Ep10.静寂の男


「おはようございまーす…」


月曜日の朝。

静かに挨拶をしながらオフィスに入ると、ほとんどの席が埋まっていた。


清水もすでにデスクについていて、コーヒーを片手に、いつも通りパソコンに向かっている。

その姿を見ると、気まずさとも、ときめきとも違う、なんとも言えない感情が胸をくすぐった。


最初はその表情を真っ直ぐに見ていた杏華だったが、椅子を引く頃には、視線はデスクの上のファイルへと落ちていた。


「おはようございます」


そう口にしながら、目を合わせなければ“逃げている”と思われる気がして、意を決して視線を上げる。


「おはよう」


返ってきた声は、いつもと何ひとつ変わらないトーンで。

一昨日の朝の甘さの欠片もない、完全に仕事の顔をした清水がそこにいた。


同じ島の社員からも次々に挨拶をされ、杏華はすでに一仕事終えたような気分で席につく。


「おはよーさん」


入口から軽快な声が飛び、自然と皆の視線がそちらへ向いた。


そこに立っていたのは鳴海と——

その隣には、見覚えのない若い女性がいた。


前髪をきっちり留め、髪を綺麗にひとつに束ねたリクルートスーツ姿。

いかにも“新社会人予備軍”といった、初々しい空気を纏っている。


「今日から二週間、うちにインターン生を迎える」


鳴海の言葉に促されるように、女性が一歩前に出た。

少し緊張を滲ませながらも、はっきりとした声で告げる。


「おはようございます。今日からお世話になります、野々瀬美来〈ののせ・みく〉と申します。どうぞよろしくお願いいたします」


その名前を聞いた瞬間、杏華の胸の奥で、古い傷がじくりと疼いた。


——美来。

元彼の浮気相手と、同じ名前。


写真を見せられたことがあるから、名前が同じだけで、もちろん別人だと分かっている。

それでも——


(どうして、よりにもよって同じ名前なの……)


そんな考えが一瞬よぎり、杏華は小さく首を振って振り払った。


「清水がチーフとして彼女に付くけど、みんなも適宜サポートよろしくな」


鳴海の軽い言葉に、清水は小さく会釈を返す。


野々瀬は背筋をぴんと伸ばしたまま、手を前で揃え、すっとこちらへ歩いてきた。

そして清水の隣にある、使われていなかったデスクのそばに立つと再度、


「よろしくお願いします」


同じ島の社員を一人ずつ見渡しながら、丁寧に頭を下げる。

杏華も軽く口角を上げて、静かに頷いた。


——可愛い。

誰が見ても、きっとそう思う。


インターン生ということは、二十二歳前後だろう。

リクルートスーツに、ぴしっと留められた前髪が、そのあどけなさと若々しさを引き立てている。


くるんと上がった睫毛、丸い二重の瞳。

色白の肌に、ふんわりと乗せられたピンクのチーク。

斜め向かいの席からでも、その可愛らしさは否応なく目に入ってきた。


「……安積さん、これ、確認お願いしていいですか?」


「……あ、うん」


無意識に野々瀬を見てしまっていたところに社員から声をかけられ、杏華はぱっと意識を戻す。


ざわついた胸を落ち着かせるように書類を受け取り、目を通して承認印を押す。

数枚ほど確認して返却すると、杏華も自分の仕事に取り掛かった。


その頃には、向かいのデスクで清水が野々瀬への説明を始めていた。

出退勤の管理、社内システム——淡々とした会話が断片的に耳へ届く。


そっと表情を盗み見れば、清水はただ真っ直ぐに、野々瀬のノートパソコンを覗き込んでいた。

いつも通り落ち着いていて、説明にも無駄がない。

インターン相手だからといって、特別優しくなる様子もない。


野々瀬は一生懸命メモを取りながら、熱心に話を聞いている。


杏華は、その初々しくも、どこか眩しく映る姿から目を逸らすように、モニターへと視線を戻した。


「……困ったことがあったら、俺か——安積に聞いてもいい」


不意に自分の名前が耳に入り、ちらりと目だけで清水を見る。


「彼女はアシスタントチーフでもあるから」


こちらを見ながらそう言われ、その言葉に押されるように、杏華は頷いて野々瀬へ声をかけた。


「……安積です。何かあれば、いつでも声をかけてください」


「ありがとうございます!」


ありきたりな言葉にも、野々瀬はぱっと明るい表情を見せる。

その素直さにつられるように、杏華の口元も自然と緩んだ。


清水からの告白を受けて迎えた初めての朝は、彼女を緩衝材にするように、静かに、穏やかに過ぎていった。



°・*:.。.



