Ep9.翻弄する男


就業後。

いつもなら最も肩の力が抜ける瞬間のはずが、今日は一番の緊張が杏華を襲っていた。


清水に「少し時間をずらして駐車場へ来い」と指定され、その通りに重い足取りで駐車場へ向かう。


エントランス裏口の扉を開けると、朝は気にならなかった曇天が今は激しい雨を叩きつけていた。


傘も持たずに家を飛び出してきた杏華は、視界が霞むほどの雨に思わず眉を寄せる。


その時、真正面の車のヘッドライトがぱっと灯った。


ワイパーが水を弾き、その一瞬の隙間から運転席の清水の顔がぼんやりと浮かぶ。


お互い忘れよう——備品室でそう済ませたつもりだったけれど。

あの時清水は何も言わなかった。

そしてあの表情からして、納得がいっていないのはわかる。

それでも——だからって、なぜ就業後にわざわざ呼び出されているのだろう。


「はぁ……」


もう、考えたって仕方ない。

杏華はひとつ息を吐いてから雨の中へ飛び出し、車のドアに手をかけた。


「……傘、ないのか?」


ドアを開けた途端、清水が助手席へ少し身を傾けて杏華を見上げ、眉をひそめる。


「……どこに行くんですか」


清水の問いには答えず、杏華は雨で濡れるのも気にせず質問で返す。

コートからブラウスへ冷たい雨が滲み、その不快さに肩を震わせた。


「とりあえず乗れ」


それは有無を言わせない強い口調で。

雨が降り込んで濡れたレザーシートが目に入り、杏華は渋々助手席に乗り込んだ。


エンジンが低く唸り、車はゆっくりと動き出した。


清水は何も言わず、ただ前を見据えたままハンドルを握っている。

その横顔は、まるで業務中と変わらない冷静な表情で、さっきまで杏華を締め上げていた熱をまるで感じさせない。


杏華は濡れた前髪にハンカチを当てながら、ちらりと横目でその顔を盗み見る。


(……昨日のことが、嘘みたい……)


そう思ってしまった自分に気づき、杏華は慌てて視線を窓の外へ逸らした。


結局、どこへ向かっているのかも、何のために呼び出されたのかも聞けないまま。

聞いたところで、清水が“そうすると決めている”なら、今の杏華には止める術なんてない。


お互い無言のまま。


静まり返った車内に、雨粒がフロントガラスを叩く音だけが響いた。



°・*:.。.



会社から三十分ほど走ったところで、車が静かに停まった。

フロントガラス越しに、黒を基調としたスタイリッシュな建物が見える。


「……ここって……」


「俺の家だ」


清水は淡々と告げると、戸惑う杏華に構わず車を降り、後部座席から傘を取り出して助手席側へまわってきた。


ドアが開かれ、広げられた大きな傘の下で清水が無言で杏華を見下ろす。

最近わかったことがある——清水が言葉もなく視線だけで杏華を射抜く時、そこにはもう逃げ道なんてひとつも残っていない。


黙って車を降りると、清水がわずかに距離を詰め、濡れていた杏華の肩までしっかり傘の中に収めた。

車のロック音が鳴ったあと、ふたりはエントランスへと歩き出した。


自動ドアを抜け、エレベーターに乗り、清水の家の前に立つまで——杏華はほとんど無心だった。

ここが何階なのかさえ分からないほど、頭の中は真っ白だった。


(……どうして清水さんの家なの…)


