第9話 未完成な世界

 雨上がりの朝だった。

 アスファルトはまだ濡れていて、雲の切れ間から差す光が、ところどころ白く反射している。


 香月小百合は、傘をたたみながら支所の入口を見上げた。

 見慣れたはずの建物なのに、今日は少しだけ遠く感じる。


 ――私は、ここにいていいのかな。


 昨日の面談の言葉が、まだ胸に残っていた。

 「子どもという枠」。

 それは否定ではなく、保護の言葉だった。それでも、小百合には重かった。


 受付を通り、低層階用の待機スペースへ向かう。

 探索許可は、まだ保留中だ。今日は探索ではなく、座学と観察のみ。


「おはよう、小百合ちゃん」


 声をかけてきたのは、装備整備班の女性職員だった。


「おはようございます」


「今日はお勉強の日だね。退屈?」


「……少しだけ」


 正直な答えに、女性はくすっと笑った。


「そりゃそうか」


 待機スペースの一角。

 数人の新人探索者たちが、ホログラムの地図を囲んで説明を受けている。


「現在確認されている低層ダンジョンは、こうした構造をしています」


 職員の指示棒が、空中の図をなぞる。


「ただし、同じダンジョンでも日によって配置が微妙に変わることがある」


 小百合は、その言葉に小さく瞬きをした。


 ――不安定。


 前世のダンジョンは、生き物のように振る舞ったが、理はあった。

 だが、この世界のダンジョンは、まだ“落ち着いていない”。


「世界が、追いついていないんだ」


 隣で見ていた朝倉が、ぽつりと言う。


「え?」


「ダンジョンも、魔力も、探索者制度も。全部、急に生えてきた」


 朝倉は、ホログラムを見つめながら続けた。


「だから今は、未完成なんだよ。この世界は」


 未完成。

 その言葉は、小百合の中で静かに響いた。


 昼前、支所の奥で小さなトラブルが起きた。

 観測装置の数値が、一時的に乱れたのだ。


「魔力濃度が不自然に上下してる」


「低層だよな? こんな揺れ方、聞いてないぞ」


 職員たちが慌ただしく動く。


 小百合は、無意識に胸に手を当てた。


 ――怒ってる?


 そう感じた。

 ダンジョンそのものが、何かに戸惑っているような感覚。


「香月さん」


 霧島一郎が、低い声で呼ぶ。


「今、何か感じるか」


「……不安定です」


「それは、数値と一致してる」


 霧島は、短く頷いた。


「この世界のダンジョンは、まだ“環境”になりきっていない」


 自然災害でもなく、人工物でもない。

 ただ、そこに現れてしまった存在。


「だから、人の感情や行動に引きずられる」


 小百合は、はっとした。


「……人が、原因ですか」


「一部はね」


 恐怖、欲、焦り。

 それらが、魔力を歪ませる。


 前世では、魔法を扱う者は、それを理解していた。

 だがこの世界では、多くが手探りだ。


「未完成な世界には、未完成な使い手が必要だ」


 霧島は、珍しく遠回しな言い方をした。


「完璧な理屈だけじゃ、対応できない」


 小百合は、ゆっくりと息を吸った。


 ――未完成。


 それは、欠陥ではない。

 成長の途中だ。


 帰り道、小百合は空を見上げた。

 雲はまだ厚いが、ところどころに青が見える。


 この世界は、未完成だ。

 制度も、理解も、受け皿も。


 でも。


 未完成だからこそ、余地がある。

 自分が、ここに関われる余地が。


 家に帰ると、母が台所に立っていた。


「今日はどうだった?」


「……世界が、まだ途中だって思いました」


 母は少し首をかしげる。


「難しいこと考えるね」


「でも、悪くないです」


 夕飯の匂いが、部屋に広がる。

 温かくて、現実的で、確かな日常。


 小百合は椅子に座り、手を合わせた。


 未完成な世界。

 未完成な自分。


 それでも、進んでいく。


 香月小百合は、そう静かに決めていた。


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