Ep12.受け止める男


五月晴れの空。

昨夜の雨がつくった水たまりを避けながら、杏華は駅までの道を歩いていた。


——“君の一日を、俺にくれ”。


その言葉の意味を、そのままに。

今日は清水と会うことになった。


車で自宅まで迎えに行くと言われたけれど、家を出た瞬間に清水がいるというのも、なんだか落ち着かなくて。

杏華の最寄りの駅へ来てもらうことにした。


こうして駅まで歩いているのは、心の準備だ。


スマホを確認すると、待ち合わせの時間まであと五分ほど。

そしてちょうど、メッセージが届いた。


『今着いた。ロータリーで待ってる』


淡白で飾り気のない文章も、彼らしい。

それなのに胸の奥が、わずかに騒いだ。


連絡先を交換したのも、昨日のことだ。

画面の上には、今日どこで待ち合わせるかの短いやり取りだけが並んでいる。


昨夜、そのやり取りをしている間も、清水が私生活に潜り込んできているようで、くすぐったさが胸を満たしていた。


昨日の会社での、あの雰囲気から。

まさか今日、デート——もとい、会うことになるなんて。


いや。

男女が休日に会うのだから、“デート”なのか。


そんな、どうでもいいことを考えてしまうのも、きっと緊張のせいだった。


それほど大きな駅ではないので、ロータリーには清水の車が一台だけ停まっているのが、すぐに目に入った。


自分の生活圏内に、上司の車が停まっている。

それだけで、不思議な感じがする。


運転席の清水の姿をはっきり捉えた瞬間、杏華は俯きがちに、小走りで車へ向かった。


自分が近づいてくる姿を、じっと待って見つめられる——そんな状況を想像しただけで、むず痒くなるのだ。


勢いそのままに助手席のドアを開けると、私服姿でいつもと違う雰囲気の清水が出迎えた。


会った瞬間の一言なんて準備していなかった杏華は、一瞬言葉に詰まったけれど、「お待たせしました」とだけ言って助手席へ乗り込む。


「……私服姿というのも、なかなか新鮮だな」


シートベルトを付けていると、そんな言葉が投げられた。

杏華は咄嗟に、急いで乗り込んだせいで乱れたスカートを整えながら、


「……清水さんこそ、いつもと雰囲気、違いますね」


膝の上に目を伏せたまま、そう返す。


別に「可愛い」とか「似合ってる」と言われたわけじゃないのに、こんなやり取りですら照れくさい。


清水は「そうか?」とだけ言って、エンジンをかけ始めた。


そのあまりに自然な仕草に、昨日ふたりの間に流れていた緊張感が、嘘みたいに思えてくる。


あんなふうに避けて、身勝手に拗ねていた自分の態度が急に恥ずかしくなって、それを誤魔化すように、


「……今日は、どこに行くんですか?」


と尋ねたけれど。


「行けば分かる」


全く答えになっていない返事が返ってきて、杏華はわずかに口をへの字にした。


そんな杏華の目まぐるしく揺れる気持ちも置いていくように、車は静かに走り出した。



°・*:.。.