家の前で足を止めた時、ようやく現実が輪郭を取り戻し、そんな疑問が浮かんでくる。


——昨夜は身体重ね、今日は家なんて。


なるほど。そういうことか——清水はこのまま、自分のことを“都合のいい存在”にするつもりなのだろうか。


そう思った瞬間、胸の奥がちくりと痛むような、けれどどこか諦めにも似た気持ちになる。


濡れた傘を玄関脇に立てかけると、清水はカバンからキーを取り出しドアを開けた。


清水に続いて中へ入ると、ほのかに甘い香りが漂い、緊張を沈めるように杏華は肺いっぱいにその香りごと息を吸い込んだ。


「そこで待ってろ」


短く告げられ、無駄な装飾ひとつない整った玄関をそっと見回していると、清水はまもなくして戻ってきた。


「これに着替えろ」


「えっ?」


差し出されたタオルと洋服を見て、杏華は動きを止める。


「そのままだと冷えて風邪を引くだろう」


「…大丈夫です。すぐに帰りますから」


それは、今の杏華にできる精一杯の抵抗だった。


ここで引かなければ。

“すぐに帰る”と言わなければ。

このまま流されてしまう。


玄関に立っている時点でもう遅いけれど。


“都合のいい関係”としてここに連れてこられたのだと、頭では理解しているはずなのに。


それを、清水自身の言葉で否定してほしいとどこかで願ってしまう。


「…誰がすぐに帰すと言った?」


低い声が刺すように返り、杏華は少し身を固くしたが、それでも怯まず言葉を続けた。


「どうして清水さんの家なんですか?」


「話は着替えてからだ。まったく頑固なやつだな。俺が脱がせてやってもいいんだぞ」


「なっ……」


杏華の僅かな抵抗を、清水の言葉が簡単に封じ込めた。

観念したように、杏華は洋服を掴むようにして受け取る。


「……お借りします。洗面所はどこですか」


清水は “それでいい” とでも言うように軽く頷き、顎で近くの引き戸を示すと、そのまま部屋の奥へ歩いていった。


どこか横柄にも映るその背中に、杏華は小さくため息をつく。

パンプスを脱いで家に上がると、濡れたストッキングの不快さに思わず爪先立ちになりながら洗面所へ入った。


服を脱ぎながら、鏡越しに自分と目が合った途端、急にこの状況がおかしく思えてくる。


(なんで清水さんの家で着替えなんてしてるの……)


渡された洋服はもちろん清水のもので、広げて見ただけで自分には大きすぎると分かる。

それでも着替えるしかなく、そっと袖を通すと、柔軟剤の香りが杏華を包んだ。


それは昨夜、清水に抱きしめられた時にふっと鼻先を掠めた香りで——

思い出した瞬間、胸がきゅっと締め付けられる。


その時だった。

ガラリ、と背後でドアが開く気配がして、杏華は肩を跳ね上げた。


「きゃあっ!」


「……おい。一人暮らしの男の部屋で悲鳴を上げるな」


「急に入ってこないでくださいよ!」


呆れ顔の清水に、杏華はまだズボンを履いていない素足を擦り合わせながら声を上げた。

幸い、大きすぎるトップスの裾が下着まで隠してくれている。

それでも恥ずかしいものは恥ずかしい。


けれどそんな杏華にお構いなく、清水はその姿を上から下までゆっくり視線でなぞると、「悪くないな」なんて言い出す。

杏華はいま、俗に言う“彼シャツ”状態だ。

清水がそれを“悪くない”と思うのは、なんとなく意外だった。


(——って、彼氏じゃないけど…)


そう心の中で冷静に突っ込みながら、いつまでもそこに立っている清水を睨みつけた。


「まだ着替え中なんですけど」


「洋服を乾かすから、早く貸せ」


優しいのかぶっきらぼうなのか分からない態度に、杏華はむうっと口を尖らせつつ濡れた服を差し出す。


「……ありがとうございます」


「着替えたらリビングに行ってろ」


そう言い残し、清水は服を持って浴室へ入っていった。


スウェットパンツを履いてみると案の定ぶかぶかで、紐を締めてもウエストが余り、裾は引きずる勢いだった。

仕方なくそのまま、言われた通りリビングへ向かった。


ドアを開けた瞬間、杏華の賃貸アパートとは比べ物にならないほど広いリビングスペースが目に飛び込んできた。

生活感のなさが余計に空間を広く見せているのか、必要最低限の家具だけが整然と揃っている。

その家具もすべてグレートーンで統一されていて、なんとなく“彼らしい”という印象を受けた。


そっとソファに腰を下ろすと心地よく身が沈んだけれど、なんとなくもたれかからず背筋を伸ばしたまま浅く座る。


「出向から戻った時期が悪くてな。小さな部屋しか残っていなかった。ここはまだ仮の住まいだ」


不意に背中から声をかけられ、杏華は思わず振り返る。

清水はそのままキッチンに立ち、淡々とマグカップを手にしている。


小さな部屋って——これが“小さい”なら、杏華のワンルームを見たらなんと言うのだろう。

むしろ清水が帰国した四月目前にこの部屋が余っていたことの方が、よほど幸運では?

