第7話 魔法は感情に従う

 ダンジョン支所の廊下は、昼過ぎになると人が増える。

 低層から戻った探索者たちが、報告や装備の点検に集まってくる時間帯だ。


 香月小百合は、ベンチに腰かけ、両手を膝に置いていた。

 探索は終わっている。体も問題ない。それでも、胸の奥が少しざわついていた。


「……今日は、少し難しかったね」


 隣に座った朝倉が、柔らかく声をかける。


「はい」


 嘘ではない。

 低層階は穏やかだったが、今日は一つ、予想外の出来事があった。


 少し離れた処置室の前で、声が上がる。


「落ち着いて! 深呼吸して!」


 担架に座らされているのは、若い男性探索者だった。顔色が悪く、手が震えている。


「だ、だめだ……また、勝手に……!」


 彼の周囲で、空気が揺れた。

 結晶灯の光が、ちらつく。


「魔力が暴走しかけてる!」


 職員の声が緊張を帯びる。


 ――感情が、前に出すぎている。


 小百合は、無意識のうちに立ち上がっていた。


「小百合ちゃん?」


 朝倉が呼ぶが、小百合の視線は外れない。


 恐怖。焦り。

 生き延びたいという、強すぎる思い。


 それらが、魔力を引きずり出している。


「魔法は、感情に従う……」


 小百合は、ほとんど音にならない声で呟いた。


 前世では、誰もが知っていた。

 魔法は理論だけでは動かない。感情が、燃料になる。


 処置室の前で、霧島一郎が状況を確認していた。


「鎮静剤は?」


「効きが弱いです!」


「魔力の放出を抑えられない……!」


 小百合は、一歩踏み出した。


「……あの」


 小さな声だったが、霧島は気づいた。


「香月さん?」


「その人、こわがってます」


 霧島は、少し驚いたように小百合を見る。


「それは……そうだろうね」


「だから、止まらないです」


 言葉を選ぶ時間はなかった。

 小百合は、胸の奥に意識を向ける。


 抑えるな。

 閉じるな。


 ――寄り添え。


 小百合は、そっと息を吐いた。

 自分の魔力を、薄く、広く。


 熱を与えない。

 形を持たせない。


 ただ、静かさだけを。


 空気が、ゆるむ。

 揺れていた魔力が、少しずつ落ち着いていく。


「あ……」


 男性探索者の呼吸が、深くなる。


「……怖かった」


 それだけを言って、彼は肩を落とした。


 職員たちが、ほっと息をつく。


「落ち着いた……?」


「数値、下がってます」


 霧島は、小百合を見下ろした。

 目に、明確な戸惑いが浮かんでいる。


「……何をした?」


 小百合は、少しだけ考えた。


「……なにも、してません」


 それは、半分本当だった。


 処置が終わり、廊下に戻る。

 朝倉が、静かに口を開いた。


「さっきの、君がやったんだよね」


「……はい」


「すごい制御だった。でも――」


 朝倉は、少し困ったように笑う。


「感情、抑えすぎてない?」


 小百合は、言葉に詰まった。


 抑えることは、正しい。

 暴走しないために。壊さないために。


 それが、前世での常識だった。


「怖い、って思わなかった?」


「……思いました」


「なら、それを使っていい」


 朝倉は、優しく言った。


「怖いから、慎重になる。大切にする。守ろうとする。それも、感情だよ」


 小百合は、足元を見つめた。


 感情は、制御すべきもの。

 そう、信じてきた。


 でも、この世界では――。


「香月さん」


 霧島が、改めて声をかける。


「今日のことは、記録しません」


「……いいんですか」


「今は、まだ早い」


 霧島は、はっきり言った。


「君自身が、どういう力を持っているのか。理解する時間が必要だ」


 小百合は、小さく頷いた。


 家に帰ると、夕飯の匂いがしていた。

 いつもの食卓。いつもの時間。


 けれど、胸の奥には、新しい感覚が残っている。


 感情は、魔法を乱すものではない。

 導くものでもある。


 その夜、小百合は布団の中で、そっと涙をこぼした。

 理由は、はっきりしない。


 怖さ。安心。懐かしさ。

 全部が混ざって、静かに流れた。


 ――私は、まだ学んでいる。


 魔法だけじゃない。

 この世界で、生きるための感情を。


 それでも、明日は来る。

 小百合は、ゆっくりと目を閉じた。


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