Ep6.惑わせる男


二週目をどうにか走り切り、ようやくこれまで積み上げたものを形にするプレゼン資料作成の段階に入った。


先週がどれだけ余裕のない日々だったのかは、杏華のデスクに置きっぱなしの日めくりカレンダーが、一週間前の数字のまま止まっていることが雄弁に物語っている。


会議室のホワイトボードに貼られた付箋はいくつか剥がされ、残ったわずかな案が生き残りとして中央に寄せられている。

最初の頃に比べれば、確実に前へ進んでいる実感があった。


とはいえ、気が楽になったわけではない。

二週目の混沌カオスが落ち着いた分、今度は精度が問われる週だ。


三週目にもなると、最初あれほど清水に怯えていた田端も多少は慣れてきたように見える。

——いや、慣れたというより、二週目のエナジードリンクと引き換えに置かれた胃薬が効いているだけかもしれない。


佐々木はデザインデータを鬼のように詰め、田端は数字の裏取に追われ、杏華は二人から集まる素材を一つのストーリーへと束ねていく。


もちろん、清水の指摘は止むことがなかった。


けれどその指摘には二週目の槍のような刺々しさはなく、企画の精度を磨くための的確な芯を突く指摘になっていた。

——まぁ、元々“的確すぎる指摘”ではあったが。

これは田端同様、杏華もあの男の物言いにある意味で慣れたということなのかもしれない。


これまでとは違う種類の緊張が、三人の空気をじんわりと締め付けていた。

けれどそんな中、杏華の胸には焦りよりも確かな高揚が同居していた。


企画が形になり始める手応え。

そして、あの背中にどうしても振り落とされたくない、食らいつきたいという闘志。

それに加えて、小さなざわつきが胸の奥で静かに波打っていた。


その“ざわつき”に、杏華ははっきりと思い当たる節があった。


あの夜、ふいに垣間見えた穏やかな眼差し。

いつもの鋭さと違う、柔らかい声色。


——君が欲しいと言うなら、応えてやるだけだ。


あの一瞬だけが、やけに胸に引っかかって離れないのだ。


(…なんなのよ、ほんと)


たった一瞬の表情の緩みに、こんな風になるなんて。

——あの日、飲み会で清水を囲んでいた女性たちと同じだ。


(全然、そんなんじゃないし)


自分自身に言い聞かせるみたいに、心の中で小さく舌打ちした。



°・*:.。.



