第15話 日常に戻るための魔法

 低層ダンジョンの空気は、以前よりも穏やかだった。

 結晶灯の光は一定で、壁を伝う魔力の流れも乱れていない。


 香月小百合は、入口付近で立ち止まり、深く息を吸った。


「今日は、少しだけ奥まで行く」


 朝倉がそう告げる。


「危険があれば、すぐ戻る。目的は観察と確認だ」


「はい」


 小百合は、足元を確かめるように一歩踏み出した。


 ここは、日常から切り離された場所。

 けれど、もはや“異常”だけの空間ではない。


 探索者が行き来し、記録が積み重なり、管理が行われる。

 未完成ながら、世界の一部になりつつある。


 通路を進む途中、わずかな揺れを感じた。


「……止まってください」


 小百合が言うと、朝倉はすぐ足を止めた。


「どうした?」


「魔力が、重なっています」


 二つの流れが、同じ場所でぶつかっている。

 強くはないが、長く放置すれば歪みになる。


「処理する?」


 朝倉の問いに、小百合は少し考えた。


「……はい。でも、壊す方法じゃなくて」


 朝倉は、何も言わずに頷いた。


 小百合は、目を閉じる。


 前世なら、術式を組み、強制的に流れを整えた。

 だが今は、違う。


 感情を、探す。

 焦らない。抑えない。


 ――ここは、戻る場所。


 小百合の魔力は、細く、静かに広がった。

 重なった流れの間に、そっと入り込む。


 押し広げない。

 命令しない。


 ただ、間を作る。


 流れが、ほどける。

 水が自然に別れるように、魔力はそれぞれの道へ戻っていった。


「……終わりました」


 朝倉は、計測端末を見て、目を見開く。


「数値が……安定してる」


 派手な光も、衝撃もない。

 ただ、そこにあった違和感が消えただけ。


「これが、君の魔法か」


 小百合は、小さく首を振った。


「魔法……というより、帰り道です」


 朝倉は、少しだけ笑った。


「いい表現だ」


 帰還後、支所で簡単な報告が行われた。


「異常は、自然解消に近い形で消失」


「再発の兆候なし」


 職員たちは、評価に困った様子だった。


「成功……なのか?」


「でも、問題は解決している」


 霧島一郎が、静かに口を開いた。


「“何も起きなかった”という結果は、記録しづらい」


 それは、誰もが感じていたことだった。


「だが」


 霧島は、小百合を見た。


「この世界には、そういう力が必要だ」


 注目を集める力ではない。

 状況を終わらせ、日常へ戻す力。


 支所を出ると、午後の光が街に満ちていた。

 人の声、車の音、風に揺れる木々。


 すべてが、当たり前にそこにある。


 家に帰ると、母が洗濯物を畳んでいた。


「おかえり」


「ただいま」


 その一言が、胸に落ち着く。


「今日はどうだった?」


「……静かでした」


 母は、不思議そうに笑う。


「それ、いい日ってこと?」


「はい」


 夕飯の準備を手伝いながら、小百合は思う。


 魔法は、世界を変えるためだけのものじゃない。

 世界を、元に戻すためのものでもある。


 特別な一日より、

 何も起きない一日を守ること。


 それが、この世界での自分の役割かもしれない。


 夜、布団に入り、目を閉じる。


 日常に戻るための魔法。

 それは、どこか懐かしくて、やさしい。


 香月小百合は、静かな呼吸とともに、眠りについた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る