「——そろそろ十二時だ。昼休憩にしよう」


仕事に没頭していた杏華の手を止めたのは、野々瀬に向けられた、清水のそんな声だった。


(……もうそんな時間か)


杏華はパソコンの縁に貼っている、タスクを書いた付箋を外しながら、首を軽く左右に捻る。

じんわりと血が巡っていく心地よさを感じながら、ふうっと息を吐いた。


「俺は普段は外で済ませる。今日は野々瀬も一緒に行くか?」


「いいんですか?」


「ああ。和食でいいか?」


「もちろんです!」


そんなやり取りのあと、二人はすぐにオフィスを出ていった。


杏華は、しばらく呆然としたままデスクの上を片付ける。


清水が昼休憩を一緒に過ごすことを提案したのは、少し——いや、かなり意外だった。


もちろん、指導担当なのだから不思議ではない。

それでも——彼なら「また一時間後に」とだけ言って席を立つイメージのほうが強い。


まして、今日出会ったばかりの、自分より十以上も歳の離れた異性とテーブルを挟んで向き合う姿なんて、微塵も想像がつかない。


けれど。


頭の中で思い描いた清水は、どこか柔らかい表情を野々瀬に向けていて——

そんな勝手な想像を膨らませては、杏華は自分で自分の胸を、ちくりと刺した。



°・*:.。.



ひとりで休憩を過ごした杏華は、少しだけ早めにオフィスに戻っていた。

この前のように佐々木を誘うことも考えたけれど、今日は何となくひとりで過ごすことにした。


とはいっても、毎日外食では出費がかさむ。

社食のうどんのほうが倍ほど安く済むのだけれど、それほど広い食堂ではないので、必ず拓海と顔を合わせることになるだろう。


「ちゃんと話そう」と言われてはいるけれど、昼休憩中に、しかもざわめく食堂の中で話して解決するような問題でもない。

そう思うと、食堂へ行くのはやはり躊躇われた。


——けれどそれは言い訳で、自分が逃げていることは分かっている。


——逃げようとするな。


清水に言われた言葉を思い出す。


結局杏華は、恋愛や清水からだけではなく、拓海からも逃げている。

どれも解決策は、思っているよりもずっとシンプルだ。

それは分かっているのに、結局どれにも踏み出せずにいる。


「戻りました!」


椅子が引かれる音と一緒に、明るい声が耳に入った。

手元の書類から顔を上げると、先ほどよりも肩の力が抜けた様子の野々瀬が立っていた。


「おかえりなさい」


杏華がそう言えば、野々瀬は人懐っこい笑顔を返してくる。


この笑顔と明るい性格なら、あの清水と食事をするのも苦ではないだろう。

杏華は、心の中でそう納得した。


少し遅れて清水も戻ってきて、一瞬だけ目が合った。


けれど、


「午後は何からすればいいですか?」


互いに声を掛ける間もなく、野々瀬からそんな声がかかり、清水はすぐに彼女の方へ視線を向けた。


椅子に腰を下ろすと、そのまま野々瀬の方へ椅子ごと身を寄せ、二人で画面を覗き込む。

その距離感が、今朝よりも自然に近くなっている気がしたけれど、それ以上は考えないことにした。


「じゃあ、この資料にページ振りを頼む。終わったら教えてくれ」


「はい! 分かりました!」


しばらくカタカタとキーボードの音が響く。

杏華も自分の抱えている仕事をこなしていくけれど——


「清水さん、終わりました!」


「早いな。じゃあ次は——」


そこからも、与えられた仕事を次々と終わらせていく野々瀬と、そのたびに距離を近付ける清水の姿が、視界の端に入ってきては杏華の集中を削いだ。


「次はExcelのほうからデータを移行して、新しくグラフを作れるか?」


「やってみます!」


弾んだ声のあとも、キーボードの音は途切れることなく続いた。


少し経って、午後の疲れの滲むオフィスにはあまりにもフレッシュな「できました!」という声が響いた。


清水がしばし無言で画面を目で追っているのが、モニター越しに目に入る。


「問題ない。上出来だ」


清水の淡々としつつも確かな褒め言葉に、杏華は思わず視線を滑らせた。


「良かったです!」と無邪気に笑う野々瀬と——そんな彼女の笑顔に清水の目元が僅かに和らぐのが見えた。


——ただそれだけの、“仕事上”のやり取り。


けれどそのすべては、杏華の仕事に取り掛かる手を、いちいち止めるには十分だった。


(……なにこれ)


