第3話 魔法という言葉
朝の光が、カーテンの隙間から差し込んでいた。
香月小百合は、目を開けたまま、しばらく天井を見つめていた。
夢ではない。
そう、はっきり分かる。
胸の奥に沈んだ温かさが、まだ残っている。ダンジョンで感じた、あの感覚。呼吸と同じくらい自然で、当たり前だったもの。
――魔力。
言葉を思い浮かべただけで、指先がわずかに熱を帯びた。
「……だめ」
小百合は、ぎゅっと手を握る。
家の中で、試すわけにはいかない。
朝食の席でも、頭の半分は別の場所にあった。
父の話、母の相づち。全部聞こえているのに、どこか遠い。
「さゆり、今日は元気ない?」
「ううん。だいじょうぶ」
本当だった。体は元気だ。
ただ、世界の見え方が変わってしまっただけ。
学校へ向かう途中、空気の流れが気になった。
風の強さではない。もっと内側の、目に見えない揺らぎ。
人の周りには、薄い膜のようなものがある。
昨日までは、そんなふうに見えなかった。
――まだ、弱い。
誰のことを指しているのか、自分でも分からない。
それでも、その評価が自然に浮かぶ。
教室に入ると、ざわめきがいつもより大きかった。
「ねえねえ、知ってる?」
「昨日、ダンジョンで光ったんだって!」
子どもたちの声が飛び交う。
小百合の胸が、わずかに跳ねた。
担任の教師が、手を叩く。
「はい、座りましょう。今日は少しお話があります」
黒板に書かれた言葉は、ひとつ。
――魔法。
教室が静まった。
「最近、ニュースでよく聞きますね。ダンジョンに入った人が、ふしぎな力を使えるようになるって」
教師は、言葉を選ぶように続ける。
「これは、魔法と呼ばれています。まだ分からないことばかりで、危ないこともあります」
魔法。
その言葉が、教室の空気を揺らした。
小百合は、胸の奥が少しだけ痛くなるのを感じた。
知っている。知りすぎている。
魔法は、ふしぎな力なんかじゃない。
積み重ねた理解と、訓練と、感情の制御。その先にある技術だ。
でも、この世界では――。
「だから、勝手にまねしたり、近づいたりしないように」
教師の言葉に、数人が大きくうなずく。
小百合は、何も言わなかった。
言えるはずがない。
昼休み、校庭の隅で一人になる。
しゃがみ込み、土を指先でなぞる。
集中する。
ほんの、ほんの少しだけ。
魔力は、応えた。
土の上に、細い線が浮かび上がる。すぐに消えたが、確かにそこにあった。
――魔法陣の、なりそこない。
胸が、ざわつく。
嬉しさと、不安と、強い懐かしさ。
放課後、母に連れられて、探索者協会の支所へ向かった。
ダンジョンに入った者の、簡単な健康確認のためだ。
白い壁の建物。消毒液の匂い。
待合室には、大人が数人座っている。
「香月さんのお子さんですね」
声をかけてきたのは、落ち着いた雰囲気の男性だった。
霧島一郎。名札にそう書いてある。
「昨日、ダンジョンに入られたとか」
「入口だけですけど……」
母が答える横で、霧島は小百合をじっと見た。
視線が、表面ではなく、奥を探るような感覚。
「……少し、手を出してもらっていいかな」
小百合は、言われた通りに手を差し出す。
霧島は、小さな機械をかざした。
これは魔力測定器。体内の魔力の有無と量を、大まかに測る道具だ。
数秒後、機械が低く鳴った。
「……反応がありますね」
母が息をのむ。
「え? そんな、入口にいただけで……」
「珍しいですが、ゼロではありません」
霧島は、言葉を選びながら続けた。
「ただ……数値が、少しおかしい」
小百合は、目を伏せた。
やはり、気づかれる。
「詳しい検査は、また後日で構いません。今日はお帰りください」
その声音は、穏やかだった。
だが、小百合には分かった。
この人は、見ている。
まだ正体は分からなくても、何かが違うと。
家に帰ると、夕焼けが窓を染めていた。
小百合は、自分の影を見つめる。
六歳の少女の影。
けれど、その奥に、別の輪郭が重なっている。
――私は、魔導士だ。
それは誇りでも、呪いでもない。
ただの事実。
魔法という言葉が、この世界でどんな意味を持つのか。
それを、小百合はこれから知っていく。
静かな日常は、まだ壊れていない。
だが確かに、もう元には戻らない。
小百合は、そっと目を閉じた。
次に扉を開くとき、
自分はどんな言葉で、魔法を呼ぶのだろうか。
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