第3話 使わないという判断

 支所の廊下は、昼下がりになると静かになる。

 午前の出入りが落ち着き、職員たちはそれぞれのデスクで書類と向き合っていた。


 香月小百合は、待合用の椅子に座り、足をぶらぶらさせている。

 今日は探索の予定はない。

 それでも呼ばれたのは、「確認だけ」のためだった。


「香月さん、少しだけいいかな」


 声をかけてきたのは、霧島一郎だった。


「はい」


 案内されたのは、小さな面談室。

 机と椅子が二脚。それだけの部屋だ。


「緊張しなくていい」


 霧島はそう言ってから、タブレットを置いた。


「最近、現場での判断について意見が分かれている」


 小百合は、黙って頷いた。


「特に、“使わない”という判断だ」


 霧島の視線は、責めるものではない。

 確認するための目だった。


「危険が予測される状況でも、君はすぐに魔法を使わない」


「はい」


「理由を聞いてもいい?」


 小百合は、少し考えた。


「使うと……」


 言葉を探す。


「その場所が、魔法を前提にします」


 霧島は、すぐには理解した様子を見せなかった。


「前提?」


「はい。次も、その次も……」


 小百合は、机の表面を見つめながら続ける。


「魔法が来る前提で、壊れ方が変わります」


 霧島は、ゆっくりと息を吐いた。


「だから、使わない」


「はい。戻れるなら」


 その答えに、霧島は小さく笑った。


「厄介だな」


「……すみません」


「褒めている」


 霧島は、真顔でそう言った。


 その日の夕方、小百合は朝倉と短い巡回に出た。

 探索ではなく、入口付近の確認だけ。


「最近、君のやり方に戸惑う人が増えている」


 朝倉が歩きながら言う。


「わかっています」


「怖い?」


「いいえ」


 即答だった。


「でも、迷います」


 朝倉は、足を止めた。


「迷うのは、考えている証拠だ」


 低層入口付近で、小さな魔力の滞留を感じる。

 以前なら、処理対象にならないレベル。


「どうする?」


 朝倉が尋ねる。


 小百合は、しばらく黙ってから答えた。


「今日は、使いません」


「理由は?」


「ここは……」


 小百合は、壁に手を当てる。


「人が通るだけで、戻れます」


 朝倉は、それ以上聞かなかった。


 数日後、その場所は何事もなく安定した。

 記録には、「自然解消」とだけ残る。


 だが、その記録は評価されない。

 問題が起きなかったことは、成果にならないからだ。


 学校の帰り道。

 夕暮れの公園で、小百合はブランコに座った。


 風が、ゆっくりと揺らす。


 魔法は、使える。

 確実に、結果を出せる。


 でも――。


 使わない判断には、説明が必要になる。

 時間がかかり、誤解され、評価されない。


 それでも。


「……それでいい」


 小百合は、小さく呟いた。


 力を持つことより、

 使わないと決めることのほうが、ずっと難しい。


 家に帰ると、母が夕飯の準備をしていた。


「今日はどうだった?」


「何も、ありませんでした」


 母は、安心したように笑う。


「それが一番ね」


 小百合は、その言葉を胸にしまう。


 誰にも気づかれなくてもいい。

 記録に残らなくてもいい。


 戻れる場所が、そこにあるなら。


 使わないという判断は、逃げではない。

 それは、守るための選択だ。


 香月小百合は、その選択を、今日も静かに続けていた。


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