車は高層ビルの麓にある駐車場へ入っていった。

一ヶ月ほど前に完成したばかりの、商業施設とオフィスが入った複合ビルだ。


車を降り、隣に並んだ清水の立ち姿を改めて目にした瞬間、思わず視線が止まった。


スーツの時よりも輪郭は柔らかく見えるのに、姿勢の良さと体格の良さだけは変わらず、自然と目を引いてしまう。


——やっぱりこれは、デートっぽい。

そんなことを、杏華は改めて思い直す。


ビルの中へ入ると、アパレルや雑貨店が立ち並び、ここ限定のショップも多い。

週末らしい賑わいが、視界にも耳にも流れ込んでくる。


けれど清水は、どの店にも足を止めることなく、迷いのない足取りで進んでいった。

どこか目的の場所でもあるのだろうか。


杏華は特に言葉を挟むことなく、その隣を並んで歩く。


そして、ようやく足を止めた先は——


「……ギャラリー?」


入口には簡素な看板が立てられていて、『広告表現ギャラリー』の文字とともに、開催期間が小さく記されている。

どうやら常設ではなく、今だけ開かれている展示らしい。


電車の中などで見かけたことのあるようなポスターや、映像作品が、入口越しにも流れているのが分かった。


「水族館とかを期待していたか?」


「……いえ、全然……」


エレベーターで上がってくる時、フロアマップにあった『アクアリウム』の文字が、ふと目に入ったことは確かだ。

けれど、特別に何かを期待していたわけでもなく、まさかピンポイントでギャラリーに来るとも思っていなかった。


「正直、デートっぽい場所は避けたかった。君は変に構えるだろう?」


肩をすくめながらそう言われて、杏華は図星を突かれ、返す言葉に詰まる。


ただでさえ、こうして休日に会うこと自体、どこか身構えてしまうのに。

その上、カップルだらけの“いかにも”な場所に清水と並んで行くなんて——想像しただけで落ち着かなくなる。


それに、杏華が「ギャラリー?」と口にしたのは、決して期待外れだったからではなかった。


むしろ、こういう展示を見るのは元々好きな方だ。

期間限定のポップアップ展示も、予定が合えば興味のあるものには足を運ぶ。


だからこそ——清水の選んだ場所が、思いがけず自分の好みに重なっていて、杏華は少しだけ驚いてしまったのだ。


「…私、こういうの好きなんです。清水さんも、よく来られるんですか?」


吸い込まれるように展示空間へ足を踏み入れながら、そう尋ねた。


「ああ。だから、デートっぽい場所は避けたかったと言いつつ……正直に言えば、俺の趣味でもあるな」


そう言ってから、清水は一瞬だけ杏華の方を見る。

すぐに視線を外し、ギャラリー内をぐるりと見渡した。


「……君も好きなら、よかった」


何でもないことのように添えられたその言葉に、杏華の緊張が少しだけほどけた。


奥行きのある空間の壁一面に並ぶポスターに、杏華の視線が自然と吸い寄せられる。


杏華はひとつひとつを、足を止めながらゆっくりと見ていった。

少し後ろを歩く清水も、同じように展示をじっくりと眺めているようだった。


そして、ある一点で、杏華の足が止まる。


——広告写真の構図。文字量。余白の取り方。


「……これ」


それは、本当に自然と零れた声だった。


「多分、“分かってもらおう”とはしてないですよね。見る人に答えを明確に渡すんじゃなくて……考えさせる余白を残してる気がして…」


独り言にも似たその声に、清水も同じポスターの前で足を止める。


「伝えようとすると、どうしても色々と詰め込みたくなってしまうけど……削ぎ落とした方が伝わるというか……“感じてもらう”ほうが、広告としては強い時もある…」


広告は、それが成り立つから良い。


けれど実際の人間関係は——

伝えようとするのをやめてしまえば、そこで終わってしまう。


“分かってほしい”“察してほしい”では、届かない。


それは分かっているのに。

自分のことになると、どう伝えればいいのかも、何を伝えるべきなのかさえ、分からなくなる。


「珍しいな。こんなふうに話す君」


「……あ、すみません。なんか……少し仕事の話みたいになって……つい喋りすぎちゃいました……」


清水の静かな声に、杏華ははっと我に返った。


休日にまで仕事の話や、それに関連することを口にした時、過去の恋人たちは決まって「仕事のことばっかり」と嫌そうな顔をしてきたことを思い出す。


「なぜ謝る? そういう時が、君は一番活き活きしている。それに——」


清水はそう言いながら、展示から目を離して杏華を見る。


「俺は、そういう君が好きだ」


挨拶のようにさらりと言われ、杏華は一瞬、聞き間違いかと思った。