そんな、どうでもいいはずのことが頭をよぎる。


「……ミルクティーで良かったか?」


清水が湯気の立つカップを二つ持ち、杏華の隣へ腰を下ろしながら問いかけた。


「ありがとうございます…」


マグカップを受け取った瞬間、雨で冷えた指先がじんわり温まる。

甘いミルクティーの香りがふわりと鼻をくすぐった。


「香港の本場のミルクティーだ。向こうでよく飲んでいた」


リラックスした様子でマグカップに口をつける仕草に、杏華はうっすら笑みを浮かべかけて、慌てて視線をそらした。


和んでいる場合じゃない。

わざわざ着替えさせて、こんな風に間を挟んでから身体を求めるなんて。

——丁寧な人だ。

別にこんな段階を踏まなくてもいいのに。


そう思った瞬間。


「……それで」


清水がマグをテーブルに置き、コトン、という音が空気を切り替えた。

空気が、ひとつ深く沈む。


「まず、ひとつ聞くが…」


たった今までの柔らかさが一瞬で消え、仕事中と同じ——いやそれ以上に鋭い声音が落ちた。


杏華は何も言わず、マグカップに口を付けたまま清水の言葉の続きを待った。

きっとそれは二秒ほどの沈黙の間のはずなのに、やけに長く感じて、指先が微かに強ばる。


「……広瀬とは、本当はどういう関係なんだ?」


それは、昨夜のことを蒸し返されるよりも痛い問いだった。


拓海と関係を持っていながら、清水とも身体を重ねた——その事実を知られたら終わりだ。


清水は間を置かず続けた。


「今日の君たちの会話。あれは“ただの同期”の雰囲気じゃなかった」


ドア越しに聞いていただけのはずなのに。

その鋭さに、こんな状況でも感心してしまう。


「俺に隠していることがあるなら、言え」


胸を刺すようなその言葉に、杏華は息を呑んだ。


隠す——その言い方が杏華にはどこか腑に落ちない。

清水に言う必要なんて、本当はないはず。

けれど——昨日みたいに触れられたあとで、“無関係”なんて、本当に言い切れるのだろうか。


重い沈黙が流れる。

さっきまで柔らかく指先を温めていたマグカップの温度も、今ではジリジリと痺れるように熱い。


「杏華」


びくり、と肩が揺れる。


これだけ押し黙った後で、それでもただの同期で少し喧嘩をしただけ——なんていう嘘はまかり通らない。

特にこの男相手には、絶対。


杏華は完全に逃げ場を失い、マグカップをテーブルに置いた。


そして、清水の方は見ることができず、膝の上に視線を落としたまま口を開いた。


「……拓海とは……前から……そういう、関係で……」


ぎゅっと膝の上で握った拳が僅かに震える。


——言ってしまった。


軽蔑される。呆れられる。その恐怖が杏華を襲う。


清水がどんな顔をしているのかは分からない。


自業自得だとはわかっている。

それでも——清水にだけは“軽い女”だと思われたくなかった。


この後に及んでそんなことを気にする自分が、身勝手なのもわかっている。


清水が深く息を吐く音が聞こえ、それが杏華に対する“呆れ”のように響いた。


そして、右頬を刺した言葉が杏華の胸をさらに抉った。


「………君は…特定の相手を作らないタイプなのか?」


「それは…っ……そういうわけでは……」


思わず清水の方へ顔を上げると、冷ややかに——けれど杏華の胸の奥を探り当てるような視線と交わった。


そういうつもりはないーけれど、“自分が抱いた女が別の男とも身体を重ねていた“と知られた以上、そう思われても仕方がない。


何を言ってもますます自分を下げてしまう気がして、杏華は力無く肩を落とした。


「それなら、もうあいつとの関係は切れ」


真剣な色を帯びた瞳が、杏華の胸の深いところを突き刺す。


身体だけの関係なんてやめるべきだと、そんなことは杏華自身がいちばん分かっている。


「君は、そうやって自分を軽く扱うべきではない」


責めるような強さを帯びているのに、その響きはどこか優しくて。


杏華はその言葉に、胸の奥の冷えが少しだけ緩んだ。

“軽く扱うな”——それは、都合のいい関係にするつもりなら、出てくるはずのない言葉だからだ。


じゃあなぜ——今こうして杏華がここにいる意味は何か。

まさか拓海との関係を説教するために——?

