Ep7.魅惑の男


「——以上です。ありがとうございました」


最後のスライドを閉じて頭を下げた瞬間、張り詰めていた会議室の空気がすっと緩んだ。

佐々木と田端が小さく拍手を送ってきて、杏華の口元の強ばりがほぐれる。

清水はストップウォッチを止め、スクリプトの資料をぱらりと捲ると、短く息を吐いた。


「よし。じゃあ、三点だけ話す」


杏華が手元のペンを構えるのを確認してから、彼はいつもの簡潔さで切り出す。


「一点目。四枚目の結論の間が半拍長い。聞き手の集中が切れる。二点目。市場データの補足は不要だ。その場の説明が増えると結論のキレが落ちる。三点目。視線。当日は左側の役員席にも一度は視線を置け。聞き手を取り零すな」


淡々と告げられるフィードバックを受けながら、杏華はメモを取る手のひらにじんわり汗が滲むのを感じた。


かれこれ一時間半、明日のプレゼン本番に向けた最終チェックが続いている。


今回は“三点”だったが、これでも相当少なくなったほうだ。

今日の最初のフィードバックでは十項目近く修正が出ていた。


真剣に見てくれているのは分かる。

でも前日でこれだけ刺されれば、焦らないわけにもいかない。


「……分かりました。改善します」


杏華が手を止めると、清水は短く「頼む」と返し、時計を一瞥した。


「全体的にはもう十分だ。これで解散にする。各自、明日は開始に遅れるな」


「「はい!」」


佐々木と田端は声を揃えて元気よく返事をし、そそくさと席を立った。


「ミーティング行ってきます!」


「私、外出で抜けます! 片付けお願いしてすみません!」


「あ、うん。行ってらっしゃい」


慌ただしく去っていく二人の背中を見送り、会議室には杏華と清水だけが残った。


清水はノートパソコンに向かい淡々とキーを叩いていて、声をかけてくる気配はない。


昨日はあんなに、この男のことで頭がいっぱいになっていたくせに——今日の杏華の胸を占めているのは、別の重たい感情だった。


片付ける手をすすめながら、杏華は心の中でそっとため息を吐く。


昨日、あの後拓海とは——


ホテルを出て、改札で別れるまでひと言の会話もなかった。


「また会社で」と言った拓海の視線は伏せられたままで、最後まで目が合うことはなかった。


まさか拓海とあんな空気になるなんて思わなかった。

昨日の自分は——変だった。


拓海はなにも悪くない。


全部——


全部、清水のせいだと片付けられたらどれほど楽か。

でもそれは、あまりに身勝手すぎる。


どうして自分は、この男の存在ひとつでこんなに乱されてしまうのか


拓海に抱かれている最中でさえ無意識に思い浮かべてしまうほどに、この男の何が、自分をこうしてかき乱すのか。


杏華は唇を噛み締めた。


「……なんだその顔は」


右頬の横あたりに落ちてきた低い声に、こめかみがぴくりと動いた。

かなり不機嫌な表情になっている自覚がある。


誰のせいでこんな顔になってると思ってるのよ——と、延長コードを巻く手に力がこもる。


「昨日、広瀬と飲んだんだろう」


杏華は答えない。


「俺の愚痴でも言って、スッキリしたんじゃないのか?」


「別に愚痴なんて言ってません」


無視してもよかった。

けれど清水相手にそれをすれば、さらに突っ込まれる未来が容易に想像できる。


杏華の返答に「ふうん」と零すと、パタンとパソコンを閉じる音がやけに響いた。

ちらりと視線を向ければ、清水は腕を組んだまま杏華をじっと見ていた。

その目は冷たくはない。ただ、どこか探るような目だ。


「俺の話はしなかったのか?」


「してません」


即答し、少し乱暴に顔をそむけて片付けを続ける。


どういう意図の質問なのかはわからないけれど、こちらの居心地だけは確実に悪くさせてくる。


顔を合わせれば乱される。

なのに頭の中に浮かぶ清水は、あの日のせいで別人みたいに優しい。


たったあれだけのことで——

しつこく考えてしまう自分が嫌になる。


変な呪いでもかけられたみたいだ。

杏華の眉間にシワが寄った、その時。


「じゃあ昨日、俺のことは一度も考えなかった?」


(なん、て——?)