杏華は、自分の中に顔を背けたくなるような、醜い感情が渦巻いていることに気付いていた。

けれど今の杏華には、そんな資格がないことも分かっている。


彼がどんな優しい表情や言葉を向けようと、

どれだけ彼女と距離が近かろうと——


——杏華がそれをどうこう思う資格はない。


自分で自分の感情に蓋をし、曖昧なまま彼に線を引いているのは、紛れもなく杏華自身なのだから。


「おい、安積」


「……っ、はい……」


一向に仕事が進まず、キーボードの上で止まった手を見つめていた杏華は、突然名前を呼ばれて上擦った声で返事をした。


「今週の会議資料、進捗は?」


先ほど野々瀬と話していた時とは違う、

そして何より——おとといと似ても似つかない温度の清水の瞳が、こちらを向いていた。


「……はい。あとはホッチキスで留めるだけです」


杏華の返事に、清水は「当日までに頼む」とだけ言うと、すぐにパソコンへ向き直った。


ちくりと胸が音を立てそうになるのを沈めていると、「あの……」と野々瀬が遠慮がちにこちらを見ていた。


杏華が眉を上げて言葉を促すと、


「ホッチキス留めでしたら、よければこの後、私がしましょうか?」


もちろん二つ返事でお願いできることではあるけれど、念のため清水へ確認するように視線を流す。


「ああ。それなら頼む。資料は安積からもらってくれ」


「わかりました!」


杏華は何気なく資料を野々瀬へ手渡したけれど、目を合わせることもできず、お願いの一言もかけられなかった。


誰も、何も悪くない。

分かっているのに、どうしてこんなにも意識してしまうのか。


ただひとり、悪いのだとしたら——

こんなところでぐらついている、自分だけ。


——本当に、面倒な感情だ。



°・*:.。.



