Ep11.逃がさない男


それから数日が経ち、野々瀬のインターンシップも早くも折り返しに差し掛かっていた。


清水はここ数日外出続きで、ろくに会話もできていない日が続いている。

そしてその外出には野々瀬も同行していて、杏華の目の前の席は、ふたつとも空いたままになることが多かった。


二人が帰社するのは決まって夕方頃で、そのあとは打ち合わせの振り返りや資料の確認、次の外出準備。

仕事は、いつも二人で完結していた。


声をかける隙も、そこへ割って入る理由もなく、杏華はただ自分の業務を進めるしかなかった。


先週はほんの少しの違和感として片付けていたことも、今週に入ると日を追うごとに靄が色濃くなっていくのを感じていた。


そしてそれが決定的となったのは、ある日の佐々木との会話だった。


「杏華さん、広瀬さん、お邪魔してもいいですか〜?」


いつもの休憩中、珍しく杏華たちのテーブルに佐々木がやってきた。

拓海の隣に腰を下ろすなり、杏華の方へ身を乗り出す。


「私、聞いちゃったんですよ……」


杏華の代わりに拓海が「どした?」と聞くと、佐々木は悪戯っぽく笑いながら声をひそめる。


「野々瀬さんが、清水さんに“清水さんと一緒なら安心しますぅ”なんて言ったら、清水さんも“ふっ”て優しく笑ったりなんかして〜」


一人二役で、可愛らしい声と低い笑い方を使い分けながら、佐々木は続けた。


「もう野々瀬さんなんて清水さんにべったりだし、清水さんも珍しく優しめ?っていうか…意外とあの二人、あるのかな〜なんて…」


佐々木は元々こういう手の話題が好きなタイプだ。

これまでもちょっとした仕事の合間なんかにも、社内の色恋事情についてはよく聞かされてきた。

そのほとんどが杏華にとってはあまり興味のない話だったけれど、今回は違う。


「へ〜ぇ。でも野々瀬さんってインターンの子だろ?清水さんとは結構、歳離れてるんじゃねぇの?」


佐々木は「チッチッチ」というように人差し指を振りながら拓海に顔を近づける。


「広瀬さん、恋愛に年齢は関係ないんですよ!」


いつも以上に興奮気味の佐々木に、拓海も「おお…」と圧倒され気味だ。


「あの清水さんでも、やっぱりああいう愛嬌には弱いんですね〜」


佐々木はしみじみそう言いながら、ようやく昼食に手をつけ始まる。

拓海はもう興味なさげにテーブルの上でスマホゲームを開いている。

たったひとり、杏華の手だけが止まっていた。

佐々木の何気ない言葉に、呼吸が浅くなる。


「……あ、ごめん。クライアントに電話しなきゃいけないの忘れてた」


杏華はそう言うと、まだ少し残っているうどんもそのままに、トレーを持ち席を立った。


「え〜広瀬さんと二人ですか〜?」なんて佐々木の軽口が飛んだけれど、杏華は構わず食堂を去った。



°・*:.。.