けれど、確かに“好きだ”と言ったのだ。


彼の気持ちは知っていたはずなのに、こうして真っ直ぐに言葉にされると、やはり落ち着かない。


それでも、その照れくささよりも——

これまで否定されてきた部分を、そっと掬い上げられたような感覚が胸に残った。


ありのままでいいのだと、静かに肯定された気がして。


その感覚がじんわりと胸の奥に広がっていき、杏華の心に温かく響いた。


一通り展示を見終え、ギャラリーを出る。


ガラス張りの通路を歩いていると、外の光がそのまま差し込み、思わず目を伏せた。

そのまま落とした視線の先に、地上の広い芝生エリアが見える。

そこには人だかりと、いくつものカラフルな屋台の屋根が並んでいた。


「……下で、何かやってますね」


そう呟くと、清水も足を止めて下を覗き込んだ。


「ああ。週末は、たまに出てるみたいだな」


そう言って、再び歩き出し、


「行ってみるか」


振り返ったその表情があまりにも優しくて、杏華は上手く返事ができないまま、一歩踏み出して隣に肩を並べた。


外に出ると、先ほどとは違う賑わいが耳に入ってきた。

人も多く、行列ができている店もある。

揚げ物や炭火の香りが鼻を掠め、すれ違う人たちが手にしているフードに、自然と目がいってしまう。


「天気もいいし、ここで買って食べるか」


杏華は頷き、ずらりと並ぶ出店の看板をじっくりと見ながら人波の中を進んでいく。


「俺はあれにする」


清水がそう指さす先には、焼きそばの出店があった。


「いいですね。じゃあ私は……唐揚げにします。間違いなさそうなので」


他の店よりも人が並んでいる唐揚げの店を選ぶ。

こういう時は、並んででも間違いなさそうな店を選びたくなる。


フードとドリンクを買い終えると、ちょうど空いていた木陰のベンチに腰を下ろした。

風が心地よく肌を撫で、ちょっとしたピクニック気分だ。


「いただきます」


熱々の唐揚げを冷ましながら頬張ると、じゅわりと肉汁が染み出し、醤油の香ばしさが広がった。


「美味しい…!」


他より列ができていただけあり、よくある「金賞受賞」という少し胡散臭い売り文句にも、素直に納得してしまう味だった。


「……あの日みたいなかしこまった席よりは、やっぱりこっちの方がリラックスできているな」


清水が言うのは、国立の謎の計らいによるホテルディナーのことだろう。


もちろん、あの美味しさとは比べものにならないし、ああいう場が嫌なわけではない。


けれど今は、格式張ったディナーと違って、周りの喧騒をBGMに、対面ではなく肩を並べて座っているおかげで、自然と肩の力が抜けている。


デートっぽくお洒落な店でランチをするよりも、今日はこの方が良い気がした。


それにしても——屋台のプラスチックのタッパーに入った焼きそばを、なんの気負いもなく口にする清水の姿は、なんとも新鮮に映る。


あのホテルでの食事とはあまりにも違う光景に、杏華はふと尋ねた。


「焼きそば、美味しいですか?」


「美味い。食べるか?」


さりげなく差し出された焼きそばを、そのまま受け取る。

受け取ったはいいものの、一瞬、口にするのを躊躇った。


けれど——キスどころか、それ以上のこともしておいて、今さら“間接キス”なんて意識している自分は高校生か、と内心で呆れる。


(……今どき、高校生でもそんなこと考えなさそうなのに)


「……じゃあ、清水さんも。唐揚げ、どうぞ」


このまま焼きそばを口にするところを見られるのも気恥ずかしくて、杏華も唐揚げをカップごと差し出した。


受け取る清水の指先がそっと触れ、平然としているつもりなのに、どうしてこんなことで心臓が跳ねるのか。


杏華は何も悟られないように、清水から少し顔を背けがちに焼きそばを啜る。


「…あ、美味しい」


「美味いな」


二人の声が重なり、杏華は思わず清水をちらりと見る。

完全に気の抜けたその表情をした彼がそこにいて。

こそばゆさと同時に、胸の奥がふっと落ち着くのを感じた。


食べ終えた二人は、そのまま芝生エリアを外周するように歩きながら、来た時とは逆方向へ向かう。

フードだけでなく、ハンドメイド雑貨やアクセサリーを並べた小さな店が点々と続いていた。

言葉を交わさなくても、ただ並んで歩いているだけで時間が流れていった。


不意に強い風が吹き抜け、杏華のスカートの裾が大きくはためく。

プラスチック容器やビニール袋が音を立てて舞い、あちこちから短い声が上がった。


「…そろそろ戻るか」


清水のその一言に、杏華は小さく頷いた。



°・*:.。.



