート以来、清水とは毎日、仕事終わりに会っている。
残業をした日でも、そのあと一緒に清水の家に帰り、夕食をし、少し話して、車で送り届けられる——そんな日が、もう四日も続いていた。
その時間の空気は、デートの日と同じか、それ以上に、甘かったりもする。
何か甘い言葉や行動があるわけではない。
ただ、これまでより距離が近かったり、彼の目がずっと優しかったり——そんな、ほんの些細な変化だけだ。
けれど——
どれだけ距離が近づいても、まるで二人の間に見えない壁があるかのように、清水は杏華に触れてこない。
セックスがない、という意味ではない。
もっと軽い、何気ないスキンシップすら、ないのだ。
手を繋ぐことも、抱きしめ合うことも、キスも——
それどころか、小指の先ひとつ、触れてこない。
あの夜、清水の言葉に、杏華は頷いた。
それはつまり、杏華の中では一歩、踏み出したつもりだったのに。
「……じゃあ、これはまだ……付き合ってない、ってこと?」
ぎこちなく言葉を紡ぐ杏華に、佐々木は短く、けれど迷いなく二度頷いた。
「ちゃんと、言葉にしないと伝わらないですよ」
そして「プレゼンと同じです!」なんて、あっけらかんと付け足す。
杏華は、拓海不在の昼休憩に佐々木を誘い、清水とのことをそれとなく相談していた。
もちろん、相手が清水だとは明かしていないし、自分の過去の恋愛についても、詳しく話したわけではない。
ただ、彼の言葉に頷いたはずなのに、どこかまだ宙ぶらりんな状態が続いていること。
それだけを、ぽつりぽつりと零していたのだった。
「……じゃあ……私から……好きって、伝えるの?」
それ以外になにがあるのか、と言わんばかりに、佐々木は大きく頷く。
「向こうの気持ちは知ってるんですから。なにも、怖がることはないじゃないですか」
そう言われても、それが簡単にできるなら、そもそもこんなふうに拗らせていない——杏華は小さく溜息を零した。
「それにしても、毎日会ってるのに指先も触れてこないなんて……大切にされてるんですねぇ」
佐々木はそう言いながら、うっとりしたような顔をする。
「……大切、なのかな……」
杏華は箸を置き、小さく首を傾げた。
「なんか……思ってたのと違った、って思われてるのかな、って……」
——とは言いつつも、ここ数日、一緒に過ごしている間の清水は、間違いなく優しい。
言葉にしながら、自分でも何が不安なのか、よく分からなくなってくる。
これまで清水は、何度も真っ直ぐな気持ちを伝えてきた。
杏華の抱えている過去の傷についても、ある程度は知っている。
だからこそ——
今さら引くに引けなくなっているだけなのではないか。
そんな考えが、ふと頭をよぎってしまうのだ。
たった数日の短い時間の中でも、自分が彼のイメージと違っていて——やっぱりこれ以上、踏み込む気になれないと思われていたら。
——なんて、どこまでもネガティブに考えてしまう。
「え?! 杏華さんって、もしかして恋愛に対しては拗らせ女子なんですか?!」
佐々木の大きな声が、食堂に響いた。
一瞬、周囲の空気がふっと止まり、近くのテーブルからちらほらと視線が向く。
「……っ」
杏華が肩をすくめた、その時。
「佐々木ちゃん、杏華は恋愛になるとガラスのハートだから、そんなこと言わないであげて」
背後から聞き慣れた声に振り返ると、すぐそばに拓海が立っていた。
「……拓海」
「広瀬さん!お疲れ様です。外出終わりですか?」
「うん。飯は外で食ってきたからさ。休憩終わりまで、ここで時間潰そうと思って」
そう言って杏華の隣に腰を下ろすなり、拓海は頬杖をつき、膝ごとこちらへ向けてくる。
「……で? なに、杏華の恋バナ?」
「ちょっと広瀬さん、聞いてくださいよ!杏華さんってば、好きな人がいるのに全然進まなくて!」
「ちょ、佐々木……」
「……なるほどね」
拓海はそう言いながら、なにかを確かめるように目を細めた。
拓海にはこれまで、杏華の数々の色恋話をしてきた。
けれど今回のことだけは、どうしても話す気になれない。
拓海の気持ちを明かされたあとで、別の人に想いを寄せているなんて——言いづらいに決まっている。
けれどあの日、自販機ブースで杏華と清水の間に流れていた空気を見て、何も感じないほど拓海は鈍感な男ではない。