はた、と手が止まり、

持っていた資料が指先から滑り落ちそうになる。


清水は腕を組んだまま、ふんぞり返るように背もたれに身体を預けながら、わずかに顔を傾けている。


——考えたんだろう?


声に出さない問いが、視線の圧で刺さる。


その視線だけでジリリと追い詰められるみたいで、杏華はわずかに後ずさった。


事実——考えた。

そのせいで拓海とも気まずくなった。

そのことをどうしてくれるのかと言ってしまいたい。


でも清水にとってそれは責めにならない。

むしろ“やっぱり考えたんだな”と満足げに笑うだろう。


沈黙した今、答えはもう露呈している。


杏華が息を飲んだ瞬間、清水はふっと腕を解き、目を伏せた。


「……悪い。少しからかいが過ぎたな」


落ち着いた声なのに、逆に杏華の心はざわついた。


そしてパソコンを持って立ち上がると


「でもその覇気のないままじゃ、明日は前に立てないぞ」


コツコツと靴音を立てながらドアの方へ向かっていく。

そして取っ手に手をかけると、わずかに振り返った。


「欲しくないのか。……飴が」


次の瞬間、はっきりとこちらを向いた口先はニヒルに釣り上がる。


わざとだ。

全部分かった上でこういう言い方をしてくるに決まっている。


杏華の喉の奥はくつつと鳴り、何も答えることが出来ない。


そんな杏華のたじろぐ姿も、清水にしてみれば面白いのだろう。


本当に性悪だ。


「明日は上手くやれよ」


満足げに目を細めた清水は、その一言だけ残して会議室を出て行った。

杏華はしばらく、その余韻に縛られたようにその場から動けなかった。



°・*:.。.