三週目も怒涛に過ぎ去り、プレゼン本番はついに明後日に迫っていた。


ここ数日は毎日、本番さながらのリハーサルが続いている。


「はぁ~……もう完璧なんじゃないですかねぇ……」


十八時になると同時に、佐々木が背もたれにぐったり寄りかかりながら伸びをする。


「……清水さんがいたら、また何か言われそうですけど……」


机に項垂れた田端が、弱々しくそう漏らした。


杏華はタブレットをスクロールしながら小さく頷く。


確かに、全体の流れは掴めてきた。

けれど、細かい“間”や“言い切り方”、視線の置きどころ——そういう部分にはまだ不安が残っていて、本当は清水に見てもらいたかった。


だが、清水は午後から不在のままで、それも叶いそうにない。


杏華が椅子に腰を下ろすと、疲労のにじんだ静かな沈黙が落ちた。

そんな中、田端がおそるおそる口を開く。


「……えっと……今日は、もう……上がります、か……?」


「あ、うん。そうだね」


そう返した瞬間、佐々木がギロリとした目で杏華に人差し指を突き立てた。


「杏華さん、そう言いながらも残るつもりでしょう……ダメです!帰れる日はちゃんと帰らないと!」


「そうですよ。ここ最近、毎日残業三昧なんですから」


田端もいつになく真面目な顔で続く。


言われてみれば、本当にずっと走りっぱなしだった。

残業が当たり前になって、“定時上がり”なんて言葉はすっかり忘れていた。


ふうっと大きくひと息つき、杏華は椅子の背にもたれ天井を仰ぐ。

そして勢いをつけて上体を起こすと、


「……帰りますか」


と、少しだけ肩の力を抜いたような声が漏れた。


佐々木と田端はほっとしたように笑い、荷物をまとめ始める。


杏華はスマホを手に取ると、迷わず拓海にメッセージを送った。


『今日は定時で終われた!』


こういう日に限って拓海は残業なんだろうな——そう思った矢先、メッセージにすぐ既読がつく。


『ナイスタイミング。俺もちょうどあがるとこ。エントランスで会お』


期待をいい意味で裏切られ、胸の奥がふっと緩んだ。


杏華が一階に着くと、エントランスのソファに座り、ガラス越しに外を眺める拓海の姿があった。


佐々木と田端の話し声に気づいた拓海が振り返り、顎をしゃくってこちらに合図を送る。

二人と手を振って別れたあと、杏華は拓海の前で立ち止まった。


「よっ。お疲れー」


テンションが高いわけではないのに、不思議と肩の力が抜けるその声に——今日は切り上げてよかった、と杏華は思った。

同じ会社にいるというのに、この数週間まともに顔を合わせていなかった。

昼休憩さえ返上して会議室にこもり続けていたなんて、清水には絶対言えない。


「そろそろガス抜き入るかなって思ってたんだよな」


「今日は偶然だよ。佐々木たちに“帰れ”って言われちゃって」


「そういう日も必要必要。で?何食べたい気分?」


「んー…どうしよっかな。肉?魚?いや、もうビールが飲めたらなんでも…」


頭の中でビールを呷る自分を想像しながら、拓海と並んで外に歩き出した、その時だった。


自動ドアが開き、こちらへ入ってくる長身の影が視界に入る。

そのシルエットを捉えた途端、杏華の背筋は、意思とは無関係にすっと伸びた。


杏華に謎の緊張感を与えている主は、手元の小さな手帳に目を落としていてこちらにはまだ気づいていない。


(……気づかれませんように)