なにより、あの時点で清水に対して、真正面から言葉を投げていた。
つまり——言わなくても、これは清水の話だと分かっているに違いない。
あんなに清水について愚痴を零して、苦手だ、嫌いだと言っていたのに。
——今さら、恥ずかしくてたまらなかった。
「……杏華さん、いいですか?」
ひとりで恥ずかしくなって押し黙る杏華に、佐々木が真剣な眼差しで続ける。
「向こうは、杏華さん待ちなんですよ。宙ぶらりんな気持ちなのは、きっと向こうの方です」
杏華の胸が、きゅっと鳴った。
「今の状態で触れてこないのは、誠実さの塊です。はやく杏華さんの気持ちを、ちゃんと伝えてあげてください」
「う、うん……」
あまりに真っ当な言葉に、杏華は頷くことしかできなかった。
いつの間にか少し身を乗り出しがちになっていた佐々木は、はっとしたように姿勢を正すと、「でも……」とどこか嬉しそうな顔で続ける。
「……杏華さんが、こういう相談を私にしてくれたこと、ちょっと感動してます……」
胸に手を当ててしみじみと言われ、杏華は少し照れくさくなって視線を逸らした。
「上手くいったら、教えてくださいね」
そう言った佐々木に頷き返しながらも、杏華は最後まで、拓海の顔を見ることができなかった。
°・*:.。.
残業をせず、定時に仕事を切り上げた杏華は、そそくさとエレベーターへ乗り込んだ。
今日は清水は一日外出で、顔を合わせることなく終わった。
恐らく今日は会えないだろう。久しぶりに、ひとりだ。
本屋にでも寄って帰ろうか——そんなことを考えていると、手にしていたスマホに通知がきた。
心の中で噂をすれば——
『今日はこのまま帰る。残業がなければ会おう』
清水だ。
もちろん、会いたい気持ちはある。
けれど——
佐々木とあんな会話をした後だ。
顔を合わせるのであれば、今日、勇気を出さなければならない気がして。
考えただけで、緊張が走る。
それでも、会うことを断る理由はなかった。
杏華は画面を見つめたまま、少しだけ指を止めてから、短く返事を送った。
エレベーターを降りると、ちょうどもう一機からも人が降りてきて、その中に拓海がいた。
目が合うと、自然と歩幅を合わせ、並んでオフィスを出る。
「……定時終わり、珍しいね」
「残業時間、このままだと規定オーバーするって課長に言われてさ」
そんな何気ない話をしながら、駅の方向へ向かう。
会話が途切れることはないけれど、杏華が昼の余韻を引きずっているせいか、どこかぎこちない。
拓海のほうはいつも通りに見えるけれど、こんな時、まず最初に「飲みに行こう」とならないあたり、彼にも思うところがあるのだろう。
黙ってしまえば、拓海が“彼”について聞いてくる気がして、珍しく杏華のほうから、次々と話題を振ってしまっていた。
けれど、会話が途切れたほんの一瞬の隙に——
「……杏華の好きな人って……清水さん、だよな」
ついにそう聞かれてしまい、杏華は口を噤んだ。
返事がないのが答えとなり、拓海は「だよなぁ」と、どこか納得したように呟いた。
それ以上は、拓海は清水について触れることなく、また他愛もない話が続いた。
駅に着くと、ロータリーに停まっている清水の車が目に入った。
「拓海、私は今日はここで……」
いつも通り改札へ進んでいく拓海にそう告げる。
拓海は一瞬立ち止まったけれど、何かを察したのか、微かに眉を下げながら「おう」とだけ返事した。
改札の奥に消えていく拓海の背中を、杏華は少しの間見届けてから、振り返った。
そして清水の車の方へと向かう。
「…お疲れ様です」
ドアを開けてそう言いながら、杏華は助手席へ乗り込んだ。
「ん」と短く返事をした清水はどこか素っ気なくて、それが疲労のせいなのか、他に理由があるのかは分からなかった。
この空気感に、どうしたのかと胸がざわめくよりも、今は気持ちを伝えられる雰囲気ではないことに、どこか安心してしまう自分がいた。
杏華がシートベルトを着け終わっても、車は出発しなかった。
最近ではなかったような重い沈黙が落ちて、車内にはアイドリング音と微かな振動だけが響いていた。
ちらりと運転席のその横顔を見やると
「……広瀬と一緒だったのか」
清水は前を見据えたままそう尋ねた。