三人の足音が、大理石の床に硬く響く。

自社とは比べものにならないほど磨かれた床は、窓から差し込む朝陽を受けてつるりと光っていた。


エントランスからエレベーターまでは出社する社員たちのざわめきに包まれていたが、このフロアに漂うのは、また違う種類のざわめきとわずかな緊張だ


廊下の突き当たりに『GELLAT — クリエイティブプレゼン会場』と貼られた看板が見える。

杏華が反応するより速く、隣から盛大なため息が聞こえた。


「……はぁぁぁ。緊張で吐きそうです……」


「…なんで田端がそんなに緊張してるの?」


この企画が始まった日と同じように胃を押さえながら歩く田端に、杏華は苦笑いを零す。


「そうよ、田端。あんたがそんなに緊張してどうするの。杏華さんにまで移るじゃない」


そう言って小突く佐々木自身も、受付で渡されたビジターパスの紐をずっと握りしめていた。


自分と同じか、それ以上に緊張してくれている二人の存在に、杏華はほんの少しだけ心が軽くなるのを感じた。


プレゼン会場に入った瞬間、平常を装っていた杏華もさすがに胸の奥がひとつ、強く脈打つのをごまかせなかった。


列になった審査席のあたりでは、国立がGELLATの担当者と言葉を交わしている。

大きなスクリーンと、そこだけ照明が落とされた壇上。

数分後、その真ん中に自分が立つと思うだけで喉がきゅっと細くなる。


何度経験しても、こういう場は慣れない。


そして杏華の緊張を別の方向から刺してきたのは——会場後方の控え席に座る清水の姿だった。


資料に視線を落とし、背筋を伸ばしたまま動かない姿。

見慣れているはずなのに、この空気の中だとその存在がより際立つ。

胸の奥をきゅっと締めつけてくるのは、この場の張りつめた空気のせいか。——それとも自分の問題なのか。


昨日のやり取りを思い出しかけて、杏華は小さく首を振った。


——今日は、そんなこと考えてる場合じゃない。


「プレゼンターの方ですか?」


そっと肩を叩かれ振り返ると、女性スタッフが柔らかく微笑んでいた。

杏華が挨拶をすると、壇上へ案内された。

スポットライトの熱に頬が強張ったのも束の間。マイクチェック、声出し、スライドの反応確認……と、次々スタッフが指示を出し、緊張に飲まれる暇もない。


「では、時間まではあちらでお待ちください」


一通りの確認を終え、指示された椅子に腰を下ろすと、佐々木と田端は叱咤激励の言葉を残して控え席の方へと去っていった。

途端に孤独が押し寄せ、紛らわせるように杏華はバッグからスクリプトを取り出した。

視線は文字の上を滑っているのに、内容は頭に入ってこない。

顔を上げたらこの場の空気に押し潰されそうで、ひたすら資料を捲っていた、そのとき。


「安積」


雑音に紛れず、真っ直ぐ耳に届く声だった。

顔を上げると、清水が立っていた。


自分でも分かる。杏華の今の顔は、ひどく情けない。


「昨日よりはマシだが、緊張しているな」


「そ、そんなこと……ありません……」


裏返った声での咄嗟の否定が、余計に緊張を自覚させる。


清水は僅かに眉を下げ、ふっと小さく鼻を鳴らした。


「緊張することは悪いことじゃない。それだけ本気で走ってきた証拠だ」


挑発されると思って身構えていた分、肩の力がふっと抜けてしまう。


「安積なら、大丈夫だ」


今日ばかりは真っ直ぐに背中を押してくれるつもりらしい。

資料を握る指先はまだ強張っているのに、心の奥だけは静かに落ち着いていくのが分かった。



°・*:.。.



会場内に広がる拍手の音を聞きながら、杏華はしばらく深く頭を下げていた。

掌の汗がまだじんわり残っていて、自分の鼓動が耳の奥で遅れて跳ねてくる。


そっと顔を上げると、最前列に座る国立が優しい表情で頷きながら拍手を送っているのが目に入った。


その一瞬で、杏華の胸の奥に張りつめていた何かがふっとほどける。


——終わった。

ようやく、肩の荷が降りた気がした。


その後、会場は解散のざわめきに包まれていた。

担当者たちが退出していくのを、国立の隣に並んで礼をして見送る。

設営スタッフたちが片付けに忙しなく動いている中、国立が杏華を覗き込んだ。


「…お疲れ様。あまり緊張しなかった?」


「まさか、すごく緊張してました…」


即答しながら首を振る杏華に、国立は驚いたように眉をあげた。


「そう?すごく堂々としていて、とても良かったよ」


「…ありがとうございます…」


そこへ佐々木が小走りにやって来た。


「杏華さん、お疲れ様でした!」


田端も安心したように笑う。


「ほんと、良かったです…僕、最初から最後まで心臓バクバクでした…!」


ちょうどそのとき、佐々木の肩の向こうから清水が携帯を耳に当てたままこちらへ向かってくるのが見えた。


けれど会話の輪に一切加わることなく、通り過ぎざま、国立にだけ軽く顎で合図を送るとそのまま足早に会場を出ていった。


杏華は去っていく背中を思わず目で追ったが、すぐにまた安堵の波に意識を引き戻された。


——終わった。

本当に、終わったんだ。


帰社してデスクに戻ると、この一ヶ月の疲れがどっと押し寄せてきた。

会場ではアドレナリンが出ていて、プレゼン直後は自分でも驚くほど冷静でいられたのに、その反動が一気に来たようだった。


杏華のもとへ、鳴海をはじめ二課のメンバーが次々と労いの言葉をかけにくる。

疲労のにじむ笑顔でそれに返しながらも、杏華の意識はどうしても——目の前の空席に向いていた。


会場を早々に去って行った清水は、まだ戻っていない。


清水のもとで必死に食らいついてきたからこそ、一番、あの男に労ってほしいところなのに。


労ってくれる保証はどこにもない。

けれど——


——欲しくないのか。……飴が。


清水の「お疲れ」の一言がどうしようもなく欲しいと思ってしまう自分が、少しだけ悔しい。



°・*:.。.



