「香月小百合は、まだ魔法を知らない」
塩塚 和人
第1話 静かな違和感
朝の食卓は、いつもと同じ音で満ちていた。
トースターが鳴り、湯気の立つ味噌汁の匂いが漂う。父は新聞を広げ、母は小さなフライパンを片づけている。
香月小百合は、椅子に腰かけたまま、湯のみを両手で包んでいた。六歳の手には少し大きい。それでも、こぼさない。こぼす気がしなかった。
「さゆり、学校で何する日だっけ?」
父の声に、小百合は顔を上げる。
「えっと……図工、です」
「そうか。楽しんでこい」
いつもと同じ会話。いつもと同じ朝。
なのに、小百合の胸の奥には、うまく言葉にできない違和感があった。
満たされているはずなのに、どこかが空いている。
楽しいはずなのに、少し遠い。
それが何なのか、小百合自身にも分からなかった。
学校への道は、桜の木が並ぶ静かな通学路だ。友だちと並んで歩き、他愛のない話をする。笑うこともある。嫌いではない。
けれど、ふとした瞬間に思う。
――この道を、私は知っているだろうか。
意味の分からない考えだった。
小百合は生まれてから、ここで暮らしている。知らないはずがない。
教室に入ると、テレビがついていた。朝のニュースだ。
『ダンジョンの調査は、現在も慎重に進められています』
画面に映るのは、地下に開いた巨大な穴と、白い服を着た大人たち。
教師がリモコンを手に、子どもたちへ向き直る。
「静かにね。今は大事なお話をしてるから」
小百合は、画面から目を離せなかった。
ダンジョン。
地下に現れた、異界のような場所。
一年前、突然日本各地に現れたそれは、世界を少しずつ変えていた。中に入った人は、特別な力を持つようになるという。魔力。そして魔法。
小百合は、胸の奥がきゅっと縮むのを感じた。
――魔法。
言葉を聞いた瞬間、頭の中で何かがかすかに鳴った。
懐かしい音。遠くて、確かな音。
その日の図工の時間、クレヨンを握る手が止まった。
描こうとしていたのは、花でも動物でもない。
円と線が重なった、奇妙な模様。
見たことがある気がするのに、思い出せない。
「さゆりちゃん、それなあに?」
友だちの声に、小百合ははっとしてクレヨンを置いた。
「……わかんない」
それは、正直な答えだった。
放課後、母と手をつないで帰る途中、商店街のテレビが目に入った。
また、ダンジョンのニュースだった。
『探索者と呼ばれる人々が、内部調査を続けています』
探索者。
ダンジョンに入る人たち。
小百合は、足を止めた。
「さゆり?」
「……あれ、なに?」
母は少し困った顔で、テレビを見る。
「地下にできた、不思議な場所よ。危ないから、近づいちゃだめ」
「ふうん」
そう答えながら、小百合の心は、画面の奥へ引き寄せられていた。
危ない。
その言葉に、恐れは湧かなかった。
むしろ――。
夜。布団に入って目を閉じても、眠れなかった。
頭の中で、知らないはずの光景が揺れる。
石の床。
静かな空気。
指先に集まる、温かい何か。
――これは、何?
小百合は、そっと手を握りしめた。
胸の奥で、何かが応える。
その瞬間、ほんのわずかに、空気が震えた気がした。
気のせいだ。
そう思おうとして、思えなかった。
六歳の少女は、まだ知らない。
この小さな違和感が、日常を少しずつ変えていくことを。
そして、自分がかつて――
世界でいちばん、魔法を知っていたことを。
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