夜の本屋と別れのワルツ

安珠あんこ

夜の本屋と別れのワルツ

 とある駅裏の細い路地に、古びた木の看板を掲げた本屋『青華堂』がある。

 昼間は客もまばらだが、夜になると小さな人影が増える。


 彼らの目当ては、本ではなく閉店時に流れる曲である。

 この曲は、店主の神崎達郎かんざきたつろうが毎晩ピアノで演奏していた。


 多くの人はそれを『蛍の光』だと思っている。

 だが、実際は少し違う。

 彼が弾いているのは、『蛍の光』の原曲であるスコットランドの民謡『オールド・ラング・サイン』を3拍子に編曲した『別れのワルツ』。


 原曲が同じなため、この二つの旋律はほぼ同一だ。

 しかし、演奏者の神崎が考える曲の解釈はまるで異なる。

 「蛍の光」が『別れ』を告げる歌なら、「別れのワルツ」は『また会う日を願う歌』。


 それは、今は亡き彼の妻、美佐子が生前、閉店のたびに弾いていた曲であり、彼にとっては、天国の妻に捧げるレクイエムそのものだった。


 その夜も八時を前に、神崎はピアノの前に座った。

 外では数人の常連たちが足を止めている。

 ゆるやかに流れる三拍子のリズム。

 優しい旋律に呼応するかのように、古い木の床がかすかに震える。


 その演奏が始まる少し前、黒いコートにマフラーを巻いた一人の男が路地の陰から姿を現した。

 男の名は中原。

 かつてこの店の常連であり、神崎の妻、美佐子とも親しく言葉を交わしていた男だ。


 だが、彼女が亡くなってから三年。

 中原は一度もこの店を訪れなかった。


 彼の生活は荒れ、仕事を失い、借金に追われていた。

 そして今夜、中原はかつての思い出の場所にいた。


 青華堂の裏口で、ドアの鍵穴をピッキング道具で探る彼の指は震えている。


「すぐ終わる……ほんの少し、借りるだけだ」


 罪の意識からか、彼は無意識に自身の行為を正当化するような言い訳をつぶやいていた。


 その時、店の中から音楽が流れ出した。


 ゆるやかに、温かく、少し哀しい旋律。

 それは、「蛍の光」とは少しだけ違う。

 けれど、中原には聴き覚えがあった。


 ──あの人の音だ。


 美佐子が笑いながら弾いていた、あのワルツ。


「これは蛍の光ではないの。別れのワルツっていう曲でね、私の中では『また会うためのさよなら』なんですよ」


 彼女の声が、鮮やかによみがえる。


 ピアノの音一つ一つが、胸の奥の冷えた場所に触れるたび、中原の呼吸が浅くなっていく。


(俺は……何をしようとしてるんだ)


 気がつくと、工具を握る手が震えていた。

 汗が指の隙間を伝う。

 扉の前で膝をついたまま、音を聴き続けた。


 曲が終わると静寂が周囲を包み込む。

 その静けさが、彼の荒んだ心を溶かしていった。


◇◇◇


 中原は店の正面へと回ると、ゆっくりと店のドアを押した。


 ──カランカラン。


 ドアにつけられた鈴の音が鳴る。


「いらっしゃいませ」


 神崎の声が響く。

 彼は中原の顔を見ると、少しだけ驚いたように目を細めた。


「中原さん、お久しぶりですね」


「覚えておられたんですか」


「もちろんです。妻がよくあなたのことを話していましたから。あなたと文学の話をするのが楽しみだったって」


 神崎の声は、まるで遠い記憶をなぞるように穏やかだった。


 中原は視線を落とした。


「すみません。本当は……お店のお金を盗みに来たんです。生活が苦しくて、もうどうしようもなくて。気づいたら、この店の裏口に立っていました……」


 神崎は少しの間、黙っていた。

 怒ることも、責めることもせず、ただ静かに彼を見つめていた。


「──それでも、やめたんですね?」


「……ええ。あの曲を聴いていたら、できませんでした。美佐子さんの声が聞こえた気がしたんです。彼女がこの曲のことを『また会うためのさよなら』って言ってたのを思い出して」


 神崎は目を閉じ、微かに笑った。


「美佐子の言葉は、時々そうやって人を止めるんですよ。私も何度も救われました」


 神崎はピアノの上に置かれた古い楽譜を手に取った。

 端には、美佐子の字が残っている。


『Farewell Waltz — 別れは、終わりじゃない。心の中に場所が変わるだけ』


「もしよければ、これをあなたに差し上げます」


「いや、そんな……」


「持っていってください。これは、あなたがまた立ち上がるために必要なものです」


 中原は唇を震わせ、楽譜を胸に抱いた。

 涙が彼の頬をつたう。


「……ありがとうございます。もう一度、ちゃんとやり直してみます」


「ええ。そしてまた、この曲を聴きに来てください。『別れのワルツ』は、誰かがここに帰ってくるための曲ですから」


◇◇◇


 その夜も八時ちょうどに、青華堂の窓から、ワルツが流れ始めた。


 ゆるやかで、あたたかく、しかし、少し切ないその音が路地を満たし、人々の足を止める。


 その中に、中原の姿があった。

 胸に楽譜を抱え、静かに目を閉じて聴いている。


「別れは、終わりじゃない」


 そう美佐子は言っていた。

 その言葉が、今ようやく心の奥で本当の意味を持つ。


 中原は涙を拭い、夜空を見上げた。

 別れのワルツの演奏が終わる。

 そして、静けさの中で彼はつぶやいた。


「美佐子さん、あなたは教えてくれた。俺はまだ、終わりじゃない。俺はまだ、やり直せるんですね」


 中原は決意を新たにして、街の明かりの中へと歩き出した。

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夜の本屋と別れのワルツ 安珠あんこ @ankouchan

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