それから午後は、静かに穏やかに過ぎていった。

また明日からも抱えている案件は山ほどあるけれど、この一ヶ月に比べればほんの少し息がしやすい。


杏華はどこか軽い足取りで、今日のプレゼンの実施報告書を提出するために部長室へ向かった。


部長室のドアの前に着いたとき、ポケットのスマホが震えた。


『プレゼン、お疲れ』


拓海からの短い一文。


胸の奥が、きゅっと小さく引きつる。

返したい言葉はたくさんある。

でも、そのどれもが今の二人には似つかわしくない気がして、杏華の指は思うように動いてくれなかった。

杏華は “ありがとう” と一言だけ返すと、迷いを押し込むようにスマホをしまった。


いつもなら今日みたいな日はきっと、一緒に酒を飲んでいたんだろうな——


そう思った瞬間、胸の奥に小さな隙間ができたような気がした。

杏華はその小さな痛みを胸の奥に押し込むと、部長室の扉をノックした。


扉を開けると、マグカップを手にした国立が穏やかな笑みで出迎えた。

夕方の柔らかな陽がデスクに差し込み、コーヒーの香りと彼の落ち着いた所作が、その空間を心地よく温めている。


国立は報告書を受け取ると、目を通すことなく綺麗に片付けられたデスクの上へ置いた。


「改めて、今日はお疲れ様。結果が出るまでは完全に気が抜けるわけじゃないだろうけど……ひとまず、だね」


そう労うように微笑み、すぐに続ける。


「ところで、今夜時間はある?」


「…今夜、ですか?」


国立はカップに口をつけながら、杏華の反応を確かめるように目を細めた。


「もしよければ、夕食でも。無理を承知でこの企画を引き受けてもらったお礼をしたくてね」


まさか国立からこんな誘いが来るとは夢にも思わず、杏華はぱちぱちと瞬くばかりだった。


その様子に国立は小さく笑う。


「まぁ、来てもらって後悔はさせないからさ。予定がなければ、ぜひ」


予定はない。

佐々木から「打ち上げしましょう!」と言われていたが、清水が不在のため保留になっている。

拓海と過ごすことも、もうできない。

断る理由なんてなかった。


杏華は、こくりとひとつ頷いた。



°・*:.。.



夜。国立との待ち合わせ場所は、ハイクラスホテルのロビーだった。


高天井から吊るされたクリスタルのシャンデリアは、角度によって淡く金色に瞬き、フロントに立つスタッフの所作はどれも洗練されている。

行き交う客層も落ち着いていて、香水の香りすら控えめで上品だ。


プレゼンだったこともあって、顔色を良く見せる淡い色のブラウスにタイトスカートと、杏華もそれなりの格好をしている。

けれど周囲には、ディナーやパーティーに向かうのだろう、煌びやかに着飾った女性たちが多く、少し浮いている気がした。


(国立部長はこういう場所、すごく似合うな…)


そんなことを考えながらレストランの入口へ近づいた、その瞬間。


「……えっ」


そこに佇むシルエットが目に飛び込んできて、杏華は思わず声を上げた。


杏華の声に気づき、同じようにわずかに驚いた表情を見せたのは——清水だった。


「……えっと、清水さんは……会食とか、ですか?」


「いや。歩と食事だ」


「へぇ……って、歩って国立部長?!」


杏華の声が一段階大きくなり、清水が少し上体を引いた。


(嘘でしょ……食事って、清水さんも一緒だったの……?)