車に戻りドアを閉めると、外とは切り離された静けさが満ちた。

けれど、今朝ほどの気まずさはもう感じられなかった。


「このあと、まだもう少し君と一緒にいたいんだが、時間は大丈夫か?」


「…はい」


本当に自然と、特に考えることもなく、そう返事していた。


清水の気持ちはまだ、確実に杏華へ向いている。


昨日、あんな状態の杏華を追いかけてきたことや、こうして一緒に過ごしていること、そして不意に胸をくすぐる甘さが、それを物語っていた。


それでも、これがずっと続くとは限らない——そう考えてしまうのが、杏華の拗らせている部分だ。


そんなことを言っていたら、本当に二度と恋愛なんてできない。


もうあんな気持ちになりたくなくて、恋愛をやめると決めた。


けれど——


こうしてそばにいると。その横顔を見ると——


自分の気持ちが、もう戻れないところまで来ていることに気付かされる。


「……やっと、そうやって見つめてくれるようになったか」


ハンドルを握り、前を見据えたまま、清水がそう言う。

杏華は思わず、音が鳴りそうなほどの勢いで顔を背け、前へ向き直った。

“見つめる”なんて言葉にされると恥ずかしすぎる。


「…俺も早く君のことを見つめたいのに、あいにく、運転中だ」


顔を逸らしている杏華には、清水が今、どんな顔をしてそんなことを言っているのかはわからないけれど。

その声は至って真面目だった。


「……そういうことを言って、いつも、恥ずかしくないんですか」


あの時も、それにあの時も——と、杏華の中では清水の言葉がいくつも思い浮かぶ。

整いすぎた横顔と相まって、現実感がふっと遠のく瞬間がある。


「全くだな。昨日は目を合わせないどころか、俺を見ようともしなかっただろう。だから今日の君には……ほっとしてる」


その声色には本当に安堵の響きがあって、いつもの清水の強さが感じられない。


「昨日は……すみませんでした…」


あんな風な態度を取るのは、社会人として、ひとりの大人としてもよくなかったと改めて思い直した杏華はそう呟いた。


「…なぜあんなに怒っていたんだ?」


「…あれは……怒ってた、というか……」


そこまで言って、杏華はどうにか誤魔化そうと言葉を濁したけれど。


「…清水さんが……誰かに向けてる優しい顔を見て…勝手に拗ねてました……」


何がそうさせたのか、どんどん語気を弱めながらも、素直な気持ちが口をついていた。


車内に沈黙が走り、エンジン音だけが響く。

そこに、清水の長いため息が混じったのを聞き、杏華は唇を噛み締めた。


こうして嫉妬を口にしたのは初めてだった。

なぜか清水を前にすると、自分でも驚くほど正直に言ってしまったけれど、やっぱり引かれてしまったかもしれない。


やっぱりこんなことは、言うべきじゃなかった——途端に後悔の気持ちが襲い、杏華はこの静けさを断ち切るように口を開いた。


「……ほんと、しょうもなくて呆れますよね」


横顔すら見られるのが恥ずかしくなり、窓の外へ視線を逃す。


やがて信号で車が止まると


「呆れてなんかない」


短く低い声がして、恐る恐る運転席の方を見ると、清水は額に手の甲を当ててシートにもたれかかって目を閉じていた。


「嫉妬されるほど想われていると知って、呆れるわけがないだろう」


清水はそれきり、しばらく何も言わなかった。


信号が変わり、静かにアクセルが踏み込まれる。

車が再び走り出す音だけが、密閉された空間に戻ってきた。


「それなのに、なかなか来ない……君は本当に手強いな」


責めるでも、茶化すでもない声色だった。

むしろ、どこか笑みが含まれているようにすら聞こえる。


——手強い。


それは杏華自身にとっても同じだ。

この気持ちは厄介なのだ。


素直にその胸に飛び込みたいと思う一方で、過去の記憶が無意識にブレーキをかける。


進みたいのに、怖い。

信じたいのに、踏み出せない。


ずっとずっと手強いのは、この感情を上手く扱えない、自分自身だ。



°・*:.。.