地下の食堂から一階まで階段で上がりながら、杏華は胸のざわつきを収めるように、何度も呼吸を繰り返していた。


清水が時たま野々瀬に対して表情を緩めることも、なんとなく距離が近いことも、すべて“仕事上”仕方のないことだと考えていた。

けれど、ああして自分以外の人にはっきりと言葉にされると、それは思い違いでもなく、特別な感情すら彷彿とさせた。


“愛嬌には弱い”——その言葉が強烈に杏華を突き刺し、逃げるようにひとりになった今も、抜け落ちてくれない。


野々瀬を初めて見た時から、じわりと杏華を締め付けていたもの。

なんとなく勝手に線を引いてしまっていた理由。

それは名前が“美来”で、元彼の浮気相手と同じだからというわけじゃない。


そんなものより、もっと深い——


——杏華って、可愛げないよな

——杏華と違って、素直に甘えてくれるし

——杏華も見習えよな


——あの清水さんでも、やっぱりああいう愛嬌には弱いんですね〜


自分よりも素直で真っ直ぐで、彼女のように可愛らしい人間が、いつも——


「あっ、安積さん!」


エレベーターを待っていた杏華の背中にかけられた声に、息が詰まった。

こんな静かな空間で聞こえないふりもできず、杏華は小さく息をついてから振り返った。


そこにはちょうど昼食から戻った野々瀬と、清水が立っていた。


どうしていつも、一番会いたくないタイミングで、こうしてその相手が現れるのか。

こんなことなら、佐々木のひとり劇場を聞いていた方が相当マシだったように思える。


「お疲れ様です!」


「お疲れ様」


花が咲いたように笑いかける野々瀬に、杏華は平然を装って返事をしたけれど、声はどうしても平坦になってしまう。

そして清水のことは視界の端に入れただけで、特に目も合わせず、すぐにエレベーターへ向き直った。


ちょうどドアが開き、そそくさと乗り込むと、杏華はフロアボタンの位置に立つ。

そしてこういう時に限って他に誰も来ないまま、エレベーターは三人だけを乗せて動き出した。


野々瀬は何やら楽しそうに話し続けていて、それに応じる清水の低い相槌だけが、狭い箱の中に響く。


杏華は右腕がめり込みそうなほど、ぐっと壁にもたれかかりながら目を閉じる。


野々瀬が変に気を利かせて、杏華のことも会話の輪に入れてこないことが不幸中の幸いというべきか。


——早く着いてほしい。

思わず足先で床を叩きそうになるのを堪えながら、杏華はただただエレベーターが止まるのを待った。


やがて到着し、ドアが開くよりも早く、杏華は一歩前に出た。


ドアが開くと、振り返ることもなく足を進める。

野々瀬の甲高い声を背中で聞きながら、足早にオフィスへ戻った。


自分の席に着くと、午後のタスクを淡々と確認し始めた。


十秒もしないうちに、背後から足音が近づいてきた。


「安積」


足音はひとり分で、名前を呼んだのは低い声だ。


杏華はすぐに振り返らず、声の主が向かいの席に回ってきても、視線をあげることはなかった。


「来週の企画会議の資料だが——」


「完成しています」


キーボードを叩きながら目を合わせることなく、清水が言い終える前にそう答える。


「……問題はなさそうか」


「ありません」


短く告げ、それ以上の言葉は足さない。

その声はさっきよりも無愛想で、表情もどこか強張っていた。

腰を下ろした清水がこちらを見ている視線をじりじりと受けつつも、今、目を合わせてしまえばぐらつく気がして。

杏華はこの静けさを誤魔化すようにキーボードを叩く力を強めた。


なんとなく清水が何か言い出しそうな気配を感じた、その時


「お待たせしました!」


野々瀬の明るい声が戻ってきた。


相当お喋りなのか、それとも清水との距離が縮まっている証なのか、野々瀬は再び清水に何やら話し始める。

けれど今だけは、清水の何か言いたげな視線から解放される唯一の方法となっていた。


午後は、杏華は必要以上に誰とも視線を合わせず、言葉を交わすこともなく、ただ仕事だけに集中していた。


やっぱりこうして無になって仕事に没頭している方が性に合う。

最近は、考えることが多すぎた。


画面の中の数字や文字は感情を持たない。

それが今はありがたかった。


(…これで、いい)