あの時、せめてひと言説明してくれれば覚悟はできたのに。

いや、確かに“言ったら断られる”と思われた可能性もある。

でもそんなことはない。

国立からの誘いであれば、清水が同席でも断るはずがない。

むしろ分かった上で、心の準備くらいはさせてほしかった。


「私も国立部長からお誘いを受けて来たんですけど……」


ため息混じりにこぼした途端、清水のスマホが震えた。


「……歩からだ」


画面を見た清水は、浅く息を吐いた。


「……やられたな」


そう言って、杏華へ画面を向ける。


『安積とは会えた?二人で仲良く美味しいもの食べて。良い夜を』


——二人で。


その文字を見た瞬間、杏華の背筋がひやりと冷たくなった。


「そういうことでしたら私は帰ります」


反射的にターンして引き返そうとする。

けれど。


「待て。俺一人で行けと言うのか?」


背後から飛んできた少し不機嫌な声に、杏華は一呼吸の間で“逃げる理由”を組み立てて振り返る。


「清水さんだったら今から誰かをお誘いしても、すぐに来てくれる方が見つかると思いますよ」


そう。こんな場所で清水と食事できるなら——大抵の女性は喜んで来るはず。

疲れたオフィススタイルの自分より、もっと頭の先からつま先まで綺麗に着飾った女性が。


これは“あなたは皆に憧れられている”という意味のリップサービスでもある。

プライドの高い清水なら、きっと気分よく受け取る——そう思ったのに。


「それなら君を誘おう。この一ヶ月の慰労会だ。断る理由がないだろう?」


杏華は言葉を失った。


そう言われてしまえば、断る理由は――ない。


まだこの男から「お疲れ」の一言すら貰っていない。

“慰労会”と自分で言ったのだから、今夜ばかりは労ってくれるはずだ。


たったそれだけのために、彼とこの時間を過ごすのだと自分に言い聞かせる。


——なのに、胸の奥では別の何かが、拒む理由を鈍らせていた。


迷いを噛みしめるように唇を噤んだ杏華を、清水は一瞥する。

その目元に、ごくわずかに満足の影が差した。

何も返さない杏華の沈黙を、“了承”と受け取ったのだろう。


「行くぞ」


短く告げると清水はわずかに目元を緩め、迷いのない足取りでレストランへと入っていった。


「こちらへどうぞ」


黒い制服に身を包んだスタッフが、柔らかな微笑みで二人を迎えた。


自然と背筋が伸びるような誘導に従いながら、杏華は店内をぐるりと見渡した。


淡い照明に、静かなピアノの調べ。

テーブルの間隔は広く、隣席の会話が耳に入らないほどのゆとり。

どの客も落ち着いた大人の雰囲気で、自分が場違いなのではないかと思えてしまう。


スタッフが上着を預かり、杏華の椅子を丁寧に引く。

腰を下ろした瞬間、革張りの椅子が静かに身体を包み込んだ。

ガラス窓の外では、ライトアップされた噴水の光が揺れている。


向かいの清水は、この空間に溶け込むように自然に座っていた。

この店に緊張しているのか、目の前の“整いすぎた男”に緊張しているのか——どちらが自分を緊張させているのかは、言うまでもない。


どこに視線を置けば落ち着くのかわからず、杏華は思いつくままに口を開いた。


「…国立部長とは、いつもこんなお店で食事を?」


「ああ。歩が店を選ぶといつもこうなる。気にせず好きなものを頼めばいい」


黒革のメニュー表を開くと、前菜からメイン、コース料理まで整然と並び、値段の桁を見た瞬間杏華は息を呑んだ。


(部長クラスにもなると、これが普通なの…?)


杏華はにわか信じ難い気持ちでメニューを一巡したが、結局、清水と同じものをオーダーすることにした。



°・*:.。.



「乾杯」


清水のグラスに控えめに自分のグラスを合わせると、杏華はようやく息を吐いた。


「……はぁ。本当に終わったんですね。 この一ヶ月、死ぬかと思いました」


「まあな。ゾンビみたいな顔をしてた日もあった」


さらりと笑う口元に、杏華はムッと眉を寄せる。


「……お疲れ様の一言くらい、あってもいいんじゃないですか」


「それは、審査の結果次第だ」


「そういう言い方します……?」


げんなりした声が漏れるけれど、清水はどこ吹く風でグラスをあおった。

その仕草はからかっているようで、なのに妙に色っぽい。


視線をそらそうとすれば、今度は喉仏が上下するのが目に入り、杏華は思わず自分のグラスを持ち上げる。


(なに見てんの、私……)


そんな動揺をよそに、清水がふいに目を伏せた。


「今夜は仕事の話は終わりだ」


テーブルに置かれたグラスの中のシャンパンが、静かに揺れる。


つまり——期待していた一言は、今日はもらえないということだ。


それでも。


向かい合う清水から、いつものような威圧感は消えていた。

淡く照明に照らされる顔は、仕事の鬼の顔でも暴君の顔でもない。


そのことに気づいた瞬間、杏華の胸の奥でほんの小さな綻びが生まれた。


(……なんか、ずるい)


認めたくない気持ちごと、杏華はシャンパンをひと口含んだ。



°・*:.。.



