思い出をつなぐカセットテープ

安珠あんこ

思い出をつなぐカセットテープ

 イエローの日産フィガロの助手席には、いつも妻の奈央が座っていた。

 今は、そこに一つの小さなカセットテープが置かれている。

 陽の光を受け、銀色のラベルがかすかに光った。


 エンジンをかけると、年季の入った車体がかすかに咳き込むように震える。

 平成の初め、レトロな見た目が気に入った私たちは、迷わずにこの車を選んで購入した。

 錆びたドアも、走行中にギアの軋む音も、もう私たち二人の「暮らし」そのものだった。


 私は後部座席からラジカセを取り出し、テープを差し込む。

 カチリと音がして、やがて柔らかなピアノの旋律――ショパンの「別れの曲」が流れ出した。

 若かった頃、二人で海辺の駐車場に停めたこの車の中で、夕陽を見つめながら聴いた曲だ。

 潮風が吹き抜け、奈央の髪が頬に触れたあの日。

 

「この曲、『別れの曲』ってタイトルだけど、私には旅立ちの曲みたいに聴こえるの。旅に出る覚悟を決めるための曲みたいにね」


 奈央が優しく微笑みながら私に語りかけてきたのを思い出す。


「そうだね。これからの二人の旅の始まりに、ぴったりな曲だと思う。こんなふうに、僕たちの旅の軌跡を音楽で残していけたら面白いね」

 

「そうね。そしたら、私たちが歳をとってからも、こうして一緒に音楽を聴いて、人生の旅路を振り返れるものね。うん、そうしよう、浩介」


 そう言って、優しく笑った彼女の声が、今も私の耳の奥に残っている。


 ◇◇◇


 私が奈央を失って三ヶ月が経っていた。

 静かになった家に戻るたび、私の脳内に残る彼女の声が胸を締めつけた。この声が、やがて私の記憶から薄れていくのが、たまらなく怖かった。

 だから、私は奈央と約束していた「日本横断の旅」を、彼女の愛した音楽たちと共に行うことに決めたのだ。


 こうして、私の青森から鹿児島までの旅路が始まった。

 旅の途中、フィガロの助手席に置いたラジカセでは、いつもカセットテープが回っていた。すでに車載のカセットデッキは故障していたので、私はこの電池で動く古いラジカセを車に載せて移動していた。

 奈央の好きだった音楽を順番に流しながら、私はその音に導かれるように道を進んだ。


 二曲目は、ビリー・ジョエルの「Honesty」。

 これは、私たち二人が初めて本気でケンカした時の曲。

 この時は、お互いを気遣うあまり、素直になれずにすれ違ってしまった。

 そして翌朝、奈央が笑いながらこの曲をかけて、私に話しかけてきた。

 

「ねえ浩介、夫婦って、仲良く過ごすのって案外難しいのね」

 

 私はコーヒーを飲みながら答えた。

 

「そうだな。でもケンカもしない人生なんて、きっと退屈だよ」

 

 奈央は少し照れたように笑って言った。

 

「そうね。ケンカの日も、二人で生きた大事な一日。忘れないように、ちゃんと覚えておきましょう」

 

「まるで、カセットテープに録音するみたいに?」

 

「ええ、思い出を一曲ずつ残していくのよ」

 

 そう言って奈央は、窓の外に視線をやった。朝の光が、彼女の髪を金色に照らしていた。


 ◇◇◇


「大変そうだね。よければ、私が車で送ってあげようか?」

 

 新潟の港町で、私は一人の少年に声をかけた。

 パンクした自転車を押しながら歩くその姿が、どこか昔の自分と重なったからだ。


「おじさん、いいの?」


 少年は驚いた顔をしてから、うれしそうに私に問いかけてきた。


「もちろんだよ。でも、さすがに自転車は乗らないから、後で親に取りに来てもらってね」


「うん、わかった」

 

 彼を車に乗せて家まで送るあいだに、後部座席に置いたラジカセから、ビートルズの「Here Comes the Sun」が流れた。


「この曲、初めて聴いたよ。明るいのに、ちょっと泣きそうになる曲だね」

 

 少年の言葉に、私は胸の奥がきゅっと締めつけられた。

 奈央も昔、同じような感想を言っていたからだ。


「そうだよね。私の妻もそう言っていたよ」

 

 私は、涙が溢れそうになるのを必死に堪えながら、運転を続けた。

 

 別れ際、少年が手を振って言った。

 

「ありがとう、おじさん。おばさんにもありがとうって言っといて」

 

 その言葉が、穏やかな波の音のように優しく私の心に残った。


 ◇◇◇


 岐阜の山道を走る途中、ラジカセの中のカセットテープが絡まり、音が止まった。

 テープを取り出すと、薄茶色の磁気テープが切れかけていた。

 給油するために立ち寄ったガソリンスタンドで鉛筆を借り、老眼鏡をかけながら慎重に引き出したテープを巻き直す。


「どうしてこんな小さなものに、あの頃の二人の思い出が詰まってるんだろうな……」


 そんな私の独り言を聞いた、ガソリンスタンドの店員が笑って答えた。

 

「思い出ってそういうもんですよ。そのカセットテープと同じで、ちょっとぐらい壊れても、ちゃんと直せるし、巻き戻すこともできます」


 その言葉に、私はふと気づいた。


 思い出は、壊れたら終わりではない。形を変えても、何度でも心の中で巻き直し、再生できる。この、引き出したテープを鉛筆で巻き取る動作のように、過去の記憶を指先で丁寧に辿り直して――。


 そして、奈央はまだ私の記憶の中にいる。そんな確信が、私の胸に宿った。


 ◇◇◇


 鹿児島の海に辿り着いた日、カセットテープはとうとう切れて、再生できなくなった。

 

 最後の曲の途中で、音が止まった。

 けれど、代わりに波の音が穏やかにリズムを刻んでいる。


 私はラジカセを助手席から取り上げ、空のカセットテープをセットする。

 そして、波の音と、フィガロのエンジン音、そして自分の息づかいを録音した。


「……奈央。俺は生きていくよ。お前が好きだった、海の音とともにね」


 録音ボタンを止めた瞬間、潮風が頬を撫でた。

 それはまるで、奈央の手のぬくもりのようだった。


 ◇◇◇


 エンジンをかける。

 黄色いフィガロはゆっくりと南の道を走り出す。

 バックミラーの中で、夕陽がカセットを金色に染めた。


 そして、私たちに、新しい音が生まれた。

 それは、私と奈央が積み重ねてきたすべての思い出をつなぐ、まだ名前のない、二人の人生の続きの音楽だった。

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