翌朝。

杏華が出勤した時には、すでに清水と野々瀬は並んで業務に入っていた。


そして杏華が挨拶をするより早く、清水がこちらを一瞥し、


「安積、今日だが、俺は一日不在になる。野々瀬のことは任せる。これが今日、彼女にしてほしい内容だ」


相当急いでいるのだろう。

杏華にカバンを下ろす間も与えず、清水は一息にそう言うと付箋を手渡してきた。

そこには達筆な文字で、仕事内容が箇条書きされている。


付箋から視線を上げた時には、清水はもう立ち上がり、ジャケットに袖を通していた。


「頼んだぞ」


「……はい」


返事が届いたかどうかも分からないまま、清水はそのままオフィスを後にする。

姿が見えなくなると同時に朝礼の合図がかかり、杏華はそこでようやくカバンを下ろした。


鳴海の声を聞き流しながら、ふと向かいの席に目が向き、

気付けば、無意識に肩の力が抜けていた。


昨日の続きみたいな気持ちにならなくていい。そんな錯覚が、一瞬だけ胸をかすめた。


「安積さん、今日はよろしくお願いします!」


朝礼が終わるなり、野々瀬が杏華のデスクの傍まで回って声を掛けてきた。


杏華は返事をする前に、一度だけ付箋へ視線を落とす。

そこに並んだ清水の文字を一瞬なぞってから、


「じゃあ、清水さんの指示通りに進めていくね」


感情を押し込めるように、穏やかな声でそう告げた。

そして与えられたリスト通りに、適宜説明を入れながら仕事を割り振っていく。


その間、心の中では罪悪感ばかりが募っていった。


杏華に向けられる笑顔も、その溌剌さも、清水へ向けられていたものと変わらない。

それどころか、同性で歳も近い分、一層愛嬌があるようにも見える。


昨日、彼女に向けてしまった感情が、どれほど身勝手なものだったかを思い知らされた。


十二時のお昼休憩に入る頃には、杏華の中で張っていたものがほどけていた。


野々瀬の変わらない明るさに、気を張り続ける理由が見当たらなくなっていたのかもしれない。


「お昼、行こっか」


気付けば、そんな言葉が自然と口をついて出ていた。


野々瀬を連れて行くのに、杏華が選んだのは洋食屋だった。

昨日は和食と言っていたはずだし、少しだけオフィスから離れているこの店は、味の割にランチタイムでも混雑しない。杏華にとっては、いわゆる穴場だ。


席に着き、何気なくスマホを開いた瞬間、画面に「拓海」の文字が浮かんでいるのが目に入った。

一瞬、見間違いかと思って、もう一度見る。


『今出張中なんだけど、明日戻るから、仕事終わり話したい』


短い一文を読み終えたところで、


「彼氏さんですかっ?」


向かいから、弾んだ声が飛んできた。


「……ううん、違うよ」


野々瀬がメニュー表を開いたまま、目を輝かせてこちらを見ているのに気づき、杏華はスマホを伏せて即答した。


彼氏からの連絡を見て、今みたいな顔をするはずがない。

そう思いながらも、野々瀬の質問が、この場を和ませるためのものだと察して、杏華もメニューに視線を落とす。


「安積さんは、彼氏いないんですか?」


「うん、いないよ」


「えー、意外です! そういえば、清水さんも彼女いないなんて、びっくりしました。あんなにかっこいいのに」


Aランチ、Bランチと順に滑らせていた視線が、一点で止まる。


「……え、もうそんな話したの?」


ちらりと顔を上げると、野々瀬は「はい~」と、悪びれもなく笑った。


杏華ですら、清水の恋人の有無については、酔った勢いで聞いたのが最初だった。

それを、初日で。しかも、あの寡黙な清水に。


「野々瀬さんって、ほんとフレンドリーだね」


そう言うと、野々瀬は「そうですかねぇ?」と首を傾げながら、どこか照れたように笑う。その表情がすでに親しみやすいのだ。


「……他には、どんな話したの? 清水さんと」


自分でも意識しないうちに、そんな質問が口をついて出ていた。


「うーん……何話したっけ。でも、会社のこととか、いろいろ教えてくれましたし。優しかったです」


杏華は「へぇ」とだけ返し、ちょうどやってきた店員に注文を伝える。

店員が去ったあと、ふっと息を吐いて、なんとなく話題を切り替えた。


「ところで、野々瀬さんはどうしてこの業界に?」


そう尋ねた途端、急に空気を堅苦しくしてしまうかと少し後悔したけれど、野々瀬はそんな投げかけに"待ってました"と言わんばかりに、飲んでいたお冷をテーブルに置くとぱっと目を輝かせた。


「大学でマーケティングの授業を取った時に、広告って"売るため"だけのものじゃないって知って…」


野々瀬は真っ直ぐに杏華の目を見て続ける。


「選択肢が多すぎる時代だからこそ、"これでいいんだ"って背中を押す役割があると思ったんです」


それは、杏華が軽い相槌で流していいものではないと直感するほどの熱量で。


「その人の人生を直接変える訳じゃないけど、一瞬でも前向きにさせられるなら…すごい仕事だなって思ったんです」


杏華は少しの間、言葉を探すこともできずにいた。

そんな杏華を前に、野々瀬はテーブルの上でぎゅっと握っていた指先を解くと「あっ」と呟く。


「…なんか、熱く語っちゃいました…すみません…」


「……ううん。すごいしっかりした理由だったから、びっくりしちゃって…」


杏華は無意識に背筋を正していたことに気づき、少しだけ肩の力を抜いた。


「ごめん、なんか面接みたいになっちゃったね」


「とんでもないです!そうやって聞いてもらえて嬉しいです!」


その無邪気な真っ直ぐさがやけに響いて、杏華は言葉を探すのをやめ、ただ笑みを零した。



°・*:.。.