テーブルには次々と料理が運ばれ、静かな時間がゆっくりと流れていった。


杏華はひと口味わうたび、思わず「……おいしい」と零す。

そのたびに清水は言葉こそ返さないものの、柔らかい目を向けながら、無駄のない所作でカトラリーを扱っていた。


互いにこれといって会話を交わすわけでもない。

けれどその沈黙は、杏華にとって不思議と居心地が悪くなかった。


アルコールの香りと料理の温かさに包まれながら、杏華は久しぶりに“何も考えなくていい時間”を噛みしめた。


気づけばコースの皿はすべて運び去られ、ゆったりとした満足だけが胸に広がっていた。


ちょうどそのとき、スタッフが水差しを持って近づいてきた。

水を注ぎ終えたスタッフに、清水がわずかに視線で合図を送る。

スタッフは静かに一礼すると、一度下がり——ほどなくして、伝票を手に戻ってきた。


清水は迷いなくカードを差し出す。

「少々お待ちくださいませ」と会釈したスタッフが離れていくと、杏華はそっと口を開いた。


「あの…お支払い、私も——」


杏華の言葉は、清水がそっとあげた手によって制された。


「女性に出させるのは性に合わない。それに今夜は君の慰労会だと言ったはずだ」


それは淡々とした表情と言葉だったのに、杏華はドキッとした。

“部下として”ではなく、“女性として”扱われたことに気づいたからだ。


それは些細なことのようで、けれど確かに杏華の胸の奥をくすぐった。


清水は手元のグラスの縁を指でなぞりながら、視線だけを杏華に向ける。


「代わりと言ってはなんだが……このあと一杯、付き合ってくれ」


つい一時間ほど前まで、清水と二人で食事など有り得ないと踵を返そうとしたのに。


今は、差し出された提案に鼓動が高鳴るのだ。


杏華はわざとほんの少し迷う素振りを見せたが、次の瞬間には静かに頷いていた。


レストランを出ると、二人は無言のままエレベーターへと向かった。


フロア案内板には「20F Sky Bar Lounge」の文字。


清水の後に続いて乗り込むと、ロビーのざわめきが閉ざされた扉の向こうへ遠ざかり、密閉された静寂だけが残った。


上昇していくフロア表示を見上げながら、杏華は前に立つ清水の横顔をちらりと盗み見る。

レストランでは気まずさはほとんど感じなかったのに、この狭い空間で二人きりとなると、静けさがいっそう胸を締めつけてくる。


「……清水さんと食事して、これからバーなんて……変な感じ……」


心の中のつぶやきが、無意識のうちに漏れていた。


わずかに横を向いた清水のフェイスラインが照明に縁取られて、さっきよりも近い。


「変な感じか。まあ……君はこれまで俺とは、必要最低限しか話そうとしなかったからな」


「そ、そんなことは——!」


反射的に言い返そうとした言葉を、清水が淡々と遮る。


「……まあいい。その分、今日くらいは——君のことを教えてくれ」


杏華は、開きかけた口をそのまま固めた。


(……私のことを、教えて、って……何それ……)


やっぱりバーについてくるべきじゃなかったかもしれない。

この男はどうしていつも、こっちがむず痒くなるような言葉を淡々と投げてくるのか。


胸の鼓動が、エレベーターの静けさにいやに大きく響いた。



°・*:.。.



「……もうそれくらいにしておけ。飲み過ぎだ」


ブルーの間接照明に包まれたバーのカウンター席。


その端の席で頬杖をつく杏華は、赤く染まった頬のままグラスを揺らし、隣からの忠告などまるで耳に入っていない様子で静かに目を閉じる。


「だってぇ……こうでもしないと……清水さんとサシなんて……耐えきれませんからぁ……」


語尾は完全に溶けていて、閉じては開く瞼は今にも眠ってしまいそうなほど重い。


杏華がここまで酔うのは、本当に珍しい。


“一杯だけ” のつもりが、食事のあとということもあってかペースは上がり、会話もろくに浮かばず手持ち無沙汰になり——気づけば酒だけが進んでしまったのだ。


「……ひどい言われようだな。俺は介抱なんてしてやらないぞ」


「ほんっと、冷たい男ですねー、清水さんって」


焦点の定まらない目で清水の方を向きながら言い放つ。


「なんとでも言え。この酔っぱらいが。明日会社で覚えておけよ」


「その顔〜!絶対すっごい量の仕事振るつもりでしょ〜?明日はぜぇ〜ったい残業しませんからねー!」


ふらふらと指を突きつける杏華に清水は小さく息を漏らし、グラスを傾けながら目を伏せる。


「そんなこと言って、君はちゃんとやり切るんだろう」


その声がやけに優しくて、弱い部分が顔を出してしまう。


「……私、ちゃんとやれてますか?」


カウンターに落ちたその声は、このバーの静けさに溶けてしまいそうなほど小さい。


「なんだ。愉快になったり落ち込んだりと忙しいな。君は酔うと面倒なタイプか?」


清水に軽くいなされた瞬間、さっきこぼした弱さが急にくすぐられたように疼いた。

そのくすぐったさを振り払うみたいに、杏華はまた酔った声を放った。


「ちゃんと質問に答えてくださいよ〜ぉ。私、ちゃんとできてますかぁ?」


頬を赤くしたまま、返事を待つように清水を見上げる。


「……素面の状態で言ってやれないことを残念に思うが。そうだな。君が頑張っているのは、この一ヶ月ずっと見てきた。自分のことでいっぱいいっぱいでも仕方ない状況で、後輩の面倒も見ていた。……信頼されているのも納得だ」