そんな考えが頭を過った瞬間、清水は一切視線を逸らすことなく言葉を零した。


「俺は昨日のことを——なかったことにするつもりは、一切ない」


淡々とした声音なのに、そこには揺るぎがない。


「本当は──きちんと順序を踏むつもりだった。気持ちを伝えてから、触れるべきだと思っていた」


まるで自分自身を諭すような低さ。

それでも言葉の奥には、押し殺した熱が滲んでいる。


「けれど君を前にしたら、どうにも理性が利かなかった」


言葉を選びながら落とされる声は、静かなのにやけに胸に刺さる。


「……あれは、酔いでも気まぐれでもない」


低く続いた声には、言い訳の色はなかった。


「俺は誰でも抱いたりしない」


杏華の胸が大きく脈打った。


その言葉の裏にある意味が、この先に続く言葉が、想像できてしまった時。


杏華の心に、また別の感情の波が押し寄せた。


短い沈黙が落ちたあと——


「……君が欲しい」


恋だとか、愛だとか、そうした綺麗な言葉をひとつも使っていないのに。

なのにこの男が言うと、それらより残酷なくらい真っ直ぐに響いてくる。


けれどその真っ直ぐさが、杏華にとっては怖い。

それは“都合のいい関係”よりも、杏華にとっては怖いものなのだ。


震える唇が紡ぎ出したのは、逃げたい気持ちと、手放したくない気持ちが絡まった言葉だった。


「……そんなふうに言われても……困ります……」


「困る?」


清水がわずかに眉を寄せる。


「君は本当に俺のことが嫌いなのか?」


「そ、それは違い、ます…」


あれだけ嫌い嫌いと言っておいて、こんな時に思わず違うと口走ってしまうほどには、彼に惹かれている自覚がある。


杏華の否定に、清水の肩の力が僅かに抜けたけれど、次の瞬間には再び険しい顔を見せた。


「…なら、なぜだ」


なぜ——

杏華が素直にその胸に飛び込めない理由——


胸の内の古傷が疼く。


杏華は視線を落とし、絞り出すように言った。


「……恋愛なんて……私には向いてません。誰かを好きになっても……結局、傷つくだけで……だったら最初から、好きにならなければいいって……そう、思ってます……」


清水は黙ってその言葉を受け止めた後、静かに呟いた。


「…恋愛そのものが怖い、ということか」


核心を突いた言葉に、鼓動が強く脈打つ。


"恋愛するのが怖い"


