第一章: 雨の道標
佐藤誠司は、濡れた傘を畳む手さえおぼつかないまま、その扉を押し開けた。
ベルが低く、乾いた音を立てる。その音は誠司の胸の鼓動を映すように、どこか怯えた響きを持っていた。
店内に漂うのは、古い和紙が焼けたような香ばしい匂いと、どこか懐かしい、洗いたてのシーツを思わせる石鹸の香りが混じり合った、不思議な空気だった。
誠司は、吸い寄せられるように店の奥へと歩を進める。
そして、重い足取りでカウンターの前まで辿り着くと、逃げ場を失ったかのように、節くれ立った両手をカウンターの縁(ふち)へと預けた。
誠司は、カウンターに置かれた自分の手を見る。
六十八年という歳月を生き、定年まで勤め上げた男の手だ。かつては大企業の重役として、何百人という部下を指導し、巨額のプロジェクトを回し、家族を何不自由なく支えてきた。その自負の象徴であった手のひらは、今や節くれ立ち、深い皴が刻まれ、情けなく震えている。
三日前、妻・加代子の四十九日を終えた。弔問客が去り、静まり返った自宅のリビングで、彼は加代子が愛用していた古い裁縫箱の整理を始めた。色とりどりの刺繍糸や指貫が並ぶその底に、一枚の「ショップカード」を見つけた。
和紙のような手触りの黒いカード。表には銀の箔押しで『追憶堂』の文字。そして裏面には、病が進む前の、加代子の筆跡で、こう記されていた。
――『もしもあなたが、私を許せなくて死にたくなったら。店主のクロさんに、私の思い出を返してもらって』
「……私を、許せないだと?」
誠司は自嘲気味に呟いた。許されるべきでないのは、自分の方だ。死の間際、弱々しく自分を呼び止める加代子の手を、あろうことか「早く死んでくれ」と怒鳴りつけて振り払った自分。
誠司は、カウンター越しに広がる無数の瓶を見渡した。かつての彼なら、こうした場所を鼻で笑い、一顧だにせず通り過ぎていただろう。六十八年の人生、彼は常に「正解」を選んできたはずだった。大学を卒業し、一流企業に入り、定年というゴールに至るまで、彼の人生の航路に大きな狂いはなかった。
家の中で妻が漏らした尿を拭き取り、汚れた衣類を洗うたびに、彼は「俺の人生は、このためのものだったのか」と自問自答した。かつて会議室で理路整然と指示を出していた口は、今や妻を罵倒する為だけのものになっていた。その問いが、次第に加代子への憎しみへと変質していくのを、彼は止めることができなかったのだ。
定年退職と同時に始まった、数年間にわたる壮絶な介護生活。それはかつてのビジネスの戦場よりも過酷だった。排泄の世話、終わりのない徘徊の監視、そして認知症による人格の崩壊。誠司は、自分の中の「優しさ」という貯金が、一日ごとに目減りしていくのを感じていた。
その果てに、自分は最愛の妻を絶望の中で死なせてしまった。その罪悪感が、老い始めた誠司の肺を、夜が来るたびに鋭く圧迫していた。
誠司は、カウンター越しに向かい合う、黒いスーツ姿の男を見据えた。
「あんたが、クロか」
「いらっしゃいませ、佐藤誠司様。加代子様から伺っております。……よく、たどり着かれましたね」
店主の声は、凍った湖のように静かで、一切の感情を排していた。
「加代子が、何を言っていたのかは知らん。だが、俺はここへ買い取りを頼みに来た。……捨てたいんだ。この、呪いのような記憶を。毎日、目が覚めるたびに自分が人殺しであると思い出す、この記憶だ。すべて引き取ってくれるなら、俺の財産の全部を差し出したっていい」
クロは銀色の細いピンセットを手に取り、儀式のような所作で、静かに誠司の側頭部へと手を伸ばした。
「承知致しました。査定いたしましょう。……あなたが六十八年の人生で最も後悔している、その『罪』の形を」
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