「……お邪魔します……」


清水の家に来るのは二度目のはずなのに、初めて来た時よりも、ずっと緊張している自分がいる。


この前は緊張する暇もないまま、着替えることになり、リビングに通されたけれど。


今日はそういうワンクッションがないのが、なんとなく落ち着かない。


杏華は靴をやけに丁寧に揃えて置くと、清水の後ろを静かに追うようにリビングへ向かった。


清水が腕時計を外し、キャビネットの上のケースに置くのを何気なく目で追いながら、ソファに座る。


その姿がキッチンへ消えると、棚の中に並んだ本が目に入った。


杏華は吸い寄せられるようにその傍へ行く。


棚の中には、背表紙の色も大きさもまちまちな本が、几帳面に並んでいた。

中国語の文法書、単語帳、会話集。

簡体字が並ぶタイトルばかりで、使い込まれたものもあれば、角の綺麗なままのものもある。


「……これ、全部、中国語の…?」


「……ああ。向こうにいた頃な」


キッチンから少し顔を出し、そう答える。


「そっか…清水さんって、中国語、話せるんですよね」


「まぁ、六年もいたからな」


なんでもないことのように言いながら、清水がキッチンから戻ってきた。


背後でテーブルにカップが置かれる音がした後、清水も杏華の隣へ来る。


その距離がなんとなくずっと近く感じて、杏華は意識を逃すように、棚の中を目で追い続ける。


参考書の背表紙の間に、一冊だけ、質感の違う本が混じっているのに気づいた。


その背には『香港事業概要』と書かれていて、仕事の匂いが濃い一冊だった。


「……これ…」


杏華がガラス越しに指さすと、清水が棚を開き、その薄い冊子を抜き取った。


「……コーポレートブックだ」


そう言って、杏華の方へ差し出される。


表紙には簡素なタイトルと企業ロゴだけが印刷されていた。


ページを捲っていくと、社長の紹介や企業概要が淡々と並んでいる。

現地のオフィスや社員の写真も載っていて、——彼は六年もここにいたのか、とぼんやり思った。


パラパラと捲り続けていると、ふと見覚えのある顔があった気がして、捲りかけたページを戻す。


「……え、これ、清水さん、ですよね?」


そこには『香港事業部 日本本社出向者』という見出しとともに、今より少し若く見える清水の写真が掲載されていた。


「そのページは、あまり見なくていい……」


そう言いながら、清水が冊子を取り上げようとする。

面食らったようなその表情が新鮮で、杏華の中に小さな悪戯心が芽生えた。


「これ、いつのですか? なんだか、すごく若く見える……」


「……確か、四年前のものだな」


杏華が手放す気配がないのを見て諦めたのか、清水は小さく息を吐き、冊子から手を離す。


「よそ行きの顔してますね」


写真の中のしっかりと上げられた口角に、何気なくそう言いながら清水を見上げる。


「…なんだそれ」


呆れ半分にそう言った彼の口先には、写真よりもずっと自然な笑みが宿っていて、杏華の胸がじわりと熱くなった。


その口元から視線を滑らせると、柔らかく弧を描く瞳と交わった。


気付けば互いの距離がひどく近くなっている。

わずかに動くだけで、トン、と腕が当たって、今の距離をいっそう意識させる。


目を逸らせばいいものを、なぜか逸らせない。


甘い予感が満ちて、冊子を握る指先にきゅっと力がこもった。


けれど——


「…あの、私、今日…できなくて…」


言い終えた瞬間、さっきまで逸らせなかった視線の縛りが、ふっと解けた気がした。

杏華は反射的に目を伏せ、視線を落とす。


清水の言葉を待つ間、杏華の耳には自分の鼓動の高鳴りだけが響いた。

沈黙が、じわりと杏華を締め付けたあと——


「……今日はそんなつもりはない」


