第16話 境界線のこちら側

 朝の光は、いつもと同じ角度でカーテンの隙間から差し込んでいた。

 香月小百合は、その光をまぶた越しに感じてから、ゆっくりと目を開ける。


 特別な夢を見たわけではない。

 胸が高鳴るような予感もない。


 ただ、静かな朝だった。


「小百合、起きてる?」


「起きてます」


 台所から聞こえる母の声。

 フライパンの音と、味噌汁の匂い。


 ――日常だ。


 制服に着替え、ランドセルを背負う。

 玄関で靴を履きながら、小百合は一瞬だけ立ち止まった。


 ダンジョン。

 探索者。

 魔法。


 それらは消えていない。

 ただ、今日は“行かない日”だ。


 学校では、いつも通りの一日が流れた。

 テストの返却、休み時間の会話、給食のデザートをめぐる小さな騒ぎ。


「小百合ちゃん、これあげる」


 隣の席の子が、消しゴムを差し出す。


「ありがとう」


 それだけのやりとりが、なぜか心地よかった。


 放課後、まっすぐ家に帰る。

 途中、あの住宅街の交差点を通り過ぎる。


 何事もない。

 空気は安定し、人の流れも穏やかだ。


 ――戻っている。


 世界は、少しずつ。


 家に着くと、支所からの簡単な連絡が届いていた。

 次回の探索予定。

 低層、短時間、いつも通り。


 母が、画面を見て言う。


「無理のないペースでいいって」


「はい」


 それで、十分だった。


 夕方、宿題を終えたあと、小百合は窓辺に座った。

 外では、近所の子どもたちが遊んでいる。


 笑い声。

 走る足音。


 前なら、どこか遠くに感じていた光景。

 今は、ちゃんと同じ場所にある。


 ――境界線。


 それは、超えるものだと思っていた。

 日常か、非日常か。

 子どもか、探索者か。


 どちらかを選ばなければならないと。


 でも、違った。


 境界線は、分けるための線じゃない。

 立つための場所だった。


 夜、布団に入る。

 小百合は、胸の奥にある魔力を感じてみる。


 静かだ。

 けれど、確かにある。


 使わなくてもいい。

 なくならない。


 それは、特別な証明ではなく、呼吸のようなものになっていた。


 世界は、まだ未完成だ。

 制度も、理解も、全部途中。


 でも、それでいい。


 完成していないから、歩ける。

 選び直せる。

 立ち止まれる。


 香月小百合は、探索者で、子どもで、ただの一人の人間だ。

 その全部を持ったまま、ここにいる。


 境界線のこちら側で。


 明日も、朝は来る。

 学校があり、夕飯があり、ときどきダンジョンがある。


 それだけで、十分だ。


 小百合は、静かに目を閉じた。

 この世界の一部として。

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「香月小百合は、まだ魔法を知らない」 塩塚 和人 @shiotsuka_kazuto123

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