第11話 ふつうの一日が壊れるとき

 その日は、ほんとうに、なんでもない朝だった。


 目覚まし時計が鳴り、香月小百合は布団の中で一度だけ身じろぎをする。

 台所からは、味噌汁の匂い。母が立てる、いつもの音。


「小百合、起きてる?」


「起きてます」


 声は少しだけ眠そうだったが、体はもう動いていた。

 顔を洗い、制服に着替え、ランドセルを背負う。


 ダンジョンのことを考えない朝。

 それは、今の小百合にとって、少しだけ意識しないとできないことだった。


 学校では、国語の音読があり、算数のプリントが配られた。

 隣の席の子が消しゴムを落とし、前の席の子が先生に注意される。


 ふつう。

 あまりにも、ふつう。


 給食の時間、クラスメイトが言った。


「ねえねえ、昨日のテレビ見た?」


「ダンジョンのやつ?」


「うん! すごかったよね」


 小百合は、黙って牛乳を飲んだ。


 テレビに映るダンジョンは、いつも少し遠い。

 危険で、特別で、どこか現実感がない。


 ――私は、あそこに行っているのに。


 そう思っても、言葉にはしない。


 昼休み、校庭で遊ぶ子どもたちを、日陰から眺める。

 混ざろうと思えば混ざれる。でも、今日はそうしなかった。


 胸の奥に、わずかなざわめきがあった。


 ――空気が、重い。


 理由はわからない。ただ、違和感だけが残る。


 下校の時間。

 いつもの道を、いつもの速さで歩く。


 交差点を渡り、住宅街に入った、そのときだった。


 きしり、と。

 耳ではなく、体の内側で音がした。


 足が止まる。


「……?」


 周囲の空気が、わずかに歪んだ。

 風が止まり、音が遠のく。


 魔力の揺れ。

 それも、ダンジョンの中とは違う、不安定なもの。


「なに、これ……」


 前方で、大人の男性が立ち尽くしていた。

 腕には探索者用の端末。私服だが、間違いない。


「くそ……なんで、こんなところで……」


 彼の呼吸が荒くなる。

 足元のアスファルトに、淡い光が滲んだ。


 ――感情が、漏れている。


 恐怖と焦り。

 抑えきれない魔力が、外に溢れ出している。


「だめ……」


 小百合は、周囲を見た。

 下校中の子どもたちが、異変に気づき始めている。


「みんな、止まって!」


 思わず声が出た。


「動かないで!」


 自分でも驚くほど、はっきりした声だった。


 男性探索者は、膝をつく。


「近づくな……制御が……」


 小百合は、一歩前に出た。


 怖かった。

 心臓が速く打つ。


 でも、それ以上に――このままではいけないと、はっきりわかった。


 魔法は、感情に従う。

 だからこそ、感情から逃げてはいけない。


「だいじょうぶです」


 小百合は、できるだけ静かに言った。


「ここは、ダンジョンじゃない」


 自分にも、言い聞かせるように。


 胸の奥に、意識を向ける。

 怖さを、押し込めない。

 ただ、認める。


 ――怖い。でも、壊したくない。


 魔力が、薄く広がる。

 温度を持たない、やわらかな流れ。


 光が、弱まる。


「……あ」


 男性の呼吸が、少し落ち着いた。


「……すまない……」


 次の瞬間、サイレンの音。

 支所の対応班が到着する。


「魔力異常、確認!」


「一般人を下がらせて!」


 状況は、すぐに収束した。


 だが――。


「今の、君?」


 対応班の一人が、小百合を見た。


 その視線に、小百合ははっとする。


 子ども。

 制服。

 ランドセル。


 説明が、できない。


「……何も、してません」


 それは、半分嘘だった。


 後日。

 支所で、小さな会議が開かれた。


「場所が場所だ」


「一般人、それも未成年が関与している」


「記録は?」


「曖昧にするしかない」


 霧島一郎は、黙って聞いていた。


「香月小百合は、偶然そこにいただけだ」


 静かな声だったが、強さがあった。


「それ以上でも、それ以下でもない」


 誰も、反論しなかった。


 その夜、小百合は布団の中で考える。


 ふつうの一日。

 学校があって、帰り道があって。


 それは、簡単に壊れる。


 でも。


 壊れたからといって、失われるわけじゃない。


 日常と非日常は、地続きだ。

 ただ、境界に立つ瞬間があるだけ。


 小百合は、静かに目を閉じた。


 ――私は、どちらにもいる。


 それが、少しだけ、はっきりした夜だった。


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