それから、野々瀬への指導を傍らに自分のタスクをこなす午後はすぐに過ぎていき、あっという間に終業時刻を迎えた。


今日は基本的に残業の許されない曜日ではあるけど、野々瀬のこともあってやり残した仕事が多く残っている。

鳴海が渋い顔をするのをなんとか押し切り、少しだけ残業することにした。


杏華以外誰もいなくなると、そういえば——とカバンからスマホを取りだした。


拓海からのメッセージを読んだきり、返事ができていなかったのだ。


もう一度、その淡白な文に目を通す。

何度か打っては消してを繰り返した末、『出張お疲れ様。明日、分かった。』とだけ返事を送った。


「ふぅ…」


ぼんやりと、これまでの拓海とのメッセージのやり取りを見返す。


「今日飲も!」

「まじ企画通らねぇ」

「来週詰んでるわ」


そんな何気ない、気取らなくていいやり取りばかりだった。

——この時に戻りたい。そう思ってしまう自分は、どこまでもずるい。


多分、明日拓海から聞くことになる言葉は、今までみたいに笑って流せるものじゃない。

あの日繋がれた指先の熱と、「俺を見ろ」と言った時の、どこか追い詰められたような表情が浮かび上がる。


彼の気持ちはわかっているのに、杏華の中に真っ先に浮かぶのは、その気持ちに応えることでも受け止める覚悟でもなくて。


——ただ。

何も考えずにいられた頃に戻りたい。

というずるい願いだけだった。


スマホ画面を閉じ、デスクに伏せたまま目を閉じる。


静まり返ったフロアに、時計の針の音だけがやけに大きく響いている。


そこに——カツ、と床を踏む音が重なった。

入口の方へ振り返った杏華は、そこに立つ姿を見てすっと息を吸った。


「……まだ残ってるだろうと思ってな」


そこにいたのは、少し疲れを滲ませた清水だった。

こちらへ歩み寄りながら、彼はネクタイに指をかける。


「俺も、今日は一日出てたせいで仕事が溜まってる」


杏華は「お疲れ様です」の一言も出てこないまま、清水がデスクに着くまで、ただその動きを目で追っていた。


「会社だと、こういうタイミングでしかゆっくり話せないな」


そう言った清水の肩は、どこか力が抜けていて。

昨日も今朝も、彼の気持ちは全部嘘だったんじゃないかと思うくらいなのに、ふたりきりになると、あの日の熱を思い出させてくる。


こうして向かい合っていると、今日一日胸に溜まっていたざわつきが、少しずつ薄れていく気がして。

——そんな自分が、あまりにも単純で、杏華は内心うんざりした。


「……どうした?大丈夫か」


黙り込んだままの杏華に、清水は首を傾ける。


「……あ、はい。大丈夫です」


慌てて返した声は、自分でも分かるほどぎこちなかった。

清水は小さく頷きながら、緩めていたネクタイを完全に外す。


その何気ない仕草に、思わず視線が引き寄せられる。


「……そんなふうに見つめるな。触れたくなるだろう」


「み、見つめてません……会社でそんなこと言わないでください」


あまりにも涼しい顔で言われるから、本気なのか冗談なのか分からない。

それでも、杏華の心拍を乱すには十分だった。


「……会社じゃなきゃいいのか?」


「……そういうことじゃありません」


堪らず視線を逸らすと、短く息を含んだような笑い声が落ちる。

からかわれていると分かっているのに、これ以上言い返す余裕はなかった。


清水が椅子に腰をかけると、ふと、たった今までのむず痒い空気が緩む。


「……野々瀬は、今日はどうだった?」


デスクに溜まった書類を束ねながらそう尋ねる表情に、杏華の気持ちも切り替わった。


「全く問題なく。清水さんの指示分は全て終わらせました」


「そうか……野々瀬からは、仕事へのやる気が十分に感じられる」


杏華が同意するように小さく頷いてから、言葉を継ぐ。


「……この業界を選んだ理由も、すごくしっかりしてて……」


清水は返事をせず、視線だけで続きを促した。


「華やかさだけじゃなくて、その裏にある地味な作業とか、ちゃんと“中身”を見てる気がしました」


今日、野々瀬の熱に圧倒された時は何も返せなかったけれど。

彼女の言葉を受けた時の、杏華の本音だった。


清水はその言葉を咀嚼するように少し沈黙したあと、ふっと表情を緩めて。


「そういうところ——君に似ているのかもな」


視線を上げないまま、淡々と続ける。


「……悪くない」


——悪くない。


その言葉だけが妙に浮かび上がり、小さな棘のようにちくりと胸を刺した。

それは紛れもなく、仕事上の評価だと分かっている。

今日一日野々瀬の仕事ぶりをそばで見て、杏華だって少なからず同じように思ったはずだった。


けれどどうしてだろう。


(……あっさり褒めるんだ…)


そんな気持ちが零れた時、胸の奥で、曖昧だったざらつきがはっきりと形を持った。


まただ——


この感覚を知っている。


そう思った瞬間、胸の奥がひやりと冷えた。



°・*:.。.



