第2話 扉の向こう側
ダンジョンの入口は、思っていたより静かだった。
鉄柵で囲われ、警備員が二人立っている。足元には黄色い線が引かれ、「関係者以外立入禁止」の看板が下がっていた。ニュースで何度も見た光景のはずなのに、実物を前にすると、空気の密度が違う。
香月小百合は、母の手を握りながら、その奥を見つめていた。
「……本当に、ここでいいの?」
母の声は低い。確認というより、ためらいだった。
「うん」
小百合はうなずく。迷いはなかった。
昨日の夜から、胸の奥で小さな灯が消えずにいる。ここに来れば、それが何なのか分かる。理由はそれだけで、十分だった。
受付で手続きを済ませる。
未成年の同伴入場。条件付きの、短時間滞在。
「奥へは行けませんからね。入口付近だけです」
職員の説明に、母は何度も頭を下げた。小百合は、言葉の半分も聞いていなかった。
視線の先に、扉があった。
コンクリートの床にぽっかりと開いた、黒い円。
光を吸い込むようなその奥から、微かな冷気が流れてくる。
――向こう側だ。
誰かがそう囁いた気がした。
自分の声ではない。けれど、知らない声でもない。
一歩、足を踏み出す。
靴底が境界を越えた瞬間、空気が変わった。
重く、澄んで、静かだ。音が遠くなる。
「……っ」
息を吸うと、胸の奥がじんわりと温かくなる。
初めてなのに、懐かしい感覚。
「さゆり、大丈夫?」
母の声が、少し遅れて届く。
「だいじょうぶ」
本当だった。
ここは、怖くない。
内部は、石造りの通路だった。壁には淡い光を放つ結晶が点々と埋め込まれている。照明はないのに、暗くはない。
「これが……ダンジョン……」
母が小さく呟く。
小百合は、通路の床に視線を落とした。
石の継ぎ目、微かな傾き、空気の流れ。すべてが自然に理解できる。
――魔力が、流れている。
言葉が、頭の中に浮かぶ。
魔力。ダンジョン内に満ちるエネルギー。現代では、まだうまく説明されていないもの。
小百合は、そっと指先を動かした。
集める。
形を想像する。
外へ――。
ぱちり、と小さな音がした。
「え……?」
母の足元で、淡い光が瞬いた。
結晶の明かりとは違う、柔らかい白。
「いまの、なに?」
母が慌てて周囲を見る。警備員は気づいていない。
小百合は、自分の手を見つめた。
指先が、ほんのり温かい。
――できてしまった。
意識せずに、魔力が形になった。
これは魔法だ。名前をつけるほどのものではない、ただの光。でも――。
胸の奥で、何かがはっきりと目を覚ました。
視界が、少しだけ広がる。
空間の奥行き、魔力の濃淡、結晶の配置。すべてが意味を持って見える。
石の床に、別の模様が重なって見えた。
円と線。昨日、図工の時間に描いてしまったものと同じ。
「……そう、だった」
小百合は、静かに息を吐いた。
これは魔法陣だ。
魔力を安定させ、効果を助けるための仕組み。異世界では、誰もが知っていた基礎。
けれど現代には、まだ存在しない知識。
胸が、少しだけ痛んだ。
懐かしさと、寂しさが混ざった感情。
「さゆり、戻ろうか。時間だから」
母の声に、小百合はうなずいた。
名残惜しさはあったが、不安はない。
ここは逃げない。いつでも、待っている。
扉を出た瞬間、空気が軽くなった。
温かさが、ゆっくりと胸の奥へ沈んでいく。
受付に戻る途中、すれ違った大人たちの視線が、一瞬だけ小百合に向けられた。
理由は分からない。でも、気づかれてはいけないと直感した。
家に帰る道すがら、小百合は黙って歩いた。
母も、何も聞かなかった。
夜。布団に入ると、自然に眠気が訪れた。
夢の中で、小百合は広い塔の上に立っていた。
本に囲まれ、窓の外には星が流れる。
一人きり。でも、孤独ではない。
――私は、魔導士だった。
朝、目を覚ましたとき、その確信は消えなかった。
扉の向こう側で、小百合は思い出してしまった。
忘れていた知識と、かつての自分を。
もう、戻れない。
けれど、それでいい。
静かな日常は、確かに続いている。
その奥に、新しい世界への入口が開いただけだ。
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