すれ違うのは避けられないのに、反射的にそんなことを考えてしまう。



「お、清水さん」


杏華のモヤついた思考を、スマホから顔を上げた拓海の何気ない声がさらにざわつかせた。


あえて声をかけるなんて——と気付かれないようにため息を零す。


呼ばれた清水は顔を上げ、手元の手帳をパタンと閉じてこちらに向かってくる。


杏華が「お疲れ様です」と静かに会釈すると、二人の前で足を止めた。


「今日のプレゼンの練習は問題なかったか?」


清水の声は、いつも通りの落ち着いた調子で、特別な感情は読み取れなかった。


「…まだ不安な点はあるので、明日また見ていただきたいです」


杏華がわずかに頭を下げると、清水は「ああ」と短く返し、その視線はもう杏華を離れていて、隣の拓海に流れていた。


その視線を受けて一瞬だけ声が詰まったが、拓海はすぐに気さくな笑顔を作った。


「…あ、えっと…同期の安積がお世話になってます」


誰目線の言葉なのよ——

杏華は拓海の横顔に“余計なこと言わないで”と言うように、じとっとした視線を送る。


けれど清水それには特に言葉を返さずに短く頷くと、再び口を開いた。


「今日は飲み会か?」


「はい、プレゼン本番前の願掛けっすね。パーっと一杯行ってきます」


手でジョッキを傾けるようなジェスチャーを作りながら笑う拓海に、清水は眉を動かした。


「そう言うのは普通、終わってからするものじゃないのか?…まぁいい。あまり飲みすぎるなよ」


そう言い終えると同時に、清水はもう杏華を見ることもなく歩き出していた。

その横顔を少しだけ追いかけた後、杏華は胸の奥に何か引っかかりを感じた。


けれど、「行こうぜ」と言う拓海の明るい声に引かれ、杏華は歩き出した。


「いや~会議で見た時も思ったけど、普通にしてても圧がすげーな」


自動ドアを抜けるなり拓海が軽く笑いながらそう零し、杏華は目を細めた。


「それなのによく話しかけたわね」


「いやぁ、なんかすげぇ見られたからさ、黙ってるわけにもいかねぇじゃん?」


名前と顔くらいは知っている程度の相手にも気軽に声を掛けられるのは拓海の長所だ。

そのコミュニケーション能力の高さに、飲みの席では何度も助けられている。


肩を竦めてみせた杏華に、拓海が「というかさ」と顔を傾ける。


「さっきの杏華、やけに静かじゃなかった?」


「えっ?そう?そんなつもりないけど」


不意を突かれ、思わず上擦った声が“YES”と言っているようなものだ。


こういう時の拓海は妙に的確なところを突いてくるし、しかもなかなか引いてくれない。

今だって、「そっか」の一言で済ましてくれればいいものを、勘繰るような目を向けてくる。


「なんか今まで聞いてた感じだと、気軽に言い合い始まったりすんのかと思ったのに。清水さんのことじっと見てるくせに、なにも言わねぇんだもん」


「言い合いって…そんなのしないよ。しかも、別に見てなかったし」


「ふうん?」


見ていた自覚は、ある。けれど目の前にいて会話をしていたのだから、見ない方が不自然だ。

でも意地になってそう言い返すのは得策ではない気がした。

それに、はっきり「見てた」と指摘されたのがとにかくむず痒い。


「……毎日一緒だし、わざわざ話すことないよ」


「へぇ?」


その反応に、胸の奥がざわつく。

拓海の顔を見ていられなくて、杏華は無意識に歩幅を少しだけ早める。


「もういいじゃん。あの人の話はやめよ」


無駄に勘の鋭い拓海だ。これ以上は杏華の気持ちを言い当てられてしまいそうで。

——“なにを”言い当てられるのかと自問するが、それも頭を振って掻き消した。


「……はいはい。了解」


拓海はすぐに杏華に追いつくと、それ以上はなにも言わなかった。



°・*:.。.



結局駅前に着いても店は決まらず、杏華たちは適当にチェーン店の居酒屋に入ることにした。


今夜は飲むし、愚痴る——そう意気込んでいた杏華だったが、カウンター席で肩を並べると、どちらも思った以上に口数は少なかった。


拓海はきっと、杏華のテンションに合わせてくれている。

その気遣いが分かるぶん、余計に申し訳なさが胸に沈んだ。


気分がどこか重いのは、明後日に控えたプレゼンへの緊張——そう思いたかったが、沈黙が訪れるたびに浮かぶのは、さっきのエントランスでの清水の態度だった。


必要なことだけ話して、すぐ拓海の方へ視線を移した、あの感じ。

そっけないのは清水の“普通”だ。

最初に会った日の印象だって、あれで決まった。


(それなのに…)


ほんの少しだけ柔らかく見えた“あの日”のせいで、今日の冷たさがやけに刺さる。

何かを期待していたわけじゃない。

気にする必要もないのに。


(……どうでもいいのに)


「おーい、杏華?聞いてる?」


目の前で手のひらが揺れ、杏華の意識は店内のざわめきに引き戻された。


「え、あ、ごめん、なんだっけ?」


「おい大丈夫か?なんかぼーっとしてんな、今日」


「…そう、かな…」


「まぁ、疲れてるよな」


グラスの中のレモンをマドラーで沈めながら拓海が笑い混じりにそう呟く。

杏華は曖昧に笑い返し、同じようにグラスを見つめた。


誘ったのは自分なのに、気を遣わせてしまっている。

今夜は周りの賑やかな笑い声も、杏華の気分を上げてくれそうにない。

むしろこの賑わいが、二人の静けさを逆に際立たせていた。



°・*:.。.