翌日。

杏華はどこか落ち着かないような気持ちで一日を終えた。


今日は拓海と話す日だ。


「お先に失礼します」


珍しく十八時きっちりにデスクを立った杏華に、野々瀬を含めてみな口々に「お疲れ様です」と声を掛けてきたが、向かいの男だけは違った。


目が合った時、その視線が、何か言いたげに揺れたのを杏華は感じた。


それでも、カバンとコートを手に取り、杏華はオフィスを後にした。


エントランスに行くと、既に拓海がいた。

こちらに背を向けていて、どんな表情で、どう声を掛ければいいのか、足を止めそうになったけれど。


迷ったのはほんの一瞬だった。


「拓海」


そう呼ぶ名前さえ妙に馴染んで、安心感すら沸いてくる。


「ああ、お疲れ。ごめんな、急に」


振り返った拓海の疲れているようにも映る表情に、杏華は何も言わずに首を横に振った。


備品室の前で拓海とは最後に会ったきり。

それでもまだ一週間も経っていないのに、すごく久しぶりに思える彼は、目の前に立っているのに少しだけ遠く感じた。


「…あ、これ。出張のお土産。先に渡しとくわ」


「え、いいのに……しかもこれ、好きなやつ」


小さな紙袋を手渡され、中の包装紙を見ただけで、それが杏華の好きなお菓子だと分かった。


以前杏華が出張に行った時に拓海へ買ってきたものだ。

自分でも食べてみると、その美味しさにすっかりハマってしまって、取り寄せてしまったほどには好きなもので。


「……ありがとう」


杏華の言葉に拓海は「おう」と口元を緩めた。そして


「ちょっと歩こう」


言われるままに会社を出た。



°・*:.。.