そう言い聞かせるように作業を進めていた、その時。


「おい」


向かいの席から低い声が落ちた。

名前を呼ばれずとも、真っ直ぐに飛んできた声に杏華は反射的に顔を上げた。


「……さっきCCで送ってくれたメールの添付資料。あれ、東邦社向けじゃない。小泉社の企画書だぞ」


「……え?」


胸の奥がひやりと冷えた。


すぐに送信済みのメールを開き、添付資料を確認する。

そこに表示されたのは、間違いようのない別案件のデータだった。


しかも東邦と小泉は——競合だ。


「先方からはまだリアクションはない。だが、こちらの信頼性に関わるミスだ」


声を荒げているわけでもない。

けれど、その清水の冷静な指摘にフロア全体がぴんと静まる。

杏華は何か言わなければと思いながらも、喉がつっかえたようにうまく動かなかった。

ただ画面の中に開かれた“小泉社企画書”の文字を何度も目でなぞる。

何度見たって、それは変わりようがないのに。


「…あの、すみません…」


静まり返った空気を、静かな声がそっと緩めた。


杏華と清水の視線が、どこかおどおどした表情の野々瀬へ向く。


「…資料が多かったので、今朝、わかりやすいようにファイル名を整理してしまって…その時に、区別がつきにくくなったのかもしれません……」


どんどん小さくなっていくその声に、杏華は一瞬眉を顰めたけれど——

自分が確認していれば間違わなかったことだ。

流石に野々瀬に責任転嫁するつもりはない。


「いや、それは——」


「君のせいじゃない」


それは違う、と言いかけた杏華を、清水の声が刺すように遮った。


「こんな初歩的なミス、安積がきちんと確認していれば防げたはずだ」


それはもっともで、自分が一番分かっていて、まさに今、自分からそれを口にしようとしていたのに。

先にはっきりと言葉にして突きつけられると、杏華はこれ以上何も言えない。


「……すみません。先方には、私から連絡します」


杏華は手元に視線を落としたまま、ただそれだけ告げた。


「ああ。頼む。俺はこれから出るから、何かあれば連絡してくれ」


そう言うと、清水は淡々とデスク周りを片し始める。

野々瀬も同行するのか、清水に合わせて腰を浮かせたが、こちらに何か言いたげな視線が向いていることに気づいた。

それでも杏華はパソコンから目を離さない。


「…あの、安積さん…」


「清水さんの言う通り、野々瀬さんのせいじゃないよ。私が確認しなかったからいけないの。だから大丈夫」


こういう時、きっと同じフロアの誰もがそっと聞き耳を立てているだろう。

つまり、今の杏華の声が妙に刺々しいことは、全員がやんわりと気づいているはずだ。


それは、アシスタントチーフがこんな初歩的で致命的なミスをしてしまった、ということへの自責や羞恥心のせいだと誰も疑わないだろう。

でも違う。


子供じみているのは分かっている。


これは完全に——嫉妬だ。


今回の件は、野々瀬のせいだとは杏華も一切思っていない。それは確かだ。

けれど——杏華がそうフォローするよりも先に、清水が彼女を庇うように遮った。


別に、清水に野々瀬を叱ってほしかったわけじゃない。

そういうわけじゃなくて。

ただ——胸の中で渦巻いている黒い感情を、杏華は知っている。


そう。結局は素直で可愛いが勝つ。愛嬌が勝つ。


杏華のように、ひとりでも強く見えて、弱さを見せない女は負ける。

清水の気持ちが野々瀬に傾いているのかはわからない。

それでも、杏華と野々瀬を見比べた時に、大抵の男は野々瀬のような子を好きになってしまうのだ。

それは、過去の経験が実証済みだ。


人の気持ちなんて移ろいやすい。

四年間一緒に過ごしても、最後はああなったのだから。


そもそも清水は、いつから杏華のことをそんなふうに見ていたのだろう。

彼から想いを告げられたのは、出会ってたった一ヶ月少し経った頃だ。


こんな短い期間に始まった恋心なんて——身体から始まった関係なんて、すぐに破綻するに決まってる。

“単純接触効果”というものなら、つきっきりのこの一週間程度で、野々瀬に気移りすることも簡単だ。


そもそもこんなふうに卑屈になっている杏華よりも、ああやって気兼ねなく話しかけてずっと笑顔を見せる野々瀬の方が、可愛いのだ。


今回も、同じだ。


清水が野々瀬に優しいのも、ああやって庇うのも。


——心のどこかで、今回は違うかもしれないなんて、期待してしまった自分がどうしようもなく滑稽だった。



°・*:.。.