「でた〜!清水さんの貴重な飴だ〜!」


またどうせ軽く流されると思っていたのに、真っ直ぐな言葉が落ちてきて胸の奥がじんわりと温まる。

けれどその熱を隠すように、杏華はわざとへらりと笑ってみせた。


上司としての評価にすぎないはずの言葉なのに、酔った身体には甘やかされたみたいに響いてしまう。


ときどき見せる柔らかさは前から知っていたはずなのに——今日はその甘さがいつもより一層近くに感じてしまう。


(……清水さんのプライベートって、こんな感じなのかな…)


酔いの勢いが、胸の奥で小さく背中を押した。


「というか、清水さんって……彼女いないんですか?」


突然の問いに、清水がわずかに眉を上げた。


「……なんだ急に。いないが」


「女嫌いなんですか? 最初会った時、ものすご〜く私のこと見下してきたし」


「……女が嫌いなわけじゃない。俺だって普通の男だ。ただ、媚びて擦り寄るタイプは苦手でな」


杏華はむっと眉を寄せる。


「でも私、擦り寄った覚えないんですけど……?なのに最っ高に嫌な態度だったじゃないですか」


「……あれは君がやたらと威嚇してきたからだ」


「威嚇とか、してないし……!」


杏華がぷいと顔をそらすと、清水がふっと鼻で笑う。


正直、威嚇に近い態度になっていた自覚はある。

チーフの座を奪われて動揺していたのは、自分でも分かっている。


けれど今はその話はどうでもよくて、と杏華は心の中でそっと息を吐いた。


「でもきっと、清水さんは彼女にも冷たくてドSなタイプなんでしょうね〜ぇ」


グラスの水滴を指でぬぐいながら、何気なくそうこぼした。

清水が恋人に甘い顔を見せるなんて想像もつかない。


それはただの好奇心から出た冗談交じりの言葉。


しかしいつまで経っても返事がなく、沈黙が妙に重く感じて耐えれず清水を見ると、視線が絡み、杏華は胸がひどく熱くなるのを感じた。

酒のせいというにはあまりにも鮮烈な眼差しだった。


清水は視線を逸らさず、ゆっくりと頬杖をつく。


「……そう見える男ほど、愛おしい相手にはこれでもかという程甘かったりするものだ」


「…じゃあ、十割が飴、とか…?」


「ふっ。そうかもしれないな」


軽く笑いながら受け返す清水に、杏華はグラスを傾けながらため息を零した。


「…怖かったり冷たかったり、でも優しくて甘くて、どれが本当の清水さんなのかわかりませんね〜」


カラン、と氷同士がぶつかり合う音の合間に、わずかに息を吸うのが聞こえ——


「…知りたいか? 本当の俺というものを」


なんとも興味を引かれるような物言いに、杏華は冗談交じりに笑う。


「なんですかぁ、それ。私が知ることができるんですか?」


「……君が知りたいと言うなら」


「へぇ…どうやったら知れるんですか?」


杏華のその言葉で、二人の間に流れていた空気が一段と色めき立つ。


「そうだな……」


清水は指先でテーブルを一度だけ軽く叩く。

そして瞬き二回分の沈黙が落ちたあと。


頬杖を解いた清水が、迷いのない動作で杏華へ身体を寄せた。

肩が触れ合うほどの距離になった瞬間、杏華の呼吸がかすかに乱れる。


テーブルの上では、杏華の手のそばに清水の無骨な指が落ちてくる。

触れそうで触れず、ただそっと近づけられた。


その距離に杏華は逃げず——むしろ、自ら指先を寄せた。

数センチ先にある薄い唇へ視線が吸い寄せられ、自分でも信じられないほど真っ直ぐに見つめてしまう。


——この指に、この唇に、翻弄されてみたい。


自分がいま、どんな顔をしているのか。

わずかに口を開けて、きっととてもはしたない。

けれど縛られたように、視線を逸らせない。

こんな、いつもと様子の違う杏華は彼の目にどう映るのだろう。


清水の次の言葉が、そのすべてを暴き立てた。


「…そんな風に俺を見て、誘っていると受け取っていいのか?」