迷いのない声が降ってきて、杏華はゆっくりと顔を上げた。


「…それより、冷えなかったか?外の時間が長かっただろう」


そう言いながら、清水は一歩距離を取る。

テーブルに置かれていたマグカップを手に取り、「少し冷めたかもな」と呟いた。


「今日は、俺はただ、君と一緒に過ごしたかっただけだ」


その声色にも表情にも、嘘は見えない。


今までは、生理だと言っても「俺は気にしない」と言われたり、それなら口でしてくれ——そんなふうに言ってくる男もいた。

四年付き合った挙句、あっさり“美来ちゃん”に乗り換えた、あの元彼がまさにそれだった。


その嫌な記憶たちは、清水の静かな声に触れた途端、一気に掻き消えるわけでも、忘れられるわけでもないけれど——


ただ、胸の奥へと押し戻されていくような感覚があった。


「……どうした?」


いつまでも同じ場所で立ち尽くしたままの杏華に、清水が尋ねる。


「いえ…てっきり、そういう流れになると思ってたから…」


杏華はようやく足を動かし、清水の隣へと腰を下ろした。


「……そう思わせたなら、これまで二度もああやって君を求めてしまった俺のせいだな」


決して清水の“せい”ではない。

家にあがるという時点で、誰でも普通はそういうことを予期してしまう。


清水がカップを口にするのに合わせて、杏華もマグカップに指を掛け、一口啜る。


温度の残る飲み物が喉を通る間、杏華は何か言わなければ、と考えていた。

それでも言葉は思い浮かばず、ただただ紅茶を押し流す。


コトン、と清水のカップの底がテーブルを弾く音が、沈黙を破った。


「………それが、君が恋愛を避けている理由か?」


どきりと鼓動が脈打つ。


「……身体だけを求められる関係が、続いていた?」


杏華は小さく息を吸い、マグカップを膝の上へ降ろす。

そして、言葉を選ぶように間を置いてから、口を開く。


「……最初はそうじゃなかったはずなんですけど…」


そう。いつも最初は幸せで、順調なはずだった——なのに。


「……結局はそうなってました…」


ここで止めようと思っていたけれど、何かに押し出されるように、続きの言葉が口をついた。


「……私は…素直じゃなくて、可愛げがないって……最後はいつも、私なんかよりも素直で、可愛げのある人をみんな好きになって……最後は身体だけ求められて……そんなことばっかりで……」


自分で言っていて、酷く惨めな気持ちにさせられる。


「清水さんだって、きっと……そのうち同じになるんじゃないかって……考えたくなくても考えてしまうんです……」


言い終えた後、部屋に落ちた沈黙は重く、杏華は視線をあげる勇気はなかった。

ただ、清水からの言葉を待つしかなかった。


「……勝手に俺を、過去の男たちと同じにするな」


その言葉自体は怒りにも聞こえるのに、声は酷く静かで落ち着いていた。


「少なくとも、俺が見た今日の君は、素直で、嫉妬だって口にして……十分すぎるほど可愛い」


杏華の唇がぴくりと動く。けれど言葉は出なかった。


「一生だの、永遠だの、信じろなどと軽々しく口にする気はない」


それは“逃げ”ではなく、むしろもっと重い、清水の気持ちそのものだった。


「だが俺は——君のそばにいたいと思ってる」


その言葉は、決して目を逸らしたまま受け取るべきではない気がして、杏華はそっと顔を上げる。


「それだけは、嘘じゃない」


真っ直ぐ向けられる言葉と、誠実なその瞳に、杏華の中で何かが崩れていく音がした。


杏華は一度、ほんの少しだけ視線を逸らす。

けれどすぐに、もう一度しっかりと清水を見つめ直した。


息を飲み込んで、小さく息を吸ってから——


ゆっくりと、頷いた。

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