それなのに昨日のように、自分から誘うようなことをして、身体を許すなんて。

やっぱり自分は軽蔑されて当然だ。


——けれどそれでいい。

さっきまでは彼に軽蔑されることが怖かったけれど、今では軽蔑される方が、杏華にとっては安全だ。


彼からの好意は危険だ。

杏華がそれを受け入れて仕舞えば、きっといつもの恋愛の結末をなぞることになる。


期待して、信じて、そして——壊れる。


それならいっそ、始まる前に嫌われてしまった方がいい。


清水が静かに、視線だけで杏華の横顔を刺している気配がする。

その視線に耐えきれず、杏華は膝の上で指を握り締めた。


そして何かを決心したような深い呼吸の後で、清水は口を開いた。


「それなら、俺が引く理由にはならないな」


その意味を咀嚼する間もなく、ソファの上で清水が距離を詰めるように杏華の方へ身を寄せた。


「杏華」


顔を上げて、その表情がはっきりと目に映る前に、杏華の身体は彼の腕の中に入っていた。


背中に触れる手は優しく、それでも振りほどけないほどの力で抱き寄せられている。


「…こうして抱きしめられるのは…嫌か?」


肩口から見える、ベランダのガラスに反射した大きな背中はどこか余裕がなくて。


杏華は彼の肩に鼻を擦り合わせるように、首を小さく横に振る。


そっと腕を取って身体が離され、静かに揺れる瞳と視線が交わった。


キスの気配が満ち、頭を撫でられたのを合図にするように杏華は目を閉じる。


音も立てず、ほんの数秒触れただけで、唇は離れていった。


「……これは?」


嫌かどうかを問うているのなら、杏華から目を閉じたのが答えだ。


そしてたった今は——ただ何も言わずに見つめ合っているのが、答えだ。


ゆっくり、角度を変えながら、互いを味わうようなキス。


唇が離れても、まだ呼吸が近くて。

どちらともなく、もう一度触れたくなる距離のまま。


「……君がいいなら、このまま抱きたい」


そっと手を取られ、ソファから立ち上がる。

ホテルで杏華を誘導した時は手首に触れただけだったその手が、今はしっかりと杏華の指を握りしめていた。

その力に、胸の奥がじわりと熱を帯びてくる。


リビングに面したドアを開くと、殺風景な部屋にベッドだけが置かれていた。

大人二人が寝るには十分すぎる大きさで、それ以外には本当に何もない。

それでも、リビングよりも彼の匂いが濃く、近い気がして——それがどんな装飾よりも、強い生活感を漂わせていた。


そんなことを考えている間に視界が反転し、シーリングライトが目に入ったのも束の間、すぐに清水の切れ長の瞳が杏華を見下ろした。


「杏華」


壊れ物を扱うような指先が頬を撫で、そのまま服の上をゆっくりと滑っていく。

ただそっと、杏華の存在自体を確かめるような、そんな触れ方で。


首筋に落とされる熱が、杏華が必死に引いていた線を確実に溶かしていった。


強い刺激はないのに、こんなに気持ちいいなんて。


——昨日とは、確かに違う。


触れ方も、距離も、何より、この人の温度が。


こんなに大事にされてるみたいに。

こんなふうに優しく触れられたら……もう、自分の気持ちなんて誤魔化せない。


けれど——


この人を本当に求めてしまったら。

また本気になってしまったら。


そしてまた、これまでと同じだったら?


——怖い。


でも、こうして触れられていると全部どうでもよくなってしまう。


トップスが捲り上げられると、素肌に指先が触れた。


布越しの愛撫で解けていたはずの身体が、素肌というだけではっきりと違う反応を返してしまう。


指先ひとつが、思っていた以上に深く響いて、杏華は小さく息を詰めた。


「……っ」


ぴくりと身体を震わせると清水が動きを止め、顔を上げた。


「俺に触れられるのは嫌じゃないか?」


どうしてそんな、確かめるみたいな優しい目で聞くのか。


拒める余地を残されているのに、拒めないと分かっているみたいで。


——ずるい、と感じてしまう。


「…嫌じゃない…です……」


杏華の返事に、清水は安心したように眉を下げながらふっと笑った。


そこからは、言葉も思考も追いつかなくなるほどで。


彼の唇に、手に、指先に翻弄され、惜しげもなく与えられる温度に、身も心も溶けていった。



°・*:.。.



甘い痺れと少しの疲労の余韻で、今にも意識が堕ちていきそうになりながら、杏華は清水の腕の中で天井を見つめていた。


微睡みに落ちかけた杏華を、清水は逃がさないように腕の中へ引き寄せる。


「……明日は逃げられないように、こうして抱いて寝る」


「……逃げたりなんか……しません……」


そう言いながら、わずかに身じろいで距離を取ろうとした身体が、すぐに引き戻された。


「もう逃げようとしてるじゃないか」


低い声が、耳元で落ちる。


自分でも、"逃げない"という言葉を信じ切れていないことに気づいていた。


——少なくとも、明日の朝。

今朝のように、何も言わずに逃げ出したりはしない。


けれど。

清水の好意から。

そして、このまま踏み出してしまいそうになる“恋愛”からは——

今も、必死に距離を取ろうとしている。


けれど今は、その腕の力に、これ以上抗う気力は残っていなかった。


「いいから。このまま寝ろ」


その言葉を聞き終える頃には、杏華はもうほとんど眠りに落ちていた。


——離す気はないからな。


意識が完全に落ち切る寸前、最後に届いたのはそんな言葉だった。



°・*:.。.