店を出ると夜風が火照った頬を撫でた。


スマホを確認するとまだ二十時にもなっていないことに驚いた。

いつもなら一軒目を出る頃にはもう二十一時なんてざらなのに。

今夜は二人とも言葉数が少なかった分、酒は進んでも時間は経っていなかったらしい。


「…まだ八時だって。二軒目、行く?」


「んー…」


二軒目に行っても、居酒屋での空気から劇的に変わることはない。

そもそも、あの微妙な空気を作ったのは自分の方なのに——よくもまあ“二軒目”なんて口にしたものだ、と杏華は胸の奥でひっそり自嘲した。


拓海もそれを察しているのか、曖昧な返事だけを残し、しばらく肩を並べて歩いた。


普段なら、拓海との沈黙は気まずくもなんともない。

むしろ落ち着く時間ですらあった。

なのに今日は、どこかぎこちなくて息が詰まる。

浅い呼吸を誤魔化すように一度深く息を吐いてみても、その張り詰めた感じは消えてくれなかった。


——今日は、このまま解散でもいいかもしれない。


そう思いかけた時、拓海の肩がふっと近づいた。


そして、不意に互いの手が触れる。


「あ、ごめん」


杏華は無意識にそう謝り、自分の手を引こうとした。


けれど——


拓海の指が杏華の手を追い、そのままそっと指先を取る。

一瞬躊躇うように力が抜けた後、静かに指が絡められた。


「……っ」


驚きのあまり立ち止まりそうになるのを、繋いだ手がそっと引き留めた。


拓海はなにも言わない。

軽口のひとつ飛んでくるかと思ったが、いつまでも無言のまま歩を進める。


こうして手を取られたのは初めてだった。

もちろん嫌ではない。

これ以上の触れ合いを許している仲だ。手を繋ぐのが嫌なはずがない。

むしろ、この温かさに安心を覚えるほどだ。


けれど同時に、この安心感が酷くくすぐったい。

拓海の顔を見ることができず、杏華はただ前を向いた。


ふと、拓海の手に力がこめられたのに気付いたけれど。


それでも杏華の指先は、触れ返すことのないままだった。


握り返すのは、自分の気持ちに嘘をつくようで。

この場の雰囲気に身を任せた、みたいになるのがどうしても嫌で。

二人の関係なんて、その瞬間の勢いで成り立っているようなものなのに。


今夜はそれが許されないのは、拓海が触れる温度が、いつもと少し違う気がしたから——


杏華は結局、その手を握り返すことだけはできなかった。



°・*:.。.



ピンクのネオンライトの下に着くと、自然と手は離れていった。

拓海が振り返り、ようやく視線が交わる。

先に逸らしたのは杏華だった。


それは、この先に進むことを拒否しているわけではない。

ただ、なにを言えばいいのかわからない。


視線だけ足元に落とすと、視界の端で革靴の踵が先へ進むのが見えた。


杏華はそっと息を吐き、後に続いた。


部屋に入った瞬間、背後から温かな熱に包まれた。


驚きで小さく息を吸った杏華の細い吐息ごと、拓海の腕が逃さず抱き寄せてくる。

肩を包む手は思い詰めたみたいに強く、頬が触れるほどの距離で彼の吐息が首筋をかすめた。


「…拓海?」


そっと腕に触れた指に、返事の代わりのように首筋へキスが落ちた。


湿り気を帯びた温度がじわりと広がり、続いて低く掠れた声が耳元をなぞった。


「…今日のお前…なんか、遠い……」


どういう意味か、杏華が聞き返すより早く、舌がゆっくりと首筋を這い耳朶を甘く噛まれる。


「…っ、ふ…」


反応を確かめるように、拓海は何度も杏華の首筋を舌で辿る。

ふと、いつものシトラスの香水の香りが鼻をくすぐった。


そのはずなのに——

同時に脳裏をかすめたのは、タバコと夜気の空気の香りだった。


(……どうして、今それを…)


その香りが誰のものか、考えるまでもない。

思い浮かべたくもないのに、浮かんでしまった。


顎を指で掬われ、顔を横へ向けさせられる。

すぐに拓海の唇が重なって、最初から深く求められた。


「……んん…」


杏華はわずかに身体を預け、その熱に応えようとする。


けれど——


目を閉じた瞬間、瞼の裏に浮かんだのは目の前の男ではなかった。


——あの人なら、どんな風に触れて、どんな風にキスするんだろう。


(…やだ…何考えてるの、私…最低…)