いつもならすぐに否定して距離を取るだろう。

けれど今は、どうしてもそうできない。

胸の奥で燻る感情に、蓋をすることはできなかった。


「…清水さんがそう思うなら…」


自分からさらに指先を近づける。


「そうなんじゃないですか?」


それは曖昧さを残すような言葉のようでいて、迷いを捨てた指先が十分過ぎるほどの意思表示になっていた。


けれどその瞬間、姿勢を整え距離を取ったのは清水だった。


「…俺は構わないが、君はいいのか? 俺のことが嫌いだろう」


一瞬で空気が変わり、艶めいた空気が解ける。

杏華はついさっきあまりに大胆な態度を取ってしまった気がして、羞恥をごまかすように空のグラスを口元へ運んだ。


「そーですけどー……黙っていれば顔はかっこいいし、“顔は”嫌いじゃないです」


「褒められているのか貶されているのか分からないな」


清水が肩を軽くすくめるのに、杏華は小さく苦笑した。


浮ついた空気を断ち切ろうと、杏華は手のひらで火照った顔をぱたぱたと扇いだ。

なのに、頬の熱も胸のざわめきも、まるで意地になったように引いてくれない。


その火照りを長引かせている理由が、隣からそっと刺さるように向けられている視線のせいだと気づく。

その気配に誘われるように、杏華は横へ視線を滑らせた。


そこには、さっきよりもはっきりとした熱を宿した清水の瞳が静かに揺れていた。


「まぁ、俺も据え膳を易々見逃すほどできた男じゃない」


低く、湿った声が耳の奥を震わせる。


「…部屋を取る。逃げるなら、今のうちだ」


挑発とも冗談ともつかない低い熱を帯びた声だった。

杏華が何も返せないうちに、清水は席を立ち、そのままバーの出口へ向かっていく。


ぽつんと取り残され、杏華はただその背中を目で追った。


さっきまでの自分の言動が、脳内でゆっくり巻き戻される。


——何がどう転んで、こうなったのか。


酔いで思考がうまく回らない。

けれどひとつだけ確かに覚えていることがあった。


“誘っていると受け取っていいのか?”


そう問われて。


“そうなんじゃないですか?”


と応えたのは、まぎれもなく自分だ。


言わなければよかった。

否定することだってできた。

むしろ本来なら、そうすべきだった。


なのに。


(……まさか、あれを本気に受け取るとは思わないじゃん……)


胸の奥がざわりと熱を帯び、現実感がひやりと肌を撫でる。


これから起こるかもしれない出来事を想像してしまい、

杏華は息を小さく呑んだ。


そして、静まり返ったカウンターでぽつりと心の声が漏れた。


「……嘘。え、ほんとに……?」


自分の声を聞いた瞬間、さっきまで身体を満たしていた酔いが、まるでどこかへ逃げるようにすっと引いていった。


杏華は落ち着かない指先を誤魔化すように、何度もグラスの縁をなぞった。


(……逃げる?)


そう思ってふと立ち上がりかけ——けれどまた席へ沈む。

何度かそれを繰り返しながら、その度にバーの入り口へちらちらと視線を送った。


そしてついに清水の姿が見えた時、杏華はすごい勢いで顔をそむけ、カウンターの上で両手をぎゅっと握りしめた。


杏華はもうどうすれば良いかわからず、ただただ深い呼吸を繰り返していた。


「……なんだ。しおらしく待っているじゃないか」


恐る恐る振り返ると、清水の手にはルームキー。


ゴールドの光沢を放つカードをちらつかせ、どこか獣のような光を宿した目で杏華を見下ろしている。


「君の気が変わる前に、行くぞ」


一拍遅れて杏華は立ち上がった。


酔いは完全に醒めている。

なのに頬はさっきよりも熱く、高鳴る鼓動だけが自分の身体を支配していた。

もう何度目かわからない深い息を吐き、杏華は覚悟を決めるようにその背に続いた。

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