目が覚めると、視界いっぱいに清水の胸板があった。

ゆっくり顔を上げると、思わず息を呑むほど綺麗な寝顔が目に入る。

わずかに開いた薄い唇が、すっと静かに息を吸っていた。

普段の鋭さが解け、どこかあどけなく見えてしまう寝顔。


「……起きたか」


目は閉じたまま、低く、少しかすれた朝の声が鼓膜に直接触れるように届く。


杏華は途端に恥ずかしくなって、背を向けるように寝返りを打った。


その瞬間、後ろからぎゅっと抱きしめられ、何も纏っていないお互いの素肌の感触が境界なく近付く。


「おはよう」


耳元に落ちる声は、昨夜よりも柔らかくて。


「…っ…」


肩にそっと唇が触れ、思わず全身がびくりと跳ねる。


杏華の肌に触れていた彼の柔らかな熱が、じんわりと硬く、膨らむように杏華の肌を押した。


朝から臨戦モードになられては困る。

杏華が耐えきれず腰をずらせば、腕の力が強まり、より密着させられてしまう。


「どこに行く?」


「……ふ、服を着させてください……」


杏華がそう言えば、小さく笑った吐息が首筋にかかる。

身体が解放され、背中で清水が起き上がり、ベッドを降りる音がする。


途端に背中が心許なくなり、杏華は布団を引き寄せて小さく縮こまった。

すぐ近くでカサカサと音がしたあと、気配が遠ざかり、さらに遠くで物音がした。


杏華が横を向いたまま視線を落としている、その先に清水が戻ってきた。

ボクサーパンツ一枚の姿で、腕には杏華の服を抱えている。


カーテン越しの朝陽に照らされた身体の線が、あまりにもはっきりと目に入って、思わず視線を逸らす。


ベッド元に落ちていた下着も拾い上げられ、「ほら」と差し出される。

布団から腕だけ伸ばしてそれを受け取ると、清水が部屋を出たのを確認してから、杏華はそっと起き上がった。


服に袖を通しながら、ぼんやりと昨夜のふたりを思い出す。


昨夜の自分を、清水はどう受け取ったのだろう。

迷いながらも抱かれたあれは、彼にとっては「選ばれた」という意味になってしまったのかもしれない。


けれど——卑怯だと分かっていても。

昨夜も今朝も、杏華はまだ、曖昧なラインに立ったままだった。


ストッキングを履き終え、いつもの自分の姿に戻った途端、急に現実が押し寄せてくる。

綻びかけていた気持ちが、ぎゅっと引き締められる。


その胸の疼きを揺さぶるように、ちょうど清水が寝室へ戻ってきた。

まるで、引き締めた気持ちを試すかのように。


その姿を見るだけで、また心がぐらつく。


入口に立つ清水はもう先程の無防備な姿ではなく。

杏華の表情から何かを読み取ろうとするような視線を向けられ、思わず、目を逸らしてしまった。


「……昨日のこと、後悔しているか?」


杏華は、首を小さく横に振った。


後悔はしていない。それだけは、嘘じゃない。

けれどそれは、前に進めるという意味ではなかった。


清水はその沈黙ごと受け取るように、低く言った。


「……君に簡単に踏み込めないのは、分かった」


そして、言い切るように続ける。


「理由を、無理に聞くつもりはない」


一度、伏せ目がちに視線が外れた。

それからすぐに、強い決意の滲んだ瞳が戻ってくる。


「……それでも、君に気持ちがあると分かった以上、俺は引くつもりはない」


ごくりと息を呑む。

けれど、それは圧というよりもっと力強い引力で。


「杏華、俺の恋人になれ」


嬉しい。でも、それ以上に——怖い。


「……やっぱり、私には……すぐに返事はできません……」


この関係に名前を付けた時点で、崩れていく未来のスタートラインに立つ気がして。

やっぱり、今の杏華には到底選ぶことができない。


どこまでも拗らせていて、面倒で、こんな自分が嫌で、視線を合わせられなかった。


「……わかってる」


"わかってる"とは言いながらも、その声色にはやるせなさが滲んでいる。

けれど、視線を上げて目にしたその表情は、声とは裏腹に力強くて。


「ただ……俺からは逃げようとするな」


それは、簡単なようで——

答えを急かされるよりも、答えを選ぶよりも、ずっと難しい言葉だった。


恋人になる覚悟を先延ばしにしながら、それでも“何もなかった関係”には戻れないのだと、告げられた気がして。


ただ今は、清水の傍にいることだけは、失わなくていいのだと。


そう思ってしまう自分も、確かにいる。


この胸の自覚に素直に、彼の胸に飛び込めたらいいのに。


けれど、過去が——

杏華に絡まって、離してくれないのだった。



°・*:.。.