「——それでは失礼します」


パソコンの画面の向こうでそう告げたクライアントに、杏華は深々と頭を下げた。

ブラックアウトしたのを確認すると、画面を閉じて胸を撫で下ろす。

誤って別企業の企画書を送ってしまった件については、正しい資料を添付したうえで、オンライン会議で改めて説明を行った。

先方は寛容で、全く問題ないと言ってくれた。

東邦社の担当は少し取っ付きにくい部分があったので心配していたけれど、ことなきを得た。

清水も担当者の性質を知っていて、あの態度になったのも分かっているけれど。


(……いいや。もう、考えるのはやめよう)


時計を見ると既に定時を三十分も過ぎている。

思ったより時間がかかってしまったと思いながら、杏華は片付けを進めた。

とりあえず一番解決すべきことは済んだけれど、今日はまだするべき仕事が溜まっている。

杏華は会議室を出ると、人気のない静まり返った廊下を戻った。


オフィスの入り口に立ったところで、杏華は一瞬、足を止めた。


清水の姿があったからだ。


今日も外出戻りの残業というわけだ。


この前はどこか甘い空気の漂った時間だったけれど、今日はそういうわけにもいかないだろう。


やっぱり今日は残業を切り上げて帰ろうか——とはいっても、デスクには必ず立ち寄らなければいけないので、杏華は意を決してオフィスへ入った。


清水の目がこちらを捉えた瞬間、


「先方には連絡を入れて、オンラインで資料説明までしました。問題ないとのことでした。この件は私の確認不足でした。以後気をつけます」


お疲れ様です、の言葉よりも先に一息にそう言葉を連ねた。


そして席に着くなり資料を開き、クライアントからの意見のメモを見返す。


「…安積」


「はい」


杏華は資料の文字に目を滑らせたまま返事だけした。

しばし沈黙が落ちた後


「おい」


ぶっきらぼうな声に、杏華は手を止め、わずかに顔を上げたが、目はパソコンの縁に落としたまま。


「なんですか」


「今日、ずっと俺を避けているだろう」


「…避けてません」


「……目を合わせるのも嫌なほど、何を怒ってる?」


——今日のミスについて自分を責めているだけだ、と誤魔化したいけれど。


杏華の中には、今日“ずっと”避けている、という言葉が引っかかっていた。

確かに、休憩終わりのエレベーターでも、その後のオフィスでのやり取りでも、わかりやすく不機嫌な態度を取ってしまっていた。


もう少しマシな反応をすればよかった、なんて今になって後悔したけれど。

それでも、あの時も今も、杏華には余裕がなかった。


「怒ってません」


それだけ告げると、杏華は感情が溢れる前に席を立った。


何も考えずにオフィスを出たのはいいものの、これならいっそ身支度を整えて帰ればよかったかもしれない。

けれど、その間にも清水の追求が続くことを思えば、やっぱり今はとにかく席を立ったのが正解だった気がした。


杏華は少し頭を冷やしたくて、自販機ブースへ向かう。


半分照明が落とされた薄暗い廊下の奥に、蛍光灯の白い光が浮かんでいる。


そしてその奥に、見覚えのある背中があった。


「…拓海」


「おっ、杏華じゃん。残業?」


「うん…」


「何飲む?奢ってやるよ」


いつもの軽い調子が、今の杏華にはありがたかった。

杏華は緑茶を買ってもらい、拓海の隣に腰を下ろす。


「何時まで残んの?」


「うーん…正直、もう帰ろうかなって思ってる」


ペットボトルをペコペコと押しながらそう答える。

今すぐ戻れば、まだ清水がいる可能性が高い。それが得策じゃないことは分かっている。

かといって、ここで時間を潰すのも、仕事もできずに油を売っているだけだ。


「はぁ…」


自分でもよく分からないため息が、自然と零れた。


「…なんか、疲れてるっていうか、元気なくね?休憩中もそうだったけど」


やっぱり拓海は鋭い。

今は明らかに浮かない顔をしている自覚があるけれど、昼のあの一瞬まで見抜かれていたとは。


うまく言い訳して席を立ったつもりだったのに、と心の中で小さく舌打ちする。


「ちょっと仕事でミスしちゃって。でも、もう大丈夫」


そう言って、へらりと笑ってみせる。

