第6話 低層階の空気

 低層階の入口は、思ったよりも広かった。

 天井は高く、通路は緩やかに曲がっている。壁に埋め込まれた結晶が、昼の光を薄く反射して、全体をやさしく照らしていた。


「ここが第一層。比較的、安全な区域です」


 同行者の女性探索者――名を朝倉(あさくら)と言った――が、落ち着いた声で説明する。


「危険な魔物は少ないですけど、油断は禁物。足元と音、忘れないで」


「はい」


 小百合は短く答えた。

 視線は、すでに通路の先へ向いている。


 空気が、違う。


 重さではない。濃さでもない。

 流れだ。


 ダンジョンの中では、空気と一緒に魔力が流れている。水のように、緩やかに、一定の方向を持って。前世では、それを読むことが探索の基本だった。


 ――ここは、右から左。


 目に見えない流れが、頬をなぞる感覚。

 小百合は、無意識のうちに歩幅を調整していた。


「小百合ちゃん、足取りが安定してるね」


 朝倉が、少し驚いたように言う。


「……そうですか?」


「うん。初めての人は、もっと緊張する」


 緊張。

 それが、何なのか。小百合は一瞬、考えた。


 怖くないわけではない。

 けれど、それ以上に――懐かしい。


 通路の角を曲がると、空間が少し開けた。

 床に散らばる小さな石。壁際に、低く這う影。


「止まって」


 朝倉が小さく手を上げる。


 影が動く。

 灰色の、小さな生き物。犬よりも小さく、尻尾が長い。


「低層魔物、石喰い。攻撃性は低いけど、群れると厄介」


 小百合は、魔物を見つめた。

 その周囲の魔力が、ざわりと揺れている。


 ――怯えている。


 空腹と警戒。

 戦う気配は、薄い。


「避けられます」


 小百合は、静かに言った。


「……どうして分かるの?」


「今、こっちを見てないです」


 朝倉は、魔物と通路を交互に見てから、ゆっくり頷いた。


「よし。じゃあ、音を立てずに、左へ」


 二人は、距離を保ったまま、静かに進む。

 石喰いたちは、こちらに気づかないまま、床を掘り返し続けていた。


 通路を抜けたところで、朝倉が息を吐く。


「助かった。無駄な戦闘は、避けられるなら避けたい」


 小百合は、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。


 ――正しい。


 前世でも、同じだった。

 戦わない選択は、臆病ではない。


 しばらく進むと、結晶の明かりが少し弱くなる。

 空気が、わずかに冷たい。


 小百合は、足を止めた。


「……ここ、下に続いてます」


「え?」


 朝倉が足元を見る。

 確かに、床の継ぎ目が不自然だ。


「隠し段差。落とし穴じゃないけど、気づかないと足を取られる」


「よく分かったね……」


 朝倉は、感心したように笑う。


「観察が得意なの?」


「……たぶん」


 それ以上は、言わなかった。


 ダンジョンの低層階は、穏やかだ。

 それでも、完全な安全はない。


 だからこそ、空気を読む。

 魔力の流れ、音の反響、生き物の気配。


 小百合は、それらを一つずつ拾い上げていく。

 まるで、深呼吸をするように。


 時間を確認し、引き返すことになった。


「今日はここまで。十分すぎる成果だよ」


 朝倉の言葉に、小百合は頷いた。


 出口へ向かう途中、ふと振り返る。

 ダンジョンの奥は、静かに続いている。


 ――まだ、急がなくていい。


 そう、空気が語っている気がした。


 扉を出ると、外の光が眩しかった。

 胸の奥の温かさが、ゆっくりと落ち着いていく。


「どうだった?」


 朝倉が尋ねる。


「……落ち着きました」


 それは、正直な感想だった。


 低層階の空気は、優しい。

 世界が、いきなり牙をむくわけじゃないと、教えてくれる。


 小百合は、小さく息を吸った。


 探索者としての一歩は、確かに進んでいる。

 けれど、走る必要はない。


 この空気を、忘れなければ。


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