「杏華って、顔は綺麗なんだけどな〜」


スマホ画面から目を離さず、一切こちらは見ない。


「あ、でもさ。あっちの相性は最高だったわ」


下品な笑顔でヘラヘラとそんなことを言う目の前の男は、一応、五分ほど前まで恋人だった。

そんなこと、今となっては消し去りたい過去だ。


人は不思議なもので、さっきまで好きだった相手も、こうなると途端に、何ひとつかっこよく見えなくなる。

フィルターが外れてしまったのだろう。

形がよくて好きだったはずの唇も、今となっては憎たらしい言葉ばかりを吐き出す、醜いものにしか見えない。


「杏華って、まじ強い女だよな」

「綺麗だけど、可愛げないよな」

「甘えてくれないし、俺のこと好きか分からない」


杏華が別れ際に、恋人から言われてきた言葉だ。


甘え方が分からず、強がって素直になれないのが杏華の癖だった。

けれど、染み付いてしまった性格は、変えようとしても簡単には変えられない。


そして数年付き合ううちに、最初は“恋人”らしく手を繋いでデートスポットへ行っていたはずなのに、いつの間にか、“会う”ことはそのまま“身体を重ねる”ことになっていた。


デートはおろか、連絡も「今から行っていい?」だけ。

夜になると杏華の家に上がり込み、セックスをして、事が済めばろくな会話もなく帰っていく。


「……これって、付き合ってるっていうの?」


そう問いかければ、


「そういえばさ。俺、好きな子できたから別れて」


そんな言葉で、あっさり終わるのがいつものパターンだった。


好きな子ができた、どころか。

杏華と身体を重ねている間にも、同時進行で新しい女に手を出していた——そんなことも一度や二度ではない。


今回も、それだった。


「職場の美来みくちゃん、まじ可愛いんだよ。素直に甘えてくれるし、いつもニコニコしてて優しくて。まじ杏華も、見習えよ」


ご丁寧に、仲睦まじく寄り添ったツーショットまで見せられる。


そこに写っているのは、杏華とは正反対の雰囲気をした、小柄で、小動物のような女だった。


たった今、別れ話をしているというのに、すでに付き合っている距離感の写真を見せてくるなんて——


「はぁ…」


杏華が分かりやすくため息を零すと、目の前の男は途端に不機嫌そうな顔を向けてきた。


「ほら、今だって、別れたくないって泣くどころか、ため息?杏華ってまじ、男のこと下に見てるとこあるよな」


——まじ、可愛くねぇ。


付け足すようにそう言われ、杏華はすっと席を立った。


プツン、と何かが切れた音がした。

けれど。


この男相手に、何を言っても仕方ない。


「じゃ、その“美来ちゃん”とお幸せに」


微塵も思っていないような言葉を残して、杏華はファミレスを後にした。



これが、拓海との関係のはじまりだった。


入社した頃は八人ほどいた同期も、いつの間にか次々と会社を去り、気づけば残っていたのは杏華と拓海だけだった。

もともと二人は、よくサシで飲みに行く仲だった。


杏華の恋愛事情も、拓海はもちろん知っている。

出会ってから六年。その間に、恋人が三人ほど変わったことも、そばで見てきた。


けれど今回の別れは、あの場では澄ました顔をしていた杏華にとって、明らかに今までとは違っていた。

二十五の頃から、四年も付き合っていた相手だったからだ。


その年齢からそれだけの時間を共にすれば、自然と結婚を思い描いてしまう。

今回ばかりは、今までの男とは違うはずだと。

そう、信じていた。


いつまでも結婚のけの字も出てこなかったことに、もっと早く違和感を抱くべきだったのかもしれない。


けれど、結婚の話題を出せば男は引くもの——杏華の中に漠然とそんな思いがあった。

だから、あえて触れなかったのに。


——もう、恋愛やめる。


酔いに紛れて零れたその言葉に、拓海が触れた。


——慰め、だったのだと思う。


少なくとも、その時の杏華はそう受け取った。


拓海がそうやって触れてくるのは意外で、どこかむず痒い感覚もあった。


けれど杏華も女だ。

欲がないわけじゃない。

女性として求められることに、救われる夜もある。


なにより、拓海は優しかった。

だからこそ、ほんの少し——寄りかかってしまった。


そうして杏華は、恋から距離を取るように、拓海との関係を受け入れた。


本気の恋をするのは、もう怖かった。

また裏切られるかもしれないという想像だけで、胸が締めつけられる。


だったら、最初から踏み込まなければいい。

期待しなければ、傷つくこともない。


そうやって身につけた距離の取り方が、いつの間にか、杏華の“恋愛の形”になっていた。


そしてそれは、清水の真っ直ぐな好意を前にした今も、杏華の足を止め続けているのだった。

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