けれど拓海は、じっと目を細めて杏華を見つめたままだ。

杏華はその視線から逃げるように目を逸らす。

すると隣から、やれやれと言いたげなため息が落ちてきた。


「まーた強がり発動してんなぁ」


そう言いながら顔を覗き込んでくる。

その顔があまりにも優しくて、杏華は思わず唇をきゅっと噛んだ。


「……そんな顔すんなよ。もう俺、抱きしめてやれないんだからさ」


普通ならときめいてしまいそうな言葉を、さらりと言って退ける。

拓海のくせに、そんな言い回し、どこで覚えたのか。


それでも——

“もう抱きしめてやれない”という言葉が、確かな一線であることへの安堵と、同時にどこか寂しさを感じてしまう自分がいて。


(…都合いいな。私。最低だ)


「どうしたら元気になってくれる?」


それは、杏華が一番聞きたいくらいだった。

どうすればいいのか分からない——それが本音だ。


拓海の茶色い瞳を、吸い込まれるように見つめていると。


「……ここにいたのか」


静けさを断ち切る低い声に、思わず二人して肩が跳ねた。

拓海もぱっと距離を取るように姿勢を正す。


暗がりと、自販機ブースの蛍光灯。その境目に、清水が立っていた。

腕を組み、仁王立ちで杏華だけを見据えている。


その威圧感に息を呑みながら、——まさか探しに来たのか、と一瞬思う。

拓海も言葉を失ったまま、その姿を見つめていた。


「悪いが、君は行ってくれるか」


清水はゆっくりと視線を拓海へ滑らせ、抑揚のない声でそう告げる。

命令ではない。けれど、逆らいようのない圧があった。


拓海は腰を上げるが、すぐには立ち去らない。

そして振り返り、座ったままの杏華に視線を落とす。

杏華も目を合わせるけれど、拓海は何も言わない。

ただ数秒、何かを確かめるように見つめるだけだった。


そして。


「清水さんが杏華のこと、こんな顔にさせたんですか」


拓海の、いつになく強い声が清水をまっすぐ突き刺す。


清水は応じない。

けれど、空気がひりつくのははっきり分かった。

無言の圧同士が、確かに対峙している。


「ここまで探しに来て、俺のことも追い払うなら——ちゃんと責任持ってください」


それだけ言い残し、拓海は歩き出す。


けれど、清水とすれ違いざま、


「杏華のこと、大事なんで」


はっきり、そう告げた。


杏華の胸がぎゅっと締め付けられる。

けれど清水の前で、遠ざかっていく拓海の背中を見ることはできず、そっと手元のペットボトルへ視線を落とした。


そこへ大きな影が覆い被さってきた。

反射的に手に力がこもる。

ドクドクと、鼓動が大きくなっていく。

何も言わない沈黙が、逆に鼓膜を震わせる。


「顔、上げろ」


その声には逆らえず、杏華は清水の爪先から膝、腰、とゆっくりと視線をなぞり上げていく。

一度、硬く結ばれた口元を捉えたけれど、その視線は力なく胸元へ落ちた。


「あんなに近づいて、何を話していた?」


「清水さんに、関係ありません」


どうしてそんな言葉が出たのか、自分でも分からない。

試したいわけじゃない。

けれど、挑発するような言葉が口をついていた。


「広瀬とは向き合って、俺からは逃げるのか」


そうだ。これは“逃げ”だ。

逃げるなと言われたことは、ちゃんと胸に残っている。

それでも——


「逃げるなと言っただろう」


——やっぱり、だめだ。


「……やっぱり、私には無理です」


こんなしょうもないことで不貞腐れて、嫉妬して。

こんなにも感情を揺さぶられるから、恋愛は嫌なのだ。


「…理由を聞いても、今は答えないだろうな」


清水はそう冷静に告げ、少しだけ間を置いて続ける。


「無理の一言で諦める気もないし、それだけは受け取れない」


断固とした声だった。


「俺たちはもう少し一緒に過ごす時間が必要だ」


胸元を捉え続けていた視線を、ゆっくりと持ち上げる。


「…明日、空いているか」


その言葉が投げかけられた時には、自然と視線が交わっていた。


「君の一日を、俺にくれ」

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