拓海は杏華の変化に気づいたのか、触れるか触れないかの距離のまま囁いた。


「…ほら、やっぱりなんか上の空じゃね?」


「…そんなこと、ないよ……」


「ふうん」


短いその声には、隠しきれない不機嫌さが滲んでいた。

次の瞬間、ぐっと押されてベッドに倒れ込んだ。


拓海の手が迷いなく杏華のブラウスの裾を持ち上げ、そのまま胸元まで捲り上げる。

露になった肌に熱い唇が触れ、温かい舌が腹部をゆっくり這うと杏華は反射的に腰を浮かせた。


「…っ…」


触れられれば身体は正直に反応する。

息が揺れる。

でも——その反応に心がついてこない。


拓海の指先が腰のラインに沿ってゆっくり撫で上げる。


杏華が気持ちいい場所を拓海はよく知っている。

杏華より、杏華の身体を知っている。


舌も、唇も、指も、確かに甘い刺激を与えるのに——

胸下に触れた手がぐっと上へと滑り、下着越しに膨らみを撫でられた瞬間も、心はどこか遠いままだった。


「…杏華」


ちゅっ、ちゅっ、と肌に短く吸い付くキス。

その合間に落ちた低い声は甘さと切なさを孕んでいた。


拓海が顔を上げ、杏華を真っ直ぐに射抜く。


「……なぁ、今、杏華を抱いてんのは誰?」


拓海はゆっくり身体を起こし、杏華に覆い被さるようにして見下ろした。

薄暗い部屋の中で、その瞳は熱を帯びて揺れている。


下着の中へ滑り込んだ指が胸のラインをなぞり、そのまま硬くなりかけた突起を軽く撫でた。


「…っ、ん…」


「答えて」


低く落ちる声が耳を打つ。


「…なに…言って…」


顔ごと視線を逸らした瞬間、顎を指で持ち上げられ簡単に戻される。

その力は強くはないのに、逃げられない。


「ちゃんとこっち向けよ。……俺を見ろ」


その言葉の熱に撃ち抜かれたように喉が微かに鳴った。


——誰に抱かれてるのかなんて

——俺を見ろなんて

——こんな関係なのに


「……拓海のくせに…そんな風に言わないでよ」


拓海の指先が顎に触れたまま止まった。

杏華を見下ろす深いブラウンの瞳は、冗談一つない熱で揺れている。


「じゃあこんなこと、言わせんなよ」


その言葉を言い終えると同時に、唇が深く重なった。


杏華を強く求めるような。

そして、今彼女の中にある迷いを全てかき消すような、そんなキスで。


「…ん……っ…」


降り注ぐ熱に縋るように、心がどこか別の場所へ行ってしまわないように、杏華は拓海の胸元のシャツを掴んだ。


拓海はそれに応えるように杏華の背中に腕を滑りこませ、ぐっと抱き寄せる。


そのまま杏華の身体を起こすと膝立ちにさせ、スカートを捲り上げる。

ストッキングとショーツは同時にずり下ろされ、熱い指が秘部に触れた。


上の空を言い当てられるほど心はどこか遠くにあったのに、こうして触れられると、自分でも恥ずかしいほどにそこはすでに湿り気を帯びていた。


割れ目をなぞっていた指はあっさりと内部へ侵入し、杏華の中を執拗に刺激する。


「…んあぁっ……」


すぐに達した杏華は、そのまま脱力するように拓海へ倒れ込んだ。

拓海は力なく傾く杏華の身体を支えるように腕を回し、ゆっくりベッドへと押し倒した。


「ごめん…余裕ねぇわ…」


囁く声はさっきよりも低く熱がこもっていて、杏華の胸の奥を震わせる。


触れられたところから火がつくように、身体は拓海を求めるように跳ねるのに、心は今もなお追いついてこない。


(…なんで……こんな…)


太ももを這う拓海の手がぞわりと肌を粟立たせる。

一度達した身体は些細な刺激にも敏感で、杏華が微かに身を捩ると拓海の手が逃さないように押さえ付ける。


「…杏華…」


名前を呼ぶ声が、いつもと違う。

熱くて、乱れていて、どこか必死で。


拓海は杏華の敏感な部分に指を滑らせながら、もう片方の手で器用にシャツのボタンを外していく。

露になった筋肉質な身体をぐっと近づけると、小さな袋を口で破った。


拓海はそのまま杏華の脚をゆっくりと開かせ、腰を寄せる。


知った温度、知った感覚のはずなのに、身体は強張り腰が引けてしまう。


嫌じゃない。そうじゃない。

拒む理由なんてないのに。

杏華はシーツを強く掴んだ。


(…違う……違うのに…)


拓海の身体が一息にのしかかると杏華の身はベッドに深く沈み込み、その熱を受け入れた。


「……っ、あ…っ…」


拓海は杏華の身体を抱き寄せるようにして動き、杏華はただその快楽に呑まれていった。


その夜、拓海は何度も杏華の名前を呼んだ。


けれどその切羽詰まった声で呼ばれるたび、杏華は自分が遠くなっていく気がした。


心の空白を埋めるはずの行為なのに——

埋まるどころか、その空白だけが鮮明になっていくようだった。


拓海の腕の中で浅い呼吸を繰り返しながら、杏華は天井を見上げた。


(……私、なにしてんの…)


疲労と快楽の余韻に包まれているのに、胸の奥だけが妙に静かで冷たい。


求めたのは温度で、寄りかかったのは優しさで。

でも——埋めたかったのはきっと、これじゃなかった。


拓海と繋がっていても、瞼の裏に浮かんだのは彼ではなかった。


(…最悪。ほんと、最悪)


なにを紛らわせたのかも、なにに揺れているのかも、考えたくない。


ただ胸の奥に残ったざわつきだけが、静かに杏華の胸を締め付けていた。

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