第二章: 死を願った残響



クロの指先が誠司の側頭部に触れ、銀のピンセットが虚空を掴む。すると、誠司の耳元から灰色の光が、抵抗するように引き摺り出される。それは不気味な脈動を打ちながら、カウンターに置かれた古い蓄音機へと吸い込まれていった。



​「……あ……っ」



​誠司は喉を鳴らし、カウンターに身を乗り出した。



蓄音機のホーンから、音と共に「景色」が、霧のような映像となって壁に映し出される。それはセピア色に煤け、ノイズの走る、三ヶ月前の病室の光景だった。




​――夏の昼下がり。遮光カーテンの隙間から、陽光が差し込んでいる。



ベッドに横たわる加代子は、数年前の面影を微塵も残していなかった。若年性認知症を併発した彼女の肉体は、病魔に食い荒らされ、白いシーツの皺の中に埋もれるほどに萎びている。



パイプ椅子に座る誠司は、生気のない目で窓の外を見ていた。



六十八歳。本来なら定年退職を祝い、加代子と二人で豪華客船にでも乗り、忙しくてできなかった「夫婦の時間」を謳歌しているはずの年だった。しかし現実は、二十四時間、いつ終わるとも知れない「排泄と食事と徘徊」の監視に明け暮れる日々。



かつて会社で何百人という部下を指揮し、スーツを隙なく着こなしていた男が、今や一人の女が漏らした尿の始末を、震える手で、涙を流しながら行っている。



その惨めさ、その閉塞感。



​誠司の記憶の中の「自分」は、もう限界だった。



三日三晩、まともな睡眠を取っていない。加代子は夜中に何度も起き上がり、「お母さんが待っているの」と玄関へ向かおうとする。そのたびに彼女の細い手首を掴み、ベッドへ押し戻す。その時、誠司の指には、彼女の抵抗による引っ掻き傷が絶えなかった。



疲れ果てた心の隙間に、自分でも恐ろしいほどの殺意が芽生えていた。それを自覚するたびに、誠司の心は摩耗し、ひび割れていく。



誠司の脳裏には、皮肉にも介護が始まる前の、輝くような日常がフラッシュバックしていた。



日曜の朝、加代子が淹れるコーヒーの香り。彼女が庭の植木を世話し、誠司が新聞を読む、そんな当たり前の光景。あの頃の加代子は、笑うと目尻に優しい皺が寄り、「お父さん、今日はどこへお散歩に行きましょうか」と楽しげに提案してくれた。



それなのに、目の前にいるのは、その「面影」だけを残した別人だ。声をかけても視線は合わず、差し出した食事を「毒が入っている」と拒絶される。誠司にとっての介護とは、愛する妻を毎日少しずつ殺し、代わりに「妻の姿をした絶望」を育てていくような作業だった。



限界だった。



愛という名の貯金は底をつき、負債だけが積み重なっていた。だからこそ、あの時、彼は一線を越えてしまったのだ。



​『……お父さん、ねえ、お父さん。喉が、痛いの。お水、ちょうだい』



​記憶の中の加代子が、掠れた声で漏らす。



その声を聞いた瞬間、誠司の脳内で何かが弾けた。それは、六十八年間かけて築き上げてきた「良識ある人間」という仮面が、粉々に砕け散った音だった。



​『……さっきも飲んだだろう。いい加減にしてくれ……。俺は今日、一瞬も横になっていないんだ! お前のせいで俺の人生はめちゃくちゃだ!』



​誠司の声には、自分でも驚くほどの憎悪が混じっていた。



『ごめんなさい……でも、怖い。おうちに、帰りたい……。ねえ、おうちに……』



『うるさい!』



​誠司は突如として立ち上がった。



その勢いで、サイドテーブルに置かれていた水差しが床に叩きつけられる。ガシャリ、と耳障りな音が響き、水が床を汚していく。それは、新婚旅行の時にギリシャで買った、二人の思い出のグラスだった。かつては幸せの象徴だったその破片が、今の二人の関係を物語るように無残に飛び散る。



​『帰る場所なんて、もうないんだ! お前が全部壊したんだろう! お前の介護のために、俺の人生は、俺の誇りは、ゴミクズみたいになったんだ。……なあ、頼むから、加代子。もう、死んでくれ。俺をこれ以上、汚さないでくれ!』



​誠司は加代子の細い胸ぐらを掴み、激しく揺さぶった。



加代子の瞳が、大きく見開かれた。



絶望。恐怖。



そして何より、自分を世界で一番愛してくれていたはずの男に向けられた、底知れない悲しみ。



彼女は小さく喉を鳴らし、そのまま力なく目を閉じた。その数時間後、彼女の心臓は沈黙した。誠司の罵声を、最後の言葉として受け取ったまま。



​「……やめてくれ。もう、たくさんだ。止めてくれ!」



​店内に引き戻された誠司は、両手で顔を覆い、子供のように声を上げて泣いた。



「俺が彼女を殺したんだ。あの絶望の顔が、毎日、毎晩、まぶたの裏に焼き付いて離れない。六十八年生きてきて、最後に出した答えが、最愛の妻への殺意だったなんて。俺は、俺自身の魂を、あの場所で捨ててしまったんだ。もう、自分を許すことなんてできない……!」



​店内に、誠司の嗚咽だけが響く。



だが、クロは動じなかった。彼は蓄音機の針を丁寧に上げ、抽出した灰色の光を、小さな試験管に閉じ込めた。



​「……実に見事な『地獄』です。佐藤様、あなたの後悔は、当店でも最高級の純度を誇っています。この苦悶、この自責、そしてこの凄惨なディテール……。ですが、不思議なこともあるものです」


クロは試験管を光に透かし、冷徹な一言を放った。



「この記憶は、あまりに完璧すぎる。整合性が取れすぎているんですよ。まるで、誰かがあなたを守るために、最も深い愛を『罪』という名のペンキで丁寧に塗りつぶしたかのように見えませんか?」

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