第6話 揺れる立ち位置

 その日は、朝から雨だった。

 細かく、長く降り続く雨。街の輪郭が、少し曖昧になる。


 小百合は傘を差し、支所へ向かって歩いていた。

 水たまりを避ける歩き方は、もう身についている。


 入口の前で、警備員が声をかけてきた。


「今日は、少し騒がしくなりそうですよ」


「……何か、ありましたか」


「探索者同士の、意見の食い違いです」


 その言い方に、小百合は足を止めた。


 会議室では、数人の探索者が集まっていた。

 空気が、張りつめている。


「だから、放っておくのは危険だと言っている!」


 中堅の男性探索者が、机を叩いた。


「介入しなかった結果、

 被害が出たらどうする!」


「でも、香月さんが――」


 若い探索者が言いかけて、言葉を止める。


 全員の視線が、小百合に向いた。


 霧島が、間に入る。


「落ち着け。今日は意見交換だ」


 男性探索者は、深く息を吐いた。


「……すみません」


 それでも、視線は外れない。


「香月さんに聞きたい」


 その声は、挑むようではなかった。

 むしろ、縋るようだった。


「本当に、何もしない判断でいいんですか」


 小百合は、すぐには答えなかった。


 雨音が、窓を叩く。


「……全部ではありません」


 静かに言う。


「何もしない、は選択肢の一つです」


「でも、それは……」


「責任が、曖昧になります」


 はっきりと告げた。


 場が、静まる。


「私が何もしないと言ったとき、

 それは“安全”ではありません」


 視線を上げ、一人ひとりを見る。


「“今は、触らないほうがいい”というだけです」


「結果が悪かったら?」


「……それは、判断した全員の責任です」


 重い言葉だった。


 霧島が、ゆっくり頷く。


「誰か一人に預ける判断じゃない」


 男性探索者は、拳を握りしめた。


「俺たちは……

 正解が欲しいんだ」


 その声は、弱かった。


 小百合は、胸の奥が少し痛んだ。


「正解は……」


 言葉を探す。


「あとで、分かるものです」


 今ではない。


 会議は、それ以上進まなかった。

 結論は出ないまま、解散となる。


 廊下で、若い探索者が追いかけてきた。


「香月さん」


「はい」


「……怖くないんですか」


 小百合は、少し考えた。


「怖いです」


 即答だった。


「でも、怖いからといって、

 動くと壊れるものもあります」


 若い探索者は、黙って頷いた。


 帰り道、雨は小降りになっていた。

 水たまりに、街灯が映る。


 前世では、判断は一人で下していた。

 誰も、異を唱えなかった。


 今は違う。


 揺れる立ち位置。

 期待と不安の、真ん中。


 家に帰ると、母が言う。


「今日は、疲れた顔してる」


「……はい」


「無理してない?」


 少し、迷ってから答える。


「無理は……してます」


 母は、微笑んだ。


「それなら、今日は早く寝なさい」


 夜、布団に入る。

 雨音は、もう聞こえない。


 小百合は、天井を見つめた。


 自分は、中心ではない。

 正解でもない。


 それでも、ここに立っている。


 揺れながら、迷いながら、

 誰かと一緒に考える立場。


 それが、この世界での役割なのだと、

 少しだけ理解できた気がした。


 香月小百合は、目を閉じる。


 揺れる立ち位置でも、

 足元は、まだ崩れていない。


 明日も、世界は回る。


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