第三章: 鏡合わせの真実

「真実の……記録?」



​誠司は呆然と、クロが差し出した黄金色の瓶を見つめた。その瓶は、店内の薄暗い光を吸い込み、明滅しているかのように見えた。



クロがその細い指先で静かに栓を抜くと、先ほどの灰色とは対照的な、柔らかな香りが溢れ出した。それは加代子が元気だった頃に愛用していた、沈丁花の香水の匂いだった。



​「佐藤様。真実とは時に、偽りよりも鋭く心を切り裂きます。目を背ければ、あなたは一生『加害者』として、ある意味で楽に生きられる。それでも、真の絶望をご覧になりますか」




​「……見せてくれ。俺が、本当は何を失ったのかを。あの日、何が起きたのかを」



​黄金色の光が蓄音機のホーンに吸い込まれ、壁をスクリーンにして、新たな記憶が投影された。



だが、映し出されたのは三ヶ月前ではなく、さらにその半年以上前、二人がまだ自宅で過ごしていた頃の光景だった。



​――キッチンで、誠司が慣れない手つきで粥を煮ている。



かつては大企業の重役として、数億円の予算を動かしていたその手は、今や一袋数十円のレトルト粥を鍋に移すだけで震えていた。



『加代子、お昼だよ。今日は君の好きな卵粥にしたよ。少し熱いから気をつけて』



誠司が居間へ粥を運ぶ。だが、そこにいたのは、愛する妻ではなかった。



​『……誰よ、あんた。勝手に人の家に入ってこないで!』



​加代子の瞳には、愛の色など一滴も残っていなかった。そこにあるのは、見知らぬ男に向けられた剥き出しの恐怖と、病ゆえの凶暴さだった。



『出て行って! 泥棒! 人殺し! お父さん、助けて! 誰かこの人を追い出して!』



​彼女は叫び、誠司が差し出した粥の茶碗を力いっぱい叩きつけた。熱い粥が誠司の腕に飛び、床にぶちまけられる。誠司は「あつっ」と声を漏らすが、加代子はさらに、近くにあった重い新聞立てを誠司の顔めがけて投げつけた。角が誠司の額に当たり、血が滲む。



​店内でそれを見ていた誠司は、息を呑んだ。



「……違う。俺の記憶では、俺が彼女を突き飛ばして、俺が彼女を罵倒したはずだ……」



​「いいえ。あなたは、一度も彼女を突き飛ばしてなどいません。どんなに罵られても、どんなに暴力を振るわれても」



​映像の中の誠司は、粥で赤く腫れた腕を隠しながら、床に跪き、加代子が投げ散らかしたものを一つ一つ、黙々と拾い集めていた。



『ごめんね、加代子。怖がらせてごめん。……大丈夫だよ、俺はどこにも行かないから。君が俺を忘れても、俺が君を覚えているから。俺たちが過ごした三十年を、俺が全部持っておくから』



​誠司は泣きそうな顔で笑っていた。その献身は、聖者のそれというよりは、崩れ落ちそうな自分を必死に支える、血の滲むような執念に近いものだった。



​記憶の断片は、ついにあの「最期の日」へとたどり着く。



​病室。



誠司が椅子に座ったまま、うたた寝をしている隙に、加代子の意識に、奇跡のような「凪」が訪れた。



脳を覆っていた霧が晴れ、彼女は自分がしでかしてきたすべてを思い出したのだ。



​隣で眠る誠司の指には、彼女が昨夜、理性を失って噛みついた生々しい傷跡があった。彼の頬は不健康にこけ、白髪は乱れ、その姿はかつての快活な夫の影もなかった。自分のために、彼はすべてを捧げ、心身ともにボロボロになっていた。



​『……ああ、お父さん。私、なんてことを……』



​加代子は声を殺して号泣した。自分が彼を壊した。自分が彼の余生を地獄に変えた。このまま自分が死ねば、誠司の中に残るのは「狂った妻に人生を奪われた」という被害者としての憎しみと、介護の惨めな記憶、そして空虚な解放感だけだ。



​『そんなの嫌……。彼には、私のことを、愛していた記憶のままいてほしい。……私を憎んでいつか忘れるくらいなら、私への罪悪感で、私を永遠に刻んでほしい。彼を、独りにさせたくない』



​加代子は、どこから手に入れたのか枕元に隠していた「追憶堂」のカードを握りしめた。彼女は店主を呼び出し、自らの命の最後の輝きそのものを対価として、ある契約を申し出たのだ。



​『クロさん。私の「夫を傷つけた記憶」を全部買い取って。代わりに、彼の中に「彼が私を傷つけた」という偽の記憶を植え付けてほしいの。……彼は、自分が被害者でいることを許せないほど、あまりに優しい人だから。加害者という十字架を背負わせれば、彼はその重みを私の温もりだと信じて、死ぬまで私を離さないわ。……私は、死んでも彼の愛に縛られていたいの』


誠司は、映像の中の加代子が、眠っている自分の額の傷跡にそっとキスをするのを見た。



『さよなら、誠司さん。……ごめんなさい。……ずっと、愛しているわ。だから、私を忘れないで』



​映像が消え、店内に静寂が戻った。



誠司は、あまりの衝撃に立ち上がることさえできず、ただ自分の傷だらけの手を見つめていた。



自分が背負ってきた、あの忌まわしい罵声の記憶。冷たいコップが割れる音。加代子の絶望した顔。



そのすべてが、彼女が誠司を守るために――いや、自分を忘れさせないために仕掛けた、究極に利己的で、究極に献身的な「愛の嘘」だったのだ。



​「……残酷だ。あんまりじゃないか、加代子……」



​誠司は、搾り出すような声で呟いた。



自分を悪者に仕立て上げてまで、夫の心の中に「永遠の傷」として居座ろうとした妻。その愛の重さに、六十八歳の男は、ただただ震えることしかできなかった。

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