いつもより少し距離のある間隔で、ふたりは無言のまま歩いた。


拓海が吸い込まれるように入っていったのは、小さな公園だった。


拓海がすぐそばにあったベンチに腰掛けると、杏華も隣に座る。


六月も間近に迫り、どこかじめっとした空気と濡れた草木の匂いを纏っている。


「…寒くない?」


「うん、大丈夫」


「…じゃ、ここで」


拓海はそう言うと、少しだけ言葉を選ぶように沈黙した。


その沈黙は杏華にとって気まずいものではなかったけれど、何処を見れば良いのか分からず、ただ、拓海の綺麗に磨かれた革靴を眺めていた。


そして


「…あのさ」


そう切り出され、杏華は拓海へ視線を合わせる。


「……まずはこの前のこと。あんなふうに無理やりして…本当にごめん」


「無理やりなんて……違うの。あの日は私が……」


私が——そう言いかけて、続きの言葉に迷った。


決して無理やりされたなんて思っていない。

ただあの日は——頭の中に別の人を思い浮かべてしまっていた。

そんな自分が悪かった。


けれど、それをありのままに口にするのは違う。


「……私が…悪いの…私が、なんだか変だったから…」


曖昧にそう濁せば、沈黙が落ちた。


杏華はベンチの木目をなぞるように視線を落とす。

わずか数センチ先に置かれた拓海の手が、ぎゅっと拳を作る。


「俺さ。これまで杏華のこと、セフレと思って抱いたことなんてない」


真剣な声に視線を上げれば、綺麗な二重の瞳が凛と揺れていた。


「……結局はそういう関係なのには違いないけど。でも俺は……いつも…ちゃんと、お前に気持ちがあった」


拓海の緊張と僅かな強ばりにつられるように、杏華は重ねていた手を握り合わせた。


「ずっと、好きだった。いや、今も好きだ」


あまりにも真っ直ぐなその言葉と眼差しに、杏華の鼓動が大きく跳ねる。


「……俺は、杏華が強がりで、甘えベタで、負けず嫌いなところも知ってる」


拓海はゆっくりと言葉を選びながら続ける。


「お前がそのせいでこれまで嫌な思いしたのなら、俺は…どんな杏華でも受け止めたいと思ってる」


紡がれるその言葉のひとつひとつが、杏華の弱い部分を優しく撫でてくれるようだった。


「……でも、杏華の気持ちが俺にないのは分かってる。それでも……伝えたかったんだ」


胸がじんわりと熱くなって、口元が震えてしまう。


「………ありがとう。そんな風に想ってくれて」


けれど、杏華はこの後自分が続けようとしている言葉があまりに身勝手な自覚があって、きゅっと唇を噛み締めた。


「……私、ほんと自分勝手だ…拓海の気持ちには応えられないのに…これからも、これまでみたいに笑って話せる関係でいたいって、思っちゃうの……」


「……そんなの……俺もそうに決まってんじゃん…」


言い終えた途端、後悔や恐れが襲ってくるより早く、拓海の掠れた声が降ってきた。


「このまま話さなくなるのは……嫌だ」


少しの沈黙のあと、拓海は息をつくように笑った。


「ただ……ケジメって言うほど大層なもんじゃないけどさ、それでも、言わずに終わるのは違うと思って」


へへ、と困ったように笑う拓海に、あの日から張り詰めていた二人の間の緊張がずっと解けた。


拓海はぱっとベンチから立ち上がる。


「はぁーー……」


そして前かがみで両膝に手をつきながら地面に向かって長い息を吐く。


「…人生最大の緊張だったわ…」


その声は、そよぐ草木の音にすら掻き消されそうになりながらも、きちんと杏華の耳には届いていた。


拓海は上体を起こすと、空を仰いだ。

どんな顔をしているのかは分からない。


その背中からは、言葉にしきれない何かが滲んでいるようにも見えて、杏華は今しがた自分が口にした身勝手な返事が、間違っていたのではないかと不安になった。


けれど。


「……メシ、行かね?」


ちらっと振り返ったその表情は、いつもの拓海だった。


杏華は、すぐに返事ができなかった。

ベンチに置いた手に、ほんの少し力が入る。


それでも——

望んでいた“これまで通り”が、すぐそこにある気がして。


杏華は、少し遅れてベンチを立ち上がった。



°・*:.。.



「——では、以上でミーティングを終了します」


国立の言葉を合図に、会議室にざわめきが戻る。

椅子を引く音、資料をまとめる音が重なり合う中で、杏華はすぐに立ち上がれず、手元の手帳を閉じるタイミングを逃していた。


すぐ隣で鳴海と清水が、指摘された箇所について短く言葉を交わしているからだ。


清水と鳴海を隔てた奥の席には野々瀬の姿もある。

野々瀬の方も杏華と同じで、席を立つタイミングを逃しているらしかった。

今日は経験として、ミーティングに同席することになったのだが、さすがの彼女も緊張した面持ちで静かに座っていた。


「……では、先方への共有は私の方で進めます」


清水の淡々とした声に、鳴海が「頼む」とだけ返し、先に席を立つ。

清水が資料に何やら書いているのをぼーっと眺めていると、


「杏華、このまま休憩行く?」


拓海が傍までそう声をかけに来た。

自然な調子で、いつもと変わらない距離感で。

昨日もあの後、ここ数日の気まずさが嘘だったかのように、酒を交わしたのだが。

一晩経っても、これまで通りの拓海には本当にほっとする。


「うん、そうだね」


杏華も椅子を引き、立ち上がろうとした、その瞬間。


「安積」


低く、はっきりと名前を呼ばれ、杏華は立ち上がる途中の姿勢で止まった。

すぐ隣から清水がこちらを見あげている。


「休憩から戻り次第、この企画書の付箋箇所、修正してくれ」


「あ、はい、わかりました…」


差し出された資料を受け取ろうとしたが、できなかった。

清水の指に力がこもっていて、すぐには離れなかったからだ。


手元から視線を上げれば、清水の深い黒色の瞳に縫い付けられた。

何も言わないまま、ただ見つめ合うだけの時間が流れる。

それはほんの数秒のはずなのに、やけに長い。

それでも、その瞳が何を訴えているのか、杏華には分からなかった。


その沈黙を破ったのは、静かで可愛らしい声だった。


「清水さん」


清水の向こうに遠慮がちに立つ、野々瀬だ。

清水が振り返ると、野々瀬はわずかに首を傾けながら


「お昼休憩……ご一緒しても、いいですか?」


そう尋ねた。


その瞬間、清水の指が、ふっと力を抜く。

資料から指が離れた。


「……ああ。行こうか」


短くそう答えると、清水はこちらには視線を向けることなく立ち上がり、そのまま二人は並んで歩き出した。


杏華は手にした資料を力なく下ろし、その背中を見送った。

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