「たまたま、エントランスで会って…」
それ以上は言葉を足さずにいると、清水は小さく息を吐いた。
「……今回はたまたまかもしれないが……できれば、あいつと二人きりになる状況は、避けてほしい」
思いがけない言葉に、杏華の喉がきゅっと詰まった。
「……また君が……あいつに触れられてるんじゃないかと、勝手に考えてしまう」
「それはないです。絶対に…」
即座に否定したけれど、清水は腑に落ちない表情で、シートに深く背を預けた。
「……本当にそう言い切れるのか。君はそうだとしても、あっちは?男で、元々そういう関係で……君に、気がある」
何をどこまで話すべきか、判断が追いつかない。
それでも、黙っている訳にはいかず、杏華はなんとか言葉を紡いだ。
「……拓海には……気持ちは伝えてもらいましたけど、断って……それでも、今までみたいな関係でいようってなって……もちろん、身体の関係は抜きにして……」
自分でも、なかなか要点のまとまらない言い方になってしまった自覚がある。
いっそ、すべて受け入れて「二人きりにはなりません」と言い切ってしまったほうが良かった気もする。
けれど——これまでと同じ関係でいたいと言ったのは杏華自身で。
それなのに、一瞬でそれを踏みにじるような返事をするのは、さすがに不誠実すぎると思った。
「………いや。すまん。今のは……忘れてくれ」
清水は上体を起こし、姿勢を正した。
「そもそも……今の俺たちの関係で、こんなことを言うのは違うな」
そう言って、サイドレバーを引く。
——“今の俺たちの関係”。
その言葉が、杏華の気持ちがまだ、彼に届いていないことを静かに突きつけてきた。
けれど、想いを口にするには、あまりにも重い空気で。
これは決して逃げているわけじゃない。
気持ちは、ちゃんと伝えると決めている。
ただその決心は、まだ言葉の形になって出てきてはくれなかった。
杏華はガラス越しに流れていく景色に目を向け、ただただその時間をやり過ごした。
°・*:.。.
清水の家に着くと、車の中に漂っていた緊張は自然とほどけ、普段通りの穏やかな時間が流れた。
ただ、杏華は常に想いを告げるタイミングを探っていて、表向きは穏やかに振る舞いながらも、どこか落ち着かなかった。
二人とも、絶えず言葉を交わしているわけではない。
話し出すきっかけはいくつもあったはずなのに、その静けさと落ち着きが、かえって勢いを削いでしまう。
結局、何も言い出せないまま時間は過ぎ、杏華は自宅前まで送り届けられた。
「……そういえば、急遽、明日から二泊三日で出張が入った。だから少し会えなくなる」
車を停めると、清水がそう告げた。
「……分かり、ました」
つまり、今ここで言わなければ、この告白は二日後まで持ち越されるということだ。
杏華はぎこちなく返事をしながら、頭の中で言葉を組み立てていた。
「……少しは、寂しくなるか?」
けれど、その思考を、清水の静かな声が遮る。
杏華はその問いかけに、無意識のまま小さく頷いた。
清水はそれが意外だったのか、わずかに眉を上げ、驚いたような表情を見せる。
けれどすぐに、ふっと鼻音を零した。
——彼のように、想いをなんでも口にできたらいいのに。
自分の気持ちを伝えるのに、こんなに勇気がいるなんて。
杏華は視線を落とし、膝の上に置いていた手をぎゅっと握る。
そして小さく息を吸うと、清水の方へ顔を上げた。
すると、清水もこちらを見ていて、エンジン音さえ掻き消えるような緊張が杏華を襲った。
清水はただ黙って杏華を見つめているだけ——
それでも、その瞳は熱を湛えていた。
彼の喉が、ひくりと動くのが分かった。
このまま自ら唇を重ねてしまうのと、言葉で伝えるのでは、どちらの方が簡単か——
もしかすると、前者かもしれない。
そんな風にすら思えて。
杏華は、わずかに膝頭を運転席の方へ向けるように、身体を動かした。
けれど。
「……また二日後」
清水は静かにそう言いながら目元を和らげた。
たった今、車内に満ちていた雰囲気がずっと引いていく。
その緊張が途絶えても、杏華の握りこぶしは解かれないままだった。
「……なにもしないのも……私たちの関係がまだ曖昧だからですか?」
掠れて、少し震えた声は、自分のものではないみたいに聞こえた。
清水は顔を逸らして前へ向き直ると、少しの間、言葉を選ぶように黙った。
やがて、静かに続けた。
「……ああ。今の関係で、君に触れるのは違うと思ってる」
そのはっきりとした言葉に、拒絶にも似た痛みが走る。
けして拒絶されているわけじゃない。
彼の言うことは真っ当だ。
そして、ここまで曖昧なまま来てしまったのは、他の誰でもなく、杏華のせいだ。
でも、このままじゃ、嫌だ——
——杏華さんの気持ちをちゃんと伝えてあげてください
佐々木の言葉が頭の中を駆け巡る。
「……っ、清水さん、私——」
そう言いかけたところで、携帯の着信音が、しんとした車内に鳴り響いた。
清水はそれにすぐには反応せず、杏華が言いかけた言葉の続きを探すような間が落ちる。
それから、はっとしたようにポケットへ手を伸ばし、社用携帯を取り出した。
「……悪い、鳴海課長だ」
杏華は今しがた口から出かけた言葉を飲み込むようにして、シートへ座り直した。
電話先に、鳴海の声が途切れ途切れに聞こえてくる。
明日の出張の話らしかった。
杏華はここに留まるわけにもいかず、清水の横顔に視線を送ると、会釈をして車から降りた。
ドアを閉める時、清水が一瞬スマホから耳を離してこちらを見たけれど、杏華は再び頭を下げて背中を向けた。
°・*:.。.
翌日。
杏華は今日一日中、昨日、気持ちを伝えられなかった自分を思い返しては、自分の弱さにげんなりとしていた。
——あのまま、電話が終わるまで待っていた方がよかった?
そもそも、鳴海からの着信がなければ、杏華はあのまま気持ちを伝えることができていただろうか。
勢い任せに、どんな言葉で伝えたのだろう。
それは、自分でも分からなかった。
「……あの、安積さん」
悶々としながらデスク周りを片付けていると、デスクの横に立った野々瀬に声を掛けられた。
「二週間、お世話になりました!」
そう言いながら、杏華へ小さな紙袋を差し出す。
今日は野々瀬のインターン最終日だ。
鳴海も清水も不在のまま迎えた最終日で、形式的な挨拶もないまま、気づけば退勤時刻になっていた。
——もしかすると、それを取り仕切るのは、今日は自分の役目だったのかもしれない。
杏華は椅子から立ち上がり、紙袋を受け取った。
「…ありがとう」
そう言いながら紙袋に目を落とすと、小さなメモが添えられているのに気づく。
数行の短い言葉の最後に、『もっと沢山お話したかったです』とあった。
杏華はその一文に、ほんの少しだけ眉を下げて野々瀬を見る。
「…あと、これ、清水さんにお渡しいただけますか?」
そう言って、野々瀬はもうひとつ、同じ紙袋を差し出した。
「……わかった」
そこにも同じように、小さなメモが添えられていた。
内容を見るつもりはなかったはずなのに——
「……え、恋人…?」
その二文字が視界に飛び込んできてしまい、杏華は思わず声に出していた。
『仕事以外に、恋人の相談にも乗っていただきありがとうございました』
一瞬、読み間違いかと思って、もう一度目で追う。
「……わっ、恥ずかしいので読まないでくださいよ〜!」
慌てたように言う野々瀬に、杏華ははっとして顔を上げた。
「ご、ごめん……でも、野々瀬さん、恋人いたんだね…」
言いながら、そりゃそうか、と思う一方で、杏華に黒い靄を作る原因となった、彼女と清水の距離感を思い出す。
「……はい。実は…来月、入籍予定なんです」
「……入籍?」
はい、と少し照れたように笑う野々瀬の表情は、どこまでも素直で、晴れやかだった。
「……相談ってことは、清水さんはこのこと、最初から知ってたの?」
「そうですねぇ…かなり最初の頃に、お話しました!」
杏華はその言葉に、小さく開けた口がしばらくそのまま閉まらなかった。
——彼女は最初から最後まで、ただただ素直で、人懐っこくて、明るかっただけ。
裏表もなく、変に取り繕うこともしない。
勝手に色々と考えて、疑って、拗ねていた自分が恥ずかしくなる。
(…ほんと、情けない……)
——でも。
同時に、胸の奥に引っかかっていた何かが、ほんの少しだけ